第三話 コーデリアの自覚
月明かりだけが窓から差し込む、冷たい銀色の光。コーデリアは、ティールームから帰ってきてからずっと、ベッドの上で膝を抱えたまま動けずにいた。
静かすぎる。いつもなら聞こえてくる階下の物音が、今夜はない。まるで、世界にたった一人取り残されてしまったかのような静寂。
その静寂の中で、友人たちの言葉が、亡霊のように何度も何度も蘇ってくる。
『彼にも人生があるのよ』
『街の宝石商の旦那様なんて、うちの娘の婿にって――』
『稼いだ金でとっくに自分を買い取って自由になっているはず』
コーデリアは膝を抱える腕に、さらに力を込めた。爪が腕に食い込んで痛い。
「……違う」
かすれた声が喉から漏れた。
「違う、わ。ウィリアムは……ウィリアムは、そんな」
けれど、その先の言葉が出てこない。どうして、そう言い切れるのだろう。彼には、彼自身の人生がある。彼には、幸せになる権利がある。
「でも……でも、私は……」
時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえる。カチ、カチ、カチ、と。
喉が、カラカラに渇いていた。涙を流しすぎたせいかもしれない。
コーデリアはふらつきながら立ち上がり、部屋の扉を開けた。
「……水が、欲しい」
いつもなら、枕元には必ず冷たい水の入った水差しが置かれている。けれど今日は、ウィリアムに夜の準備を頼むことさえ忘れていた。
暗い廊下へと踏み出す。月明かりに照らされて青白く光る廊下。壁には、エヴァーハート家の先祖たちの肖像画が並んでいる。
「……ごめんなさい」
曾祖母の肖像画の前で、小さく呟く。
「私、何もできなくて……何も、守れなくて……」
その先に、父の肖像画がある。
コーデリアは、その前で立ち止まった。
「お父様……覚えてる?」
父の優しい眼差しが、肖像画の中から見つめている。
「お父様が亡くなる前……何か言ってた?」
記憶の中で、父の声が蘇る。
『コーデリア、どんな時も貴族らしくありなさい。誇りを忘れてはならない』
誇り。コーデリアは、その言葉を胸に刻んで生きてきた。
でも、今の私に……誇りなんて……
「お父様……私、何も守れなかった……」
裸足のまま床を歩くと、足の裏から床の冷たさが這い上がってくる。
ようやくたどり着いたキッチンは、冷たい闇に沈んでいた。
「水差しは……どこ?」
薄闇の中で手を伸ばす。しかし、指先に触れるのは冷たい陶器の感触ばかり。
「これ、かしら? 違う……これは……」
いつもなら、ウィリアムが一言伝えれば、すぐに持ってきてくれる。
「ただ、水を飲みたいだけなのに」
水を飲む。ただそれだけのことが、一人ではできない。
「私は……何もできない」
膝が、がくりと折れた。
「何一つ……自分だけでは、何一つ……」
コーデリアは自室に戻る気になれず、まるで夢遊病者のように、静まり返った暗い屋敷をさまよい始めた。足は無意識に、ある場所へと向かっていた。
ウィリアムの部屋。
その扉の前で、コーデリアは立ち止まった。扉に手をかけようとして――
「……ウィリアム」
その名を呼ぼうとした瞬間、手が空中で凍り付いた。
「もし……もし、いなかったら?」
声が、震える。
「もし、もう……この屋敷のどこにも、いないのだとしたら?」
友人たちの言葉が、今度はより鮮明な映像となって彼女を苛んだ。
――どこか豪華な屋敷の、大理石の広間。
――新しい仕着せに身を包んだウィリアムが、自分ではない誰か――若く、美しく、裕福な令嬢に、あの優しい笑みで傅いている。
「やめて……やめて……考えたく、ない……」
――その光景は、かつて自分とウィリアムの間にあったものと、まったく同じで。
――けれど、そこに自分の居場所はない。
「いや……いや、いや……!」
心臓が、激しく波打った。
生活の破綻よりも、借金の取り立てよりも、その光景が何より恐ろしかった。自分が見捨てられること。彼の世界から、自分が消えてしまうこと。
「私は……私は、どうしたら……」
孤独という名の冷たい水が、足元から這い上がってくる。それは足首を掴み、膝を掴み、やがて全身を飲み込もうとする。
息ができなかった。
コーデリアは、その場に崩れ落ちた。冷たい床に膝をつき、ウィリアムの部屋の扉に額を押し当てる。
「ウィリアム……」
かすれた声で、その名を呼ぶ。
「ウィリアム……お願い……どこにも、行かないで……」
声を殺して泣いた。扉の向こうに、彼がいるのかどうかさえ、確かめることができないまま。
涙が床に落ちて、小さな染みを作る。その染みが月明かりに照らされて、まるで小さな星のように光っていた。
*
コーデリアが目を覚ましたのは、朝の陽光が差し込む時間だった。
彼女は窓辺に目をやり、驚いた。
「え?」
机の上に、白い薔薇が一輪置かれている。朝露に濡れた花びらが、陽光を受けて輝いていた。
ウィリアムが...また、彼女の好きな花を...
