6話
《亡き人の夢を叶えたら、影が伸びすぎました》
受信音が、ためらうように一度だけ。
件名のあとに短い本文——「妻の“やりたいことリスト”を代わりに達成しています。進むほど、家の影が伸び、部屋が冷えます。止めると、彼女を裏切る気がします」。
※本案件は救い7:喪失3の調整です。死別と喪の感情を扱いますが、暴力的な描写はありません。穏やかな表現で進みます。
1|導入
「“代理達成”の外注だね」
相羽が画面を閉じ、《レーテ》のケースを手に取った。
「亡くなった人の“やりたいこと”を遺族が代わりに叶える。そのブリッジが強すぎると、“影”が現実の方へ伸びる」
杁瀬が小さく頷く。「影、ですか」
「未完の余白が伸びるのを、目が“影”って呼ぶ。いい影もある。——けど、冷えは過剰だ」
差出人は白川 陽。三十代半ば、公務員。住所は都内の低層マンション。
相羽はコートの襟を軽く正した。
「行こう。全部は直さないで、畳む」
2|ヒアリング
白川の部屋は、きれいに片づいていた。
けれど玄関を入った瞬間、温度が半歩沈む。
二月でもないのに、廊下の空気が細く冷たい。
「妻は、昨年の春に亡くなりました」
白川はまっすぐに言った。
ローテーブルの上には、リングノートが一冊。表紙に小さく、「ぜったいにやる」と手書きである。
「“ぜったいにやる”リスト。……最初は、笑って作ったんです。十年前に。ふざけたのも、ちゃんとしたのも混ざってる。“札幌で雪を踏む”“朝四時の海を見る”“父と仲直り”」
彼はノートをめくった。達成した項目の横に、青い丸印。
「外注の“代理達成”を使えば、相手の好みや反応が、あるていど再現できるって聞いて。だから、やっています。彼女のために」
「影が伸びるのは、いつから」
「三つ目を達成した日から。最初は写真の端だけが暗くなって、つぎに廊下が、いまは、寝室の足元まで」
杁瀬が窓際へ歩く。ブラインドの影が床に落ちている——が、光の向きと無関係に影が伸びている。
相羽は《レーテ》を起動した。
レンズの内側で、部屋の輪郭から黒い糸が引き出され、ノートの上に束ねられている。
「影綱」相羽が言った。「“代理達成ブリッジ”の引き綱が強く、未完の余白を引っぱっている。達成すればするほど、余白が“次の場所”を探して伸びる」
白川は目を閉じ、うなずく。
「止めたら、裏切りだと思ってしまうんです。“やってね”と言われたような気がして」
「言われたの?」
「いいえ。言ってません。でも、言われたような気がして」
相羽はノートを指で押さえた。
「——聞かせて。どれが、いちばん、あなたに冷える」
白川はページをめくり、ひとつの行に指を止めた。
「“父と仲直り”。彼女の父は、葬儀のときも、来ませんでした。連絡は、付きません」
「それを、あなたが達成しようとしてる」
「はい。代わりに、謝って、笑って、和解する。……バカですね」
「バカじゃない。愛だ。でも、影もついてくる」
3|現地検査
寝室は北向きだった。
カーテンの裾が少し揺れている。風は、ない。
《レーテ》の投影が壁を撫で、床に落ち、ベッドの脚で折れ曲がる。
影綱は三本。
一本は海岸線へ伸び(“朝四時の海”)。
一本は雪の粒の形(“札幌で雪を踏む”)。
最後の一本は、どこにも向かず、真下へ沈んでいる(“父と仲直り”)。
「沈む影は、進めない約束を掴んでる」杁瀬が呟く。
相羽はうなずき、クローゼットの上段を指した。
布の箱が置かれている。
「それ、なんです」白川が立ち上がる。「……妻の、スカーフです。いつも海に行くとき巻いてた」
箱を下ろすと、薄い青のスカーフが現れた。クレヨンを溶かしたような色。
《レーテ》の枠内で、布地から微細な風が上がる。
「“海”の影綱は、これに結ばれている。悪い結びじゃない。呼吸だ。——問題は、真下の影綱」
相羽は寝室の床に膝をつき、指先で影の濃い部分に触れた。
冷たい。氷水の底のほうの冷たさ。
「“父と仲直り”は、あなたの達成じゃない。誰の夢にもならない。だから、余白が底なしに伸びる」
白川はしばらく黙って、それから小さく言った。
「やめたら、彼女に悪い」
相羽は顔を上げた。
「全部は直さない。やめない。——畳む。未完を残す。儀式を作る」
4|修理
相羽は《モルペウス》を出し、スプールの糸を光に透かす。
「やることは三つ。
一、影綱の返し縫い——“真下”の影を折り返して、箱にしまう。
二、未完証を発行——“やらない”で終わらせず、“やらないで持つ”ための証を作る。
三、呼吸の結び直し——“海”と“雪”をいまのあなたの身体に結び直す(代理の過剰再現を弱め、現在の感覚に置き換える)」
