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第五話 ウィリアムの価値

 あれから一週間が経った。


 朝食の時間。いつもと変わらない穏やかな朝なのに、ウィリアムは落ち着いていられなかった。

 自分が準備をしているはずの食卓に、コーデリアが朝食を並べている。

 トーストに、バター。簡単なスープ。そして、紅茶。


「ウィル、見てて」


 コーデリアは活き活きとした声で言った。彼女はティースプーン一杯の茶葉を、丁寧にティーポットに入れる。ウィリアムから教わった通りに、淹れていく。

 ウィリアムは椅子に座ったまま、じっと彼女の手元を見つめている。その真剣な眼差しが、恥ずかしい。


「やっぱり見ないで」

「いえ、見ておりますよ」


 紅茶ができた。コーデリアは満足げに、それをウィリアムの前に置く。


「どう?」


 その表情は、純粋に「褒められたい」という願いに満ちていた。

 ウィリアムは、その紅茶を受け取った。一口飲む。温度も、茶葉の加減も……完璧ではない。だが、それはどうでもよかった。


「美味しいです」


 その言葉に、コーデリアの顔が輝いた。


「本当? 本当に美味しい?」

「ええ、本当です。最高ですよ」

「やったわ、ウィルのおかげよ! だから、その、あ、ありが……」


 コーデリアは確実に変わっている。紅茶の淹れ方を覚え、今朝もトーストを用意できた。

 しかしコーデリアはまだありがとうが言えない。感謝を言葉にすることが、それほどに恥ずかしいのだ。


 昼間。コーデリアは料理の勉強をしていた。

 ウィリアムが側で指導している。その中で、コーデリアは集中したあまり、彼のほうに顔を向けていた。


「ウィル、次は?」

「このように……小麦粉を加えてから……」


 彼の声が、優しく響く。コーデリアは真剣に頷いた。


 さらには夕方。コーデリアは自分でドレスを着替えようとしていた。

 ウィリアムがそっとコーデリアの背に回る。ドレスの背中の紐を結ぶため、何百回も繰り返してきた動きだ。

 だが、今日は違った。

 コーデリアはウィリアムの方を向く。


「手伝わないで、自分でできるから」


 それでは着替えの手伝いができない。ウィリアムが後ろに回り込もうとすると、またコーデリアがウィリアムの方を向く。


「ひとりでできるから、見ていて」


 彼女は頬を膨らませて、ウィリアムを下から睨みつける。

 コーデリアは背中に手を回した。紐の端を探る。指先が何かに触れる。掴もうとする。だが、滑り落ちる。


「あれ……?」


 もう一度。また掴めない。


「あ、あれ……」


 コーデリアの肩が、すこし落ちた。

 視線が泳ぐ。ウィリアムを見られない。


「……ウィル」


 小さな声。その恥ずかしさから逃げるように、彼女はふいにウィリアムの胸に顔を埋めた。


「お嬢様!?」


 急に抱きつかれたウィリアムは困惑する。

 だが、彼女の小さな手は、背中に向かっていた。


「ウィル……」


 彼女は彼の名を呼ぶ。その呼び方は、小さく、でも確かな願いを込めていた。

 ウィリアムは背に手を回した。紐を結ぶ。何百回も繰り返してきた動き。

 だが、今日は違う。

 コーデリアの温もりが、いつもより近い。


「お嬢様、無理をなさらず少しづつで良いのです」

「あ、ありが……」


 言うのが恥ずかしくて、彼女はウィリアムにギュッと抱きつく。その抱擁が、感謝を言い切れない彼女の全てを物語っていた。

 コーデリアはとても頑張っていた。

 ウィリアムに迷惑をかけないように、ふたりで生きていくために。

 彼女は知らない。

 その努力が、彼女自身の手で、彼を失わせてしまうことになるなんて。


 *


 夕食の準備をしながら、コーデリアが突然思いついたようにウィリアムに言った。


「ウィル、お茶会をしたいの。三人の友人と、それにね……あのお爺さん、お父様の代からお世話になっている老商人さんも招待したいの」


 ウィリアムは手を止めた。


「お嬢様が……ご自分でお茶会を企画されるのですか?」

「ええ。私も成長したんだから、自分でできることをやってみたいの。だから……手伝ってくれる?」


 その純粋な願いに、ウィリアムの胸が痛くなった。

 成長している。確実に、成長している。

 今のお嬢様を見てしまえば……老商人は、きっと公爵家行きを強く勧めるだろう。

 それは……喜ぶべきことのはずだ。

 なのに。


「もちろんでございます。素晴らしいお考えだと思います」

「本当?」

「ええ。お嬢様の成長のためにも、大切なことだと思います」


 コーデリアは満足げに微笑んだ。


「ありがとう、ウィル。それでね、その老商人さんに招待状を渡したいの」


 ウィリアムは一瞬、言葉に詰まった。


「……しかし、老商人様はご多忙ですから、お時間を取るのは難しいかと」

「でも、確か今夜来るんでしょ?」


 コーデリアは、まっすぐにウィリアムを見つめた。


「だから、その時に招待状を渡せば……」

「それは……」


 ウィリアムは視線を逸らした。

 そうだ。今夜、老商人が来る予定だ。

 ほかでもない、ウィリアムの答えを聞くために。


「お願い、ウィル」


 コーデリアの声は、純粋な願いに満ちていた。


「……かしこまりました。招待状をお預けになられれば、今夜お届けいたします」


 *


 夜。懐中時計を確認する。もうすぐ約束の時間だ。

 裏口の鍵を、静かに開ける。冷たい夜風が滑り込んできた。

 ほどなくして、一人の初老の紳士が、足音を忍ばせて入ってくる。旦那様の代からエヴァーハート家と付き合いのあった、街の豪商だった。


「ウィリアム君、息災かね」

「はい」

「君、顔色が良くなったな」


