第二話 白薔薇のティールーム
午後、コーデリアは久しぶりの外出に心を躍らせている。
「ウィリアム、準備はできたわ」
「はい、お嬢様。お召し物も完璧でございます」
ウィリアムが、コーデリアのドレスの裾を整える。彼の動作は、いつも通り完璧だ。
「マリーたちとお茶をするのよ」
「白薔薇のティールームでございますね。お嬢様がお喜びになられるのは、私も嬉しく思います」
コーデリアは、ウィリアムの言葉に微笑む。彼女の心は、友人たちとの再会で満たされている。
辻馬車が、白薔薇のティールームの前に止まる。
ここは、この街の令嬢たちにとって特別な場所だ。没落貴族も、裕福な商人の娘も、この店では対等に席を並べることができる。結婚の話、商売の話、誰かの噂話。情報が集まり、人脈が生まれる。ここに来ることは、社交界とのつながりを保つことを意味していた。
「お嬢様、ここでお待ちしております」
「ええ、よろしくね」
コーデリアは辻馬車を降りて、ティールームへと向かう。
ウィリアムは、辻馬車の横に立ったまま、静かに目を閉じた。
旦那様の遺言が、今も心に響いている「コーデリアを頼む。あの子だけは、幸せになってほしい」と。
お嬢様の幸せのために。それが、自分の全てだ。どんなに疲れていても、どんなに眠れなくても、この方の笑顔が見られれば、それで十分なのだから。
*
ティールームに足を踏み入れたコーデリアは、店内を見回した。優雅な談笑の声が満ちている。ある席では婚約の話、別の席では商会の噂、また別の席では誰かの没落の話。ここに来られることが、まだ社交界の一員である証だ。
店の奥のテーブルに、三人の友人を見つける。
コーデリアの幼い頃からの友人、マリー、セシリア、アニエス。今はそれぞれの道を歩んでいる。
「コーデリア!」
華やかな巻き髪のセシリアが、明るく手を振る。新興貴族の令嬢で、ロマンス小説が大好きだ。キラキラと輝く瞳には、いつも夢が詰まっている。
「みんな、久しぶり!」
活発なショートヘアのアニエスが立ち上がる。宮廷に勤める父を持ち、自分も宮廷の社交に慣れている行動派だ。明るく元気な笑顔が、彼女の快活な性格を表している。
そして、落ち着いた雰囲気のマリーが、穏やかに微笑む。元貴族で今は商人の妻。現実的で自立心が強い。実用的な髪型と鋭い目が、彼女の知性を物語っている。
「元気そうね、コーデリア」
「ええ、元気よ。ウィリアムがいつも通り完璧にやっているもの」
コーデリアは、椅子に座る。
テーブルの上には、美しい紅茶とお菓子が並んでいた。
「あら、髪型が素敵! ウィリアムがセットしてくれたの?」
「ええ、ウィリアムが全部やっているの」
「お肌も綺麗ね。やっぱりウィリアムがいるからね」
コーデリアは、嬉しそうに頷く。
「本当に、ウィリアムは完璧ね。朝食も、身支度も、散歩の準備も...全部やっているの」
みんな、没落した彼女のことを心配してくれているのだろう。
でも大丈夫だと、コーデリアは言っている。
「ウィリアムがいるから。何も困っていないの」
しかし、マリーの表情が、少しずつ曇っていく。
「コーデリア、ちょっと話があるの」
マリーの声のトーンが変わる。コーデリアは、不思議そうに彼女を見つめる。
「何?」
「あなたの執事ウィリアムがどれだけ優秀か、分かっているの?」
「街の商人たちの間では噂になっているわ。『エヴァーハート家の執事は、王室にも劣らない』って。実際、高待遇での誘いもたくさん来ているはずよ」
セシリアが身を乗り出す。
「街の宝石商の旦那様なんて、『うちの娘の婿に』って、すごい額の支度金を提示していたわ!」
「え...」
コーデリアは息をのむ。
「それでもウィリアムは断ったんですって! まるで物語の騎士様みたい! あなたへの愛ゆえなのよ、きっと!」
アニエスが腕を組んで言う。
「愛だけじゃないわよ。うちの父も言ってたわ。『あれほどの男なら、稼いだ金でとっくに自分を買い取って自由になっているはずだ』『なぜいつまでも没落貴族に仕えているのか不思議だ』って」
コーデリアは何も言えない。
「みんな、彼がいついなくなってもおかしくないって思ってるわよ。それでも彼は、あなたのもとにいる。その意味を、あなたは考えたことがある?」
コーデリアは何も答えられない。
「あなた、執事に感謝したことある?」
「感謝...? ええ...している、つもりよ」
「言葉にした?」
感謝...? コーデリアは戸惑った。彼女は心の中で感謝しているのに...でも、言葉にするって...貴族の令嬢が執事に感謝の言葉? それは...父の教えに反する...