コーデリアは薔薇を手に取り、優しく微笑む。
彼は、いつもこうして彼女の好みを覚えていてくれる。本当に...素晴らしい執事だ。
その時、ドアがノックされた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
ウィリアムの声だ。
「ええ、起きたわ」
ウィリアムが部屋に入ってくる。彼の表情は、いつも通り穏やかで完璧だ。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、ウィリアム」
コーデリアはウィリアムを見つめた。彼の顔は、いつも通り美しい。でも、何か違う気がする。
よく見ると、目の下に薄いクマができている。
「ウィリアム...あなた、疲れているの?」
「いいえ、お嬢様」
ウィリアムは微笑んだ。
その微笑みには、深い愛情が込められていた。でも、コーデリアには、その愛情は見えない。彼女に見えるのは、ただの完璧な執事の微笑みだけ。
でも、コーデリアにはわかってしまった。
彼は疲れている。
なぜ...? 彼は、夜中に何をしているのだろう...?
コーデリアは、友人たちの言葉を思い出した。
「感謝を言葉にして伝えなさい」
「彼にも人生があるのよ」
「心の中で思っているだけでは、伝わらない」
コーデリアの心に決意が芽生える。
「ウィリアム」
コーデリアは真剣な表情で尋ねた。
「はい、お嬢様」
「あなたは、夜中に何をしているの?」
ウィリアムは一瞬、言葉を失う。
「お嬢様...」
「隠さないで。あなた、ちゃんと寝ているの?」
ウィリアムは黙って立っている。
「教えて、ウィリアム」
コーデリアの声には、優しさが込められていた。
ウィリアムは深く息を吸い、静かに答えた。
「夜は商人からの仕事をしております」
コーデリアは驚く。
「会計や契約書の確認などです」
コーデリアは言葉を失った。
「それでは...どのくらい寝られるの?」
「……」
「嘘は言わないで」
「……三時間ほどでございます」
コーデリアの声が震えた。
「それでは...足りないわ...」
「いえ、これで十分でございます」
ウィリアムは微笑んだ。
コーデリアは申し訳なさでいっぱいになる。
私のために...彼は、こんなにも...
友人たちの言葉が、今ならわかる。感謝を伝えなければ。ちゃんと言葉にしなければ。
「ウィリアム...」
コーデリアは彼を見つめた。
言いたいことがある。喉まで出かかっている。
ありがとう。
その言葉が、喉の奥で震えている。
でも、どう言えばいいのかわからなかった。
貴族として育てられた彼女は、使用人に感謝を伝える言葉を、教わったことがなかった。
「そう、わかったわ」
「……お嬢様、朝食の準備ができております」
ウィリアムは深々と頭を下げ、部屋を出ていく。
コーデリアは一人、部屋に残された。
彼女は窓辺に近づき、白い薔薇を見つめた。
この薔薇も...カーテンの位置も...すべて、ウィリアムが私のために...
でも、彼は...自分のことを犠牲にして...
友人たちの言葉が、コーデリアの心に響く。
「彼にも人生があるのよ」
「家族とか、結婚とか、自分の幸せとか」
「彼はいつか、自分の人生を選ぶかもしれない」
コーデリアは薔薇を胸に抱きしめた。
私は...このままでいいの?ウィリアムに、すべてを任せて...彼を犠牲にして...
でも、私には何ができるの...?