 ウィリアムは一瞬、目を逸らした。


「そう……でしょうか」

「先週までは、もっと疲れた顔をしていた。睡眠時間が増えたのか?」


 老商人の声には、安堵と喜びが混じっていた。


「それは……お嬢様が、寝るようにと」


 ウィリアムは言葉を濁した。


「ほう、お嬢様が」

「はい。『寝ている』と言っても信じてくださらず……昼間、休むよう強く言われまして」


 お嬢様の膝の上で、昼寝をさせられたなどと。あまりに恥ずかしくて、言葉にできない。

 老商人は満足げに頷いた。


「それは良いことだ。お嬢様も成長されたな」


 ウィリアムは黙って頷いた。


「……さて」


 老商人は深く息を吐いた。


「先週話した、マグナス公爵家の件だ。お嬢様が自立されたら、という条件だったが……どうかね、その後のお嬢様の様子は」


 ウィリアムは、しばらくの間、机の上で揺れるロウソクの炎を黙って見つめていた。

 あの日から一週間。コーデリアは確実に成長した。紅茶を淹れ、料理を覚え、自分で髪を梳き、ドレスも自分で着替えようとしている。

 もう、自分がいなくても……大丈夫だ。


「……お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「ああ、何なりと」

「公爵家が私を雇い入れるのではなく――」


 ウィリアムは、一瞬だけ目を伏せた。そして、再び顔を上げる。


「――このまま奴隷として私を売るとすれば、おいくらになりますか?」


 静寂。

 老商人は、一瞬、言葉の意味が理解できないという顔をした。そして次の瞬間、彼の顔が蒼白になる。


「なっ……!? ウィリアム君、何を言っているんだね! これは君が自由になる好機なのだぞ! なぜ――なぜ自ら、奴隷の値段を問う!」


 その声は、怒りではなく、悲痛な響きを帯びていた。


「君には……家族を持つ権利がある。自分の人生を歩む権利がある。それを……それを捨てるというのか!」


 ウィリアムは一瞬、目を伏せた。

 自由。家族。それは、彼がずっと諦めていた夢だった。

 でも。


「私の幸せは、お嬢様の幸せでございます」


 その声には、一切の迷いがなかった。


「月々のお給金では、お嬢様の生活を支え続けることはできません。私の私財は、もう底をつきかけています。このままでは半年も持たない。それにもし、私に何かあれば、お嬢様は路頭に迷われます」

「しかし――君に必要なのは!」

「私に必要なのは」


 ウィリアムの声が、わずかに震えた。


「私に必要なのは、お嬢様が一生安らかに暮らせるだけの、まとまった資金です」


 彼の瞳は、まっすぐに老商人を捉えている。

 「私に必要」その言葉が、全てを物語っていた。お嬢様の幸せこそが、ウィリアムにとって何よりも必要なものなのだ。


「奴隷としての私の値段は……いくらになりましょうか?」


 老商人は、絶句した。彼はゆっくりと椅子に座り直し、両手で顔を覆う。


「……君は、本当にそれでいいのか」


 しばらくの沈黙の後、老商人は顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。


「……旦那様が、今の君を見たら、何と言われるだろうな」

「きっと……お怒りになるでしょう」


 ウィリアムは、悲しげに笑った。


「約束を破ることになってしまいますから」


 老商人は、もう何も言うことができなかった。ただ、ウィリアムの瞳の奥にある、揺るぎない覚悟の色を見つめるだけだった。


「……公爵家に、打診してみよう。返事が来るまで、少し時間をくれ」


 その声は、ひどく疲れたように響いた。


 老商人が立ち上がろうとした時、ウィリアムは懐から一通の封筒を取り出した。


 老商人は、怪訝そうにそれを受け取った。


「これは?」


「お嬢様からの招待状です」


 ウィリアムの声は、静かだった。


「今度お茶会を開かれるそうで……ぜひお越しくださいとのことです」


 老商人は封筒を開いた。中には、コーデリアの丁寧な文字で書かれた招待状が入っていた。

 一文字一文字、懸命に書いたであろうその文字。少し歪んでいるが、心のこもった言葉が並んでいる。


「……」


 老商人は、深くため息をついた。


「そんな場合じゃないだろうに」


 その言葉は、誰に向けられたものかわからなかった。ウィリアムに向けてか。コーデリアに向けてか。それとも、自分自身に向けてか。

 呆然とした足取りで帰っていく老商人を、裏口から見送る。冷たい夜風が、ウィリアムの頬を撫でていった。

 ウィリアムは裏口の鍵を閉めた。

 彼の心は、もう決まっていた。


「コーデリア様……」


 小さく、その名を呼ぶ。


「これで、いい」


 お嬢様の未来のために。旦那様の遺言を、どちらも守るために。自分という「財産」を、最も高く売る道へ。


「お嬢様は、生活の不安から解放される。私は……マグナス公爵家でも、働き続けることができる」


 もう二度と、自由になることはない。もう二度と、お嬢様のそばに戻ることはできない。


「……それで、いい」


 雲間から、月が顔を出した。

 その光が、隣の寝室で幸せに眠るコーデリアを優しく照らす。


「お嬢様は……お茶会を、楽しみにしておられる」


 自分の成長を誇りに思っている。二人でこれからも一緒に生きていけると信じている。


「お嬢様は……喜んでくださるでしょうか?」


 ウィリアムは、窓の外を見た。月明かりが、部屋に差し込んでいる。

 その光が、彼には眩しかったので、静かにカーテンを閉めた。

 月は二人を等しく照らさない。

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