白川が、少し泣き笑いの顔になった。
「せんせい、修理課って、神主みたいですね」
「違うよ。手芸部」相羽はうっすら笑い、針先を床の影へ落とす。「まず、ここに折り目をつける」
針先が影を縫う——ように見えるが、実際は結び目の意味を移動させている。
真下へ落ちていた影綱が、Uの字に折れ、ノートの上へ返ってきた。
次に、リングノートの末尾に白紙を一枚、足す。
相羽はそこへ、《モルペウス》で極小の縫い目を入れ、細い銀の粒を一個だけ落とした。
「これが未完証。ここに、“やらないで持つ”ものを記す。——“父と仲直り”は、あなた個人の夢に変換できない。ならば、未完のまま保持する。持つことが達成になる証」
白川は息を吐いた。
「達成じゃないのに、持てる」
「持てる。持てる形にすれば」
相羽は、青いスカーフを手に取る。
「次、“海”。代理再現の情景ベタ写しを、匂いと温度に縮約する。あなたは“彼女の目”じゃない。あなたの皮膚で結び直す」
《モルペウス》をスカーフの端に触れる。
海風の塩の粒みたいな冷たさが、布に宿る。
「この布を、朝四時に、玄関の取っ手にかける。あなたが外に出る合図にする。海へ行くかどうかは、その日ごとに決める。全部は行かない。行かなかった朝は——未完証に青い点を残す。持った印として」
最後に、窓とブラインドの影に針を入れる。
「影の冷えを畳む。全部は消さない。一枚だけ、涼しい影を寝室の隅に残す。そこは、“彼女の休む場所”にする」
世界が、小さく、しなった。
廊下の冷えが一歩ぶん後退し、寝室の隅に布のような影がたたまれた。
《レーテ》の投影が落ち着き、黒い糸はノートの上でほどけて消える。
白川はしばらく黙ってその影を見つめ、やがてうなずいた。
「この影は、いていいんですね」
「いていい。いなくならないものが、支えになることもある」
彼はノートの白紙に、ペンで一行を書いた。
——**“父と仲直り”は、**持つ。
そしてその下に、今日の日付と、青い点をひとつ。
5|回収
翌朝、四時。
白川は目を覚まし、玄関に向かった。
取っ手にかけたスカーフは、手にすると少し冷たく、塩の匂いがほんのわずかに指に残る。
彼は靴を履き、ドアを開けて、外の空気を吸い込んだ。
薄い藍色の空が、ゆっくりと明るくなる。
しばらく立って、家に戻った。
ノートに、青い点を一つ。
——今日は行かない。
——持つ。
寝室の隅、涼しい影が静かに畳まれている。
誰かの休む場所。彼はそこに声を出さずに挨拶し、台所で湯をわかした。
湯気に顔を近づけると、遠くのどこかで金属音が一度だけ鳴った。
風鈴に似て、でも、少し低い。
彼は笑って、マグを両手で抱えた。
その日の夕方、現実修理課の返礼箱に短いメッセージが届いた。
——影は残りました。けれど、居場所になりました。持つという言葉を、今日覚えました。ありがとう。
署名は、白川 陽。
相羽はメッセージを読んで、目を伏せた。
ポケットの内側で、例の紙片が指に触れる。
匿名〈φ〉——相羽自身がいつか開くべき、未完の余白。
(——まだ、読まない)
彼女はマグを口もとに寄せ、温度を吸い込んだ。
修理レポート(様式 GR-17)
案件名:代理達成ブリッジ過強化による影綱の伸長/居住空間の冷え・写真端暗化
依頼番号:S-2025-10-05-1426
依頼人:白川 陽(本人確認済)
症状:亡妻の“やりたいことリスト”代理達成の進行に伴い、室内に方向無関係の影が伸長/温度感の低下/睡眠質の悪化
原因:外注“代理達成”のブリッジが未完の余白を牽引、とくに「父と仲直り」が達成主体不在のまま底なしに伸び、冷えとして顕在化
実施手順:
《レーテ》で影綱三本(海/雪/和解)の動線を可視化、真下への落下を特定。
《モルペウス》で影綱に返し縫い、ノート上へ折返し。
リスト末尾に未完証を縫着(“やらないで持つ”を達成として扱う証)。
青スカーフへ匂い・温度の縮約タグ付与(現在の身体への結び直し/代理再現の過剰を緩和)。
室内の影の冷えを畳み、寝室隅に涼影を一枚残置(休む場所として明示)。
結果:廊下〜寝室の冷えが後退、影は居場所として安定。代理達成の強制指向が弱まり、当人の選択(行く/行かない)が持つへ転化。
副作用:未完証の記載時、涙の誘発と身体疲労が一時的に増す(推奨:温かい飲料/睡眠)。
返金可否:不可(代理達成の主目的=故人意志の尊重は維持)。
瑕疵条項:修理官は、自分の夢を外注してはならない。
——未完は、裏切りじゃない。持つための形だ。全部は直さない。涼しい影を一枚、暮らしに残す。