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第四話 奴隷

 その夜。ウィリアムは、コーデリアの部屋の扉の前に立っていた。中の様子を、息を殺してうかがう。かすかな寝息が聞こえてきて、彼は静かに安堵のため息を漏らした。


「……ようやく、お休みになられたか」


 お嬢様は...ウィリアムの胸に、先ほどの出来事が蘇る。お嬢様が「ウィル」と呼んでくださった声。抱きしめてくださった温もり。


「お嬢様...」


 ウィリアムは小さく呟いた。お嬢様は...変わられている。成長されている。もしかすると...お嬢様は、もう...私がいなくても...その考えが、ウィリアムの胸に重くのしかかる。いや、違う。私がいるから、お嬢様は本当の意味で自立できないのかもしれない。私がいるから、お嬢様は外の世界へ踏み出せないのかもしれない。


 *


 ウィリアムは懐中時計を確認した。もうすぐ約束の時間だ。裏口の鍵を静かに開ける。冷たい夜風が滑り込んできた。ほどなくして、一人の初老の紳士が、足音を忍ばせて入ってくる。旦那様の代からエヴァーハート家と付き合いのあった、街の豪商だった。


「ウィリアム君、息災かね」

「ええ、お変わりなく」


 ウィリアムは小さな声で応じ、彼を自室へと招き入れた。質素な使用人部屋。机と椅子、簡素なベッドだけが置かれた部屋に、老商人は何も言わずに腰を下ろす。


「相変わらず、気を張りすぎだよ、君は」


 老商人は、ウィリアムの完璧な執事服を見て小さく首を振った。深夜だというのに、一つの乱れもない。襟元、袖口、すべてが昼間と変わらぬ完璧さだ。


「こんな夜中まで、その格好か。せめて楽な服に着替えればいいものを」


 老商人自身は、上質だが実用的な商人の服を着ている。派手な装飾はない。深く刻まれた皺には、長年の商売の苦労と、それを乗り越えてきた誇りが滲んでいる。温和な表情だが、時折見せる鋭い眼光が、彼が只者ではないことを物語っていた。


「これが私の務めですから」


 ウィリアムは静かに答える。老商人は、机の上の帳簿を見て満足げに頷いた。


「今月も完璧な仕事だ。ありがとう」


 彼は小さな革の袋を机に置く。中から、金貨のぶつかり合う重い音がした。


「さて、君とお嬢様は最近どうかね?」


 老商人の声に、わずかな心配の色が混じる。


「…相変わらず、です」


 ウィリアムは短く答えた。


「あの子は、世間を何も知らない。料理も、買い物も、何一つできない。私がいなければ、一日も生きていけないでしょう」

「君がいなければ、か」


 老商人は小さく息をついた。


「それは、お嬢様にとって幸せなことなのかね?」

「…わかりません」


 ウィリアムは目を伏せる。


「ですが、今の私にできることは、彼女を守ることだけです。それ以外に、私には何も」


 ウィリアムは、言葉を続けた。


「…正直に申し上げます。私の蓄えも、そろそろ限界です。あと半年、いや、もっと早く底を尽きるかもしれない」


「そうか」


 老商人は深く頷いた。


「君の仕事ぶりは完璧だが、深夜まで働いては体力にも限界がある。お嬢様の生活を維持するだけで精一杯だろう」

「はい」


 ウィリアムは小さく答えた。


「それなら、良い話がある」


 老商人は革の袋を指差した。


「君にとっても、お嬢様にとっても、な」


 彼は真剣な表情で続けた。


「単刀直入に言おう。北の鉱山をいくつも持っておられる、あのマグナス公爵家が、君を執事長として迎え入れたいそうだ」


 ウィリアムの眉が、わずかに動いた。マグナス公爵家。王家にも連なる大貴族だ。


「待遇は、破格だ。今の君の稼ぎの…いや、比べるのもおこがましい。執事長としての給金だけでなく、成果に応じた報奨金も出る。その金があれば、コーデリアお嬢様が慎ましくも安定した暮らしを送れるだけの仕送りができるだろう。……どうだね? 悪い話ではあるまい」


 老商人の目は、真剣だった。ウィリアムの才能を惜しみ、彼自身の幸せを心から願ってくれている。

 ウィリアムは、しばらくの間、机の上で揺れるロウソクの炎を黙って見つめていた。

 脳裏に浮かぶのは、あの日のこと。病床の旦那様が、弱った手で自分の手を握りしめて言われた言葉。


「……旦那様」


 小さく、亡き主の名を呼ぶ。


「『娘を幸せにしてやってくれ』と、おっしゃいました」


 公爵家に行けば、その約束が果たせる。


「けれど……『そばにいてやってくれ』とも、おっしゃった」


 弱った手で、自分の手を握りしめながら言われた言葉。その手の温もりを、今も忘れることができない。公爵家に行けば、その約束を破ることになる。ここに留まっていても、いずれはお嬢様にも苦労をかけるのではないか。


