第3話 最初の客は、死にそうな顔の男
「……毒、か?」
男はうわ言のように呟きながら、カウンターの端に手をかけた。
その手は白く、血管が透けて見えるほど細い。
至近距離で見ると、彼の顔色の悪さは一層際立っていた。
目の下には濃い隈が刻まれ、頬は痩せこけ、肌は土気色。
まるで一ヶ月くらい日光を浴びていないような不健康さだ。
けれど、素材の良さは隠しきれていない。
手入れされていれば輝くであろう銀髪と、知性を感じさせる高い鼻梁。眼鏡の奥の瞳は、疲労に塗りつぶされているものの、宝石のような鋭い青色をしている。
私は前世の記憶と照らし合わせ、彼をこう診断した。
「過労死寸前の社畜(ブラック企業の戦士)」であると。
「いいえ、毒ではありません。これは『ラーメン』という料理です」
私は努めて明るく答えた。
深夜の路地裏で、怪しげな屋台を引く女。警戒されるのは当然だ。
男は焦点の定まらない目で、私の背後にある寸胴鍋をじっと見つめている。
「ラーメン……聞いたことのない名だ。だが、この匂い……」
彼は鼻をヒクつかせた。
呼吸をするたびに、ニンニクと焦がし醤油、そして濃厚な豚骨の香りが彼の肺を満たしていく。
「脳が、揺さぶられるようだ。不快ではないが……暴力的だ」
「お腹、空いているんじゃないですか?」
私が尋ねると、彼はハッとした顔をした。
そして数秒後。
グゥゥゥゥゥ……キュルルル……。
雷鳴のような音が、静まり返った路地裏に響き渡った。
男の腹の虫だ。それも、一匹や二匹ではない。オーケストラ級の盛大な合唱である。
男の青白い顔が、一瞬にして茹でたタコのように真っ赤に染まった。
「……すまない。ここ数日、固形物を口にするのを忘れていた」
「数日!?」
忘れていた、というレベルではない。自殺行為だ。
この国の人々は、食事をただの燃料補給としか考えていないのか。
「座ってください。すぐにお出ししますから」
私は丸椅子を勧めた。
男は拒否する気力もないのか、あるいは空腹という本能に抗えないのか、大人しく椅子に腰を下ろした。
「メニューは一つしかありません。『特製こってり醤油豚骨』です。よろしいですね?」
「……ああ。君に任せる」
彼は力なく頷くと、カウンターに突っ伏した。
さあ、ショータイムの始まりだ。
私は錬金術で作り出した給水器から、別の鍋に湯を沸かした。
そこへ、先ほど打ったばかりの黄金色の中太ちぢれ麺を投入する。
麺が踊る。
この瞬間のために、私は公爵令嬢としての安泰な未来を捨てたのだ。
「固めがお好きですか? それとも柔らかめ?」
「……分からん。一番美味い状態で頼む」
「承知しました。じゃあ『バリカタ』で」
茹で時間は四十五秒。
この一瞬が勝負だ。
私は丼を並べ、そこに秘伝のタレ――「かえし」をレードル一杯分注ぐ。
醤油をベースに、海の魔物ケルピーの昆布や、乾燥させたホタテ貝柱の旨味を凝縮させた特製ダレだ。
次に、寸胴鍋から白濁したスープを注ぎ込む。
ジュワァァッ……!
熱々のスープがタレと混ざり合い、爆発的な香りが立ち昇る。
醤油の香ばしさと、豚骨の甘い脂の匂い。
カウンターで突っ伏していた男の肩が、ビクリと跳ねた。
「湯切り、行きます!」
私は平ざるで麺をすくい上げると、空中で大きく振った。
チャッ、チャッ、チャッ!
