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第一話 ふたりの関係

 朝の光が窓から差し込む、小さな屋敷の食堂。

 コーデリア・エヴァーハートは、白いリネンのテーブルクロスが敷かれた食卓に座り、朝食を待っている。没落してからもう一年半が経つというのに、彼女の振る舞いは相変わらず貴族のそれだ。背筋を伸ばし、優雅に椅子に腰掛ける姿は、まるで今でも領地を持つ令嬢のよう。

 テーブルには、完璧にセッティングされた食器が並ぶ。銀のフォークとナイフ、繊細な模様の入った陶器の皿。すべてウィリアムが用意したものである。


「ウィリアム、紅茶が温いわよ」


 コーデリアは口に含んだ紅茶を一口で吐き出し、不機嫌そうに眉をひそめた。


「申し訳ございません、お嬢様」


 ウィリアム・グレイは慌てて紅茶のカップを取り上げ、キッチンへと向かった。

 新しい紅茶を淹れる。カップを手に取る。その時、疲労で一瞬、手が滑りそうになった。

 ウィリアムはすぐに持ち直す。完璧でなければならない。

 慎重に温度を確かめる。熱すぎれば、お嬢様が火傷をしてしまう。

 静かに紅茶を冷ます。完璧な温度になるまで。

 

 整った顔立ちは穏やかだが、よく見ると目の下に薄いクマができている。

 彼の睡眠時間がわずか三時間という現実を、コーデリアは知らない。


「ええ、そうしてちょうだい」


 コーデリアは手を振った。その仕草は、まるで当然の権利を行使しているかのよう。

 ウィリアムは深々と頭を下げ、キッチンへと向かう。彼の足取りは、わずかに重い。昨夜も、コーデリアが眠った後、商人たちの帳簿整理に追われていた。それでも、朝には完璧な朝食を用意しなければならない。

 コーデリアは食卓を見回す。パン、バター、ジャム、そして温かいスープ。没落前と比べれば質素だが、それでも十分に豊かな朝食だ。

 これらの食材がどこから来るのか、コーデリアは考えたこともなかった。パン屋への支払い、市場での買い物、食材の調達...そういった日々の支出を、誰が負担しているのか。彼女にとって、それはいつも通りそこにあるものだった。朝になれば朝食が用意されている。それは没落する前と変わらない、当然のことのように思えた。


「この朝食は...」


 コーデリアは小さく呟いた。


「悪くないわね」


 父がよく言っていた。「コーデリア、執事に過度な感謝は不要だ。それは距離を失うことになる。主従の関係を保つためには、適切な距離が必要なのだ」と。

 だから、コーデリアは微笑むだけでいいのだと思っていた。それで十分だ。ウィリアムは有能だから、当然自分の気持ちを理解してくれているはずだと、彼女は信じていた。

 ウィリアムが新しい紅茶を持ってくる。湯気が立ち上り、芳醇な香りが漂った。


「お嬢様、新しい紅茶でございます」

「ありが...」


 コーデリアは思わずお礼を言いかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。

 恐る恐るカップに口をつける。熱すぎない。ちょうどいい温度だ。ウィリアムはいつも、完璧な温度にしてくれる。コーデリアはそう思った。


「これは、合格よ」


 彼女は紅茶を一口飲み、ほっと息をつく。


「恐れ入ります」


 コーデリアは紅茶を飲みながら、ふと窓の外を眺めた。初夏の陽光が庭の花々を照らす。白い薔薇が、朝露に濡れて輝いていた。


「ねえ、ウィリアム。何をしましょう?」


 コーデリアの声には、無邪気な響きがあった。


「お嬢様、午後には白薔薇のティールームでお友達とのお約束がございます」

「それまで何をすればいいのかしら?」

「お散歩がよろしいのでは...」

「散歩?」


 コーデリアは眉をひそめた。


「つまらないわ。外は暑いし、日焼けするでしょう?」

「では、室内でお過ごしになるのがよろしいかと。外は危険ですので」

「そうね」


 コーデリアは頷く。


「あなたが決めてちょうだい」


 ウィリアムは黙って立っている。彼の頭の中では、済ませなければならない家事のリストが延々と続いていた。掃除、洗濯、買い物、深夜には内職。そして次の朝食の準備。すべてを完璧にこなさなければならない。