「どちらを選んでも……半分しか、果たせない」


 その時、ウィリアムの脳裏に、今夜のコーデリアの姿が浮かんだ。「ウィル」と呼んでくださった声。「ありがとう」と何度も繰り返されていた姿。お嬢様は...成長されている。お嬢様は...もう、私がいなくても...いや、私がいるから、お嬢様は本当の意味で自立できないのだ。ならば...ウィリアムは顔を上げた。真っ直ぐに、老商人を見つめ返す。


「お話、お受けしたいのですが...」

「おお、それは...!」


 老商人の顔が、明るくなる。しかし、ウィリアムの次の言葉で、その表情は凍りついた。


「...ですが、申し上げなければならないことがあります」


 ウィリアムは、深く息を吸った。


「お嬢様は...まだ、世間を何も知りません。料理も、買い物も、家計の管理も...何一つできない」


 机の上で、ロウソクの炎が揺れる。


「紅茶を淹れる努力をされている。髪を梳く意志を見せてくださっている。ですが、それだけでは...」


 ウィリアムの声が、かすかに震えた。


「私が、お嬢様のもとを離れたら...お嬢様は、どうなるのでしょうか」


 彼は自分の手を見つめた。1年半、毎日毎日、この手でお嬢様の世話をしてきた。髪を梳き、衣装を整え、紅茶を淹れ、食事を用意する。その全てが、習慣になっている。


 お嬢様は、その習慣に頼りきっている。


「...わかりました」


 ウィリアムは、ゆっくり顔を上げた。


「ご提案をお受けすることはできません。申し訳ございません」


 老商人は眉を上げた。


「理由は?」


「お嬢様が、一人で生きていける準備ができるまで...私は、ここに留まらなければなりません」


 ウィリアムの表情は、静かだったが、その瞳には揺るがぬ決意が宿っていた。


「君は...本当に、それでいいのか?」


 老商人の声は、複雑な響きを帯びていた。


「はい」


 ウィリアムは、迷いなく答えた。

 老商人は、長くウィリアムを見つめていた。やがて、深く息をついた。


「わかった。ならば、こうしよう。お嬢様が、一人で生きていけるようになったとき。その時に改めて、君に話を持ちかけよう」

「...ですが」

「いいや、聞きたまえ。君は今、何を欲しているのだね?」


 老商人は、ウィリアムの眼をじっと見つめた。


「私は...お嬢様の役に立ちたいだけです」

「そうか。ならば、聞こう。君は、どうすればお嬢様の本当の役に立つことができるのだね?」


 ウィリアムは答えられなかった。


「君は奴隷身分だ。生きた財産として、どこへでも売られる可能性がある。そのような身分で、本当にお嬢様を守ることができるのか?」


 老商人の言葉は、重く響いた。


「公爵家で働けば、君は十分な報酬を得ることができる。その金で、奴隷身分から自分を買い取ることも可能になる。そうすれば、君は本当の意味で自由になり、お嬢様を守ることができるのではないか」


 老商人は静かに頷いた。


「ならば、その約束だ。お嬢様が真に自立したとき、君は公爵家の話を受けなさい。そして、自分を買い取り、本当の意味で自由になるのだ」


「なに、あのお嬢様のことだ。そう簡単には変わらないよ。考える時間はたっぷりあるさ」


 老商人はそう笑うと、ふたりの小さな屋敷をあとにした。


 *


 裏口の鍵を閉め、ウィリアムは自室に戻る。机の引き出しを開け、赤インクで修正が重ねられた家計簿を取り出す。ページを捲るたびに、赤い数字が増えていく。


「これでは......あと半年も、持たない」


 小さく呟く。まるで、彼の命が削れていく音のようにも思えた。彼は静かに引き出しを閉じた。

 椅子の背もたれにかけてあった、コーデリアの日傘を手に取る。先日、ほつれを見つけたそれを、明日お嬢様にお返しするために、繕っておこうと思っていたのだ。


 ウィリアムは針と糸を取り出し、ロウソクの明かりの下で、まるで祈るように、一針一針、丁寧に縫い始めた。白いレースの縁を、銀色の糸で繕っていく。


「コーデリア様...」


 かすかに、その名を呼ぶ。

 お嬢様が、一人で生きていけるようになるまで。それまでは...私ができることを、全てする。

 料理を教えよう。掃除も。買い物の仕方も。家計の管理も。


 お嬢様が、私がいなくても困らないように。

 その努力が、やがて自分たちの別れを招くことになるとは、ウィリアム自身、気づいていなかった。

 月明かりが、部屋を静かに照らしていた。同じ月明かりが、隣の部屋で幸せに眠るコーデリアをも照らしている。

 二人は、同じ月を見ている。でも、見えている未来は、まったく違っていた。

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