...いえ、違う。
コーデリアは顔を上げた。
これまで、私は逃げていた。現実から。ウィリアムの気持ちから。でも、もう逃げない。
ウィリアムと話し合おう。そう、コーデリアは決意した。
食卓には、完璧にセッティングされた朝食が並んでいる。パン、バター、ジャム、そして温かいスープ。
ウィリアムは、いつも通り静かに立っていた。
「ウィリアム」
コーデリアは彼を見つめる。
「はい、お嬢様」
「あなたは...いつもこんなに完璧に、私のために尽くしているのね」
ウィリアムは深々と頭を下げた。
「お嬢様のお役に立てて、光栄でございます」
コーデリアは椅子に座り、紅茶を一口飲んだ。
温度は完璧だ。いつも通り。
本当は「美味しい」と言いたかった。でも、その言葉は出てこない。貴族が使用人の仕事を褒める言葉として、父から教わったのは――
「いつも通りね、ウィリアム」
それが、彼女の精一杯の褒め言葉だった。
ウィリアムは静かに頭を下げる。
でも、今日は何か違う。この紅茶が、とても重く感じる。
ウィリアムが、睡眠時間を削って私のために働いている...その事実が、重くのしかかる。
「ウィリアム、座って」
コーデリアは突然言った。
「お嬢様?」
ウィリアムは驚く。
「あなたも、一緒に朝食を食べましょう」
「それは...お嬢様、私は執事ですので...」
「座って」
コーデリアの声には、強い意志が込められていた。
ウィリアムは戸惑いながらも、コーデリアの向かいに座る。
「お嬢様...」
「あなたは、いつも私のために尽くしてくれている」
コーデリアは真剣な表情で言った。
「でも、あなた自身のことは...考えているの?」
ウィリアムは黙っている。
「あなたには...家族が欲しいとか、結婚したいとか...そういう気持ちはないの?」
ウィリアムは一瞬、言葉を失った。
「お嬢様...」
「教えて、ウィリアム」
コーデリアは彼を見つめる。
ウィリアムは深く息を吸い、静かに答えた。
「家族...は、欲しいと思ったことがございます」
「そう...」
コーデリアの心が、痛む。
「でも、私にはそれよりも大切なものがございます」
「大切なもの...?」
「お嬢様の幸せでございます」
ウィリアムは真剣な表情で言った。
「旦那様の遺言で、お嬢様を守ることが私の全てでございます」
コーデリアは涙ぐんだ。
「でも...それでは、あなた自身の幸せは...?」
「お嬢様が幸せでいてくださることが、私の幸せでございます」
ウィリアムは微笑む。
その微笑みには、深い深い愛情が込められていた。
でも、コーデリアには、それが見えない。彼女に見えるのは、ただ「寂しさ」だけ。
愛情を、彼女は寂しさと誤解していた。
コーデリアは立ち上がり、ウィリアムに近づいた。
「ウィリアム...」
彼女は、彼の手を取る。
「お嬢様...!」
ウィリアムは驚いた。
(あなたは...本当に、素晴らしい人)
(私は...今まで、あなたの献身を当然だと思っていた。でも、それは間違いだった)
「お嬢様...?」
(あなたには、あなた自身の人生がある。それを犠牲にするべきじゃない)
ウィリアムは黙って、コーデリアを見つめる。
(私は...もっと自分でできることを増やさないと)
(あなたに、すべてを任せるのではなく...少しでも、自分でできることを)
(ありがとう。ちゃんと言わないと...…そして、ごめんなさいって)
言わなくては、感謝を伝えなくては。
でも、なんと言えばコーデリアは気持ちが伝わるかわからない。
コーデリアは微笑む。
でも、これではいつもと変わらない。
椅子に座っているウィリアムの手を取ってみた。
「あのね、ウィル」
とっさに幼い呼んでいた名前が出てしまう。
「どうされました、お嬢様?」
手を強く握ってみたが、感謝は伝わらないと思った。
ウィリアムから貰ったものが多すぎる。
だから、ウィリアムを抱きしめてみた。
「お嬢様!?」
少しだけ伝わった気がした。
「慌てるウィルなんて初めて見たわ」
もっと伝えないと。
この溢れる感謝を、言葉にのせられない気持ちを。
言葉にできないなら直接渡せば伝わるだろうか?
この唇から。
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