「それに、あなた自身は何ができるの?」
マリーの問いかけに、コーデリアは口ごもった。
「紅茶、自分で淹れたことある?」
「それは...ウィリアムが...」
「朝食の準備は?」
「ウィリアムが...」
「髪を自分で梳いたことは?」
「...ウィリアムが...」
一つ一つの質問が、コーデリアの胸に突き刺さる。
「全て彼に頼りきりで、感謝の言葉も言わない。それで、あなたは本当にいいの?」
マリーの言葉が、静かに響く。
「言わなきゃ伝わらないのよ、コーデリア。あなたの心の中の感謝は、彼には見えない」
でも、彼女には理解できない。
「でも、私は...微笑めば、伝わっているはずよ」
「本当に?」
マリーの鋭い視線が、コーデリアを射抜く。
セシリアが、キラキラした瞳で夢見るように言う。
「でも、執事との恋って...まるで物語のようだわ! 運命よ!」
「恋...?」
「そうよ!身分違いの恋! 月明かりの下で愛を告白するのが最高にロマンチックなの! コーデリアも、きっとそうよ!」
アニエスが、腕を組んで力強く言う。
「とにかくやってみることよ! 男性は胃袋で掴むの! 私が簡単なレシピを教えてあげるわ!」
マリーが、やれやれといった様子で首を振る。
「セシリア、アニエス、ちょっと待ちなさい。話がずれているわ」
セシリアが何か言おうとするが、マリーはそれを手で制する。
「問題は、コーデリアがウィリアムに感謝を伝えようとせず、自分で何もしようとしないこと。恋だの料理だの、そんなものはもっと先の話よ。まずは、自分の足で立つことから始めなさい」
マリーは、コーデリアを真っ直ぐに見つめる。
「まずは現実を見なさい、コーデリア。あなたは紅茶一杯、自分で淹れられるの?」
「それは...」
「私は商人の妻として、毎日汗水流して働いているわ。料理も、掃除も、洗濯も、全部自分でやっている。でも、あなたは何もできないでしょう?」
「...でも、私にはウィリアムがいるもの」
「それが問題なのよ。あなたは彼に完全に依存している。自分では何一つできない。それで本当にいいと思っているの?」
マリーは深呼吸をする。そして、最も言いにくいことを口にした。
「そもそも、あなたはウィリアムにお給金を払っているの?」
「お給金...? それは、お父様の遺産で...」
マリーの目が鋭くなる。
「エヴァーハート家の財産は、もうとっくに底をついているはずよ」
「え...」
「今のあなたに収入はない。毎日食べている食事や、その綺麗なドレスのお金は、どこから出ていると思うの?」
「気づいていないのね...。彼がこれまで貯めてきた私財で、あなたの生活を支えているのよ。あなたは、ウィリアムに養ってもらっているの」
「そんな...」
コーデリアの顔が青ざめる。
「あなたは、彼に何も返していない。感謝も、労いも、何もない」
「でも...私は...」
「心の中で思っているだけでは、伝わらないのよ」
マリーは立ち上がった。
「目を覚まして、コーデリア。あなたはもう貴族じゃない。執事に依存しすぎている」
「依存...?」
「彼がいなくなったら、あなたは一日も生きられないわよ」
「嫌だ...そんなこと...」
コーデリアの心は混乱していた。みんなが言ってることが、よくわからない...なぜそんなに怒っているの...?ウィリアム...