小気味よい音が響き、余分な水分が宙に舞う。
この「湯切り」こそが、スープの味を薄めないための最重要工程だ。
湯気を纏った麺を、スープの海へと滑らせる。
菜箸で麺を整え、その上にトッピングを乗せていく。
とろとろになるまで煮込んだオーク肉のチャーシューを三枚。
コリコリとした食感のタケノコモドキの煮付け。
彩りのグリーンオニオン。
そして中央に、半熟のコカトリスの煮卵を鎮座させ、仕上げに海苔代わりの乾燥海藻「ブラックリーフ」を添える。
「お待たせしました」
私はドンッ、と男の前に丼を置いた。
「極楽亭特製、醤油豚骨ラーメンです」
男がゆっくりと顔を上げた。
眼鏡がスープの湯気で白く曇る。
彼はそれを拭おうともせず、目の前の料理を凝視した。
「……なんだ、これは」
彼の知っている「食事」とは、あまりにもかけ離れたビジュアルだったのだろう。
澄んだスープではなく、脂の膜が張った白茶色の濁流。
その上に浮かぶ、肉と野菜と、黄金色の麺。
「スープです。いえ、麺料理ですね」
「この白く濁ったものは……」
「豚骨……魔獣ボアの骨を煮込んだスープです」
「骨だと?」
男が眉をひそめた。
やはり、野蛮だと思われたか。
しかし、彼は席を立とうとはしなかった。
本能が、目の前の丼から目を離させてくれないのだ。
「食べ方は自由ですが、まずはスープを一口飲んでみてください。それから、麺をすすってください」
「すする?」
「ええ。音を立てて、空気と一緒に吸い込むんです。その方が香りが広がりますから」
私は割り箸――端材で作った使い捨ての木の箸を彼に手渡した。
帝国のカトラリー事情はフォークが主流だが、ラーメンだけは箸でなくてはならない。
使い方が分からないようならフォークを出そうと思ったが、彼は意外にも慣れた手つきで箸を割った。
「……頂こう」
男は覚悟を決めたように、レンゲでスープをすくった。
表面に浮いた背脂の粒が、宝石のように照明を反射してキラキラと輝いている。
彼はそれを口元へと運び、
そして、ゆっくりと流し込んだ。
その瞬間。
時が止まったように、男の動きが静止した。
眼鏡の奥の青い瞳が、カッ! と見開かれる。
「――っ!?」
声にならない衝撃が、彼の表情を駆け抜けた。
眉間の皺が消え、代わりに驚愕と、そして歓喜の色が浮かび上がる。
ガタンッ!
男は勢いよく椅子を鳴らし、前のめりになった。
もう、疲れ切った社畜の顔ではない。
獲物を見つけた肉食獣のような、ギラついた目つきだ。
「……なんだ、これは。私の舌が……脳が……焼けるようだ」
「お口に合いましたか?」
「合う、合わないの話ではない! 口の中に、巨大な魔獣が飛び込んできたような衝撃だ!」
彼は早口でまくし立てると、今度は箸で麺を掴んだ。
不慣れなはずなのに、その動きには迷いがない。
ズズッ。
最初は控えめに。
ズズズッ、ズゾゾゾゾッ!
二口目からは、私が教えた通り、豪快な音を立てて麺をすすり上げた。
小麦の香りとスープの旨味が一体となって、彼の喉を駆け下りていく。
「美味い……! なんだこの食感は、この喉越しは!」
「チャーシューもどうぞ。とろけますよ」
彼は言われるがままに、分厚い肉にかぶりついた。
数時間煮込んだオーク肉は、噛む必要すらないほど柔らかい。
口の中で脂身が甘く溶け出し、赤身の繊維がほぐれていく。
「……っ!!」
男の目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「嘘だろう……。食事とは、これほどまでに……熱を持っていて、心を震わせるものだったのか」
彼はもう、喋らなかった。
ただひたすらに、麺をすすり、肉を食らい、スープを飲む。
その姿は、まるで砂漠でオアシスを見つけた遭難者のようだった。
私はその様子を、腕組みをしながら満足げに眺めた。
これよ。
これが見たかったのよ。
「毒薬」と罵られ、捨てられた私のスープ。
それが今、異国の地で、一人の男の命を救っている。
料理人として、これ以上の喜びがあるだろうか。
数分後。
男は丼を持ち上げ、最後の一滴までスープを飲み干した。
プハァッ……。
深く、長く息を吐き出し、彼は丼をカウンターに置いた。
その顔には、先ほどまでの死相は消え失せ、満ち足りた血色が戻っていた。
「……あ」
そして彼は、とんでもないことを口走った。
「も、もう一杯……いや、この麺というやつを、おかわりできないか?」
彼の胃袋は、まだ満足していなかったらしい。
私はニヤリと笑った。
「お客さん、いい食べっぷりですね。それなら『替え玉』行きますか」
「カエダマ?」
「麺のおかわりです。すぐ茹でますよ」
私は再び麺を鍋に投入した。
どうやら今夜は、予想以上に長い夜になりそうだ。
路地裏の屋台『極楽亭』。
その記念すべき最初の客は、私が想像していたよりもずっと「重い」常連客になることを、この時の私はまだ知らなかった。