 一方、コーデリアの心の中では、別の想いが渦巻いていた。

 ウィリアムがいれば、何でもうまくいく。この生活が、ずっと続けばいい。没落したとはいえ、ウィリアムがいる限り、自分は何も困らない。


 コーデリアは朝食を食べながら、ウィリアムを見る。彼は完璧に朝食をサービスしている。一つ一つの動作が、洗練されていて美しい。

 こんなに完璧な執事を持っているなんて、自分は幸運だ。他の没落貴族たちとは違う。自分にはウィリアムがいる。まるで、素晴らしい宝物を持っているかのように。コーデリアはそう確信していた。


 コーデリアはウィリアムに微笑みかけた。

 ウィリアムは深く頭を下げる。


「お嬢様のお役に立てて、光栄でございます」


 お嬢様の微笑みで十分だ。これ以上、何が必要だろうか。この方を守ること...それがウィリアムの全てだった。感謝の言葉など、求めてはいけない。執事であり、奴隷身分。お嬢様に仕えることが、彼の存在意義なのだから。ウィリアムはそう自分に言い聞かせていた。

 ウィリアムの視線が一瞬、テーブルの銀食器に留まる。以前は毎日磨くべき銀食器が何十点もあったのに、今は数えるほどしかない。いや、考えるのはよそう。ウィリアムは素早く視線を逸らした。今は、お嬢様の笑顔を守ることだけを考えればいい。

 コーデリアは朝食を食べ終え、優雅に立ち上がる。


「ウィリアム、お支度を手伝ってちょうだい」

「はい、お嬢様」


 ウィリアムは深々と頭を下げ、コーデリアの後を追った。

 二人は階段を上り始める。廊下の窓から差し込む光が、二人の影を長く伸ばしていた。主人と従者。貴族と奴隷。その距離は、たった数歩なのに、永遠のように遠い。


「ウィリアム」


 コーデリアが振り返った。


「はい、お嬢様」

「お友達との約束、楽しみね」

「はい、お嬢様。白薔薇のティールームは素晴らしいところでございます」


 コーデリアは満足そうに頷く。


「ええ。久しぶりにマリーたちに会えるわ」


 二人は階段を上り続ける。ウィリアムは静かに、コーデリアの後を追う。

 彼の表情は穏やかだが、その心の中では、深い想いが渦巻いている。お嬢様の幸せ。それだけが、彼の全てだ。ウィリアムはそう信じていた。


 午後のお茶会までは、まだ時間がある。

 コーデリアは応接間のソファーで、いつの間にか眠ってしまっていた。開いたままの本が、胸の上で静かに揺れている。

 ウィリアムは音を立てないよう、そっと近づく。タオルケットを彼女にかけながら、その寝顔を見つめた。無防備な寝顔。彼女が起きるまで、ここで見守っていよう。ウィリアムはそう思いながら、近くの椅子に腰を下ろす。

 彼女の寝息が、静かな部屋に響いていた。


 浅い眠りの中で、コーデリアは夢を見ていた。


 まだ父が生きていた頃。広い屋敷の庭。十歳の自分。

 父が連れてきた、執事候補たち。数人が、庭に並んでいる。


「コーデリア、お前の執事見習いを選ぶといい。誰がいい?」


 父の声。

 経験豊富な大人たちが、胸を張って自分の経歴を誇っている。奴隷ではない、自由身分の者たちだ。立派な服を着て、自信に満ちた表情をしている。

 その隣に、痩せた少年が数人。奴隷として買われてきた子供たち。みすぼらしい服を着て、怯えたように俯いている。

 大人たちは、子供たちを見下すような目をしていた。


「お嬢様、私は十年の経験がございます」

「私は名門貴族に仕えておりました」


 大人たちが次々と名乗りを上げる。その声には、傲慢さが滲んでいた。

 幼い自分は、そんな大人たちが好きになれなかった。

 その時、一人だけ、怯えたように、しかし真っ直ぐな目で自分を見ている少年がいることに気づいた。


「……あの子がいいわ」


 幼い自分が、その少年を指差す。

 大人たちが驚いた表情をする。父も少し意外そうな顔をした。


「ウィリアムという名だ。……そうか、あの子を選ぶか」

「長いわね。ウィルって呼ぶわ」

「……はい、お嬢様」

「ウィル! 一緒に遊びましょう!」


 幼い自分が少年の手を取る。少年が、驚いたように微笑んだ。


「お嬢様、僕なんかと一緒でいいんですか?」

「もちろんよ! ウィルは私のお友達なんだから!」

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