「ごめんなさい...私、帰らないと...」
コーデリアは立ち上がろうとする。その瞬間、セシリアが慌てて彼女の手を握った。
「待って、コーデリア!」
「私たちは、あなたを責めたいわけじゃないの」
「そうよ、ただ、現実を見て欲しいだけなのよ」
マリーがコーデリアの肩にそっと手を置く。
「座って、コーデリア。お願い」
三人の優しい表情に、コーデリアはゆっくりと椅子に座り直した。
「私が教えてあげるわ。少しずつでいい。紅茶の淹れ方から始めましょう」
コーデリアは不安そうに俯く。
「まずは簡単なことから。自分でできることを増やしていきましょう」
マリーが具体的な提案をする。
「それに、コーデリア。お父様の代からお世話になっている老商人さん、まだ顔を出してくださってるでしょう?」
「ええ...時々、ウィリアムと話をしているみたい」
「あの方も心配しているはずよ。あなたが成長する姿を見せられれば、きっと喜んでくださるわ」
コーデリアは小さく頷いた。
「私が教えてあげるわ」
「私も!」
セシリアが明るく言った。
「ロマンチックな料理のレシピ、たくさん知ってるわ!」
「私も手伝うわ」
アニエスも力強く頷く。
「実践的なことなら、任せて」
コーデリアは、友人たちの優しさに胸が熱くなった。
「みんな...」
「私たちは、あなたの友達よ」
マリーが優しく言う。
「あなたが幸せになって欲しいの。だから、厳しいことも言うわ」
「ありがとう...」
彼女は小さく呟いた。
「でも、今日はもう帰るね」
コーデリアは友人たちに別れを告げ、ティールームを出た。
三人は、コーデリアの後ろ姿を見送った。店の外で、ウィリアムが辻馬車の手配をしている姿が見える。
しばらくの沈黙の後、マリーが深くため息をついた。
「……言いすぎたかしら」
「いいえ、必要なことだったわ」
アニエスが力強く答える。
「でも、あの子…本当に傷ついてたわね」
セシリアが心配そうに呟く。
「だからこそ、私たちにできることがあるはずよ」
マリーが真剣な表情で二人を見た。
「私、夫に相談してみる。ウィリアムさんのような優秀な執事に、もっとふさわしい働き口があるんじゃないかって」
「私は父に聞いてみるわ。宮廷で優秀な執事を探している貴族がいないか」
アニエスも頷く。
「私は…」
セシリアが少し考えて、キラキラした瞳で言った。
「私は、社交界でお話ししてみるわ! あの二人のこと、まるで物語のように素敵な話として!」
マリーとアニエスが顔を見合わせる。
「……それ、役に立つの?」
「わからないけど…でも、何もしないよりはいいでしょう?」
セシリアが胸を張る。マリーは小さく笑った。
「そうね。それぞれ、できることをやってみましょう」
三人は頷き合った。
友情とは、時に厳しい言葉をかけること。そして、その後で手を差し伸べること。
窓の外では、コーデリアを乗せた辻馬車が、ゆっくりと走り去っていった。
*
コーデリアがティールームから出ると、店の前で待っていたウィリアムが辻馬車の御者に銀貨を渡しているのが見えた。
今まで一度も気にしたことのなかった光景。自分たちの移動にすら「お金」がかかっている。そのお金を、ウィリアムが払っているという事実。
ウィリアムが振り返り、いつも通り静かに立っている。
「お嬢様、早かったですね。どうかしましたか?」
ウィリアムの声が聞こえる。コーデリアは、彼を見上げた。
依存している...何もできない...感謝を伝えていない...友人たちの言葉が、頭の中を巡っている。
「...帰りましょう」
コーデリアの声は、かろうじて聞き取れるほど小さい。
「はい、すぐに」
ウィリアムは、コーデリアを辻馬車に乗せた。
彼女は、俯いたまま何も言うことが出来ない。今、彼の顔を見たら、どんな顔をしていいか分からない。
ウィリアムは何も尋ねない。ただ静かに、彼女の隣に座る。
馬車が動き出す。
コーデリアの心の中では、友人たちの言葉が響き続けている。
彼女は...本当に、何もできないのだろうか?ウィリアムがいなければ...彼女は...
でも、友人たちが手伝ってくれると言った。少しずつ、自分でできることを増やせばいい。
コーデリアは、小さく決意した。
紅茶を淹れることから始めよう。ウィリアムのように完璧にはできないかもしれない。でも...やってみよう。そう、彼女は心の中で誓った。
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