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4話

《父を許したいので、記憶の角を丸めてください》

受信音の直後、件名の文字列を追いきる前に、相羽は軽く息を抑えた。

本文は三行。——「怒鳴り声の角が消えました。家族史が、つるつるして掴めません。写真の額が壁から落ちます」。

※本案件は救い7:喪失3の調停です。家庭内の言語的暴力に関わる“記憶の処置”を扱いますが、暴力の直接描写は避けます。


1|導入


「角を丸めた……赦し補助の外注だね」

杁瀬が件名を読み上げ、肩を落とした。「これは、難しいやつ」

「難しいからこそ、全部は直さないを徹底する」相羽は《レーテ》のケースを閉めた。「角が消えると、取っ手も消える。持てなくなった歴史は、壁から落ちる」

差出人は水城みずき あかり。二十七歳、出版社勤務。住所は都内の古いマンション。

課の窓の向こうで風が縄のれんを揺らし、コーヒーの香りが薄く広がった。

「行こう」


2|ヒアリング


水城の部屋は、よく拭かれた匂いがした。

白い壁、観葉植物がひとつ、ローテーブルの端にアルバム。

「三週間前に“赦し補助”を外注しました。父のことを許したいと思って……怒鳴り声や、いやな場面の角を丸くする処理を」

水城はアルバムに触れつつ続ける。

「たしかに、刺さらなくなりました。痛い記憶を呼ぶと、丸い石みたいに、手の中で転がる。泣くほどではない。——でも、それといっしょに大事なとこまで滑るようになって。家の壁の写真の額も、止めてあるのに、気づくと床に落ちてる。専用釘に替えたのに」

相羽はアルバムの表紙に《レーテ》を当てる。

レンズの内側で、頁の縁が淡く発光した。

「記憶の縁取り(エッジ)強度が均一化されてる。強すぎた角を削ったとき、弱い角まで一緒に丸まった」

杁瀬が壁の写真を持ち上げる。

家族三人で撮った初詣の写真。絵馬、赤い柱、母の手。額の裏の金具に、かすかに揺らぎが走る。

「金具も、角が甘くなってますね。現実側にまで波及してる」

「許すって、こういうことなんでしょうか」水城が問う。「恨まずに、淡々と、平らに生きる——はずなのに、平らすぎて、手触りがなくて。父の悪かったところも、良かったところも、同じ丸になってしまった」

相羽は頷いた。

「赦しは砂場じゃない。遊べる柔らかさが要るが、型抜きも要る。角の一部は残す。触ると少し痛む取っ手として」


3|現地検査


相羽は部屋の灯りを一段落とし、《レーテ》の投影を広げた。

リビングの空間全体が薄い格子で覆われ、ところどころに角のインジケータが浮かぶ。

冷蔵庫のドアのへこみ——幼い頃、父の腕が当たった傷。

玄関の三和土たたき——雨の日にすべって転んだ跡。

アルバムの二枚目——運動会の昼、母が作った卵焼きの光。

「すべての角半径が同じくらいに丸められてる」杁瀬が指で空中の数値をなぞる。「半径3.1。実装の雑な均しです。ソフトじゃなくて、テンプレでやってる」

「雑な均しは、骨まで丸める」相羽はアルバムを開く。「このページ、初詣の写真は?」

「——見づらいけど、あります」水城が指した。

家族三人、鳥居の前。父がポケットに手を入れて笑っている。母のマフラーが少しほつれている。

《レーテ》の表示で、写真のエッジが、ゼリーのように鈍い。

「“赦し補助”が参照するのは、一連の“怒鳴り声”のクラスター。けど、その手前と後ろにくっついた“良かった”の小片まで滑っている」

水城が息を飲む。「良かった、の小片」

「うん。例えば——」相羽は写真の母のマフラーの端を指した。「これ、ほどけかけ。ここに角がある。母がその場で結び直してくれた角。これは痛くない角だ。持ち直すための角」

杁瀬が壁の写真を戻し、額の金具を《レーテ》越しに拡大する。

「金具の爪、ねむってます。爪先に、起きてもらいましょう」


4|修理


相羽は《モルペウス》のスプールを出し、糸を親指の腹で軽く転がした。

「やることは三つ。

一、角半径を一律から可変へ戻す——痛む角はさらに丸め、持ち直す角は立てる。

二、“赦しタグ”を“砂場”と“型抜き”に二分する。砂場=やわらかくする、型抜き=形を残す。

三、壁の額の金具に現実の爪を返す」

「現実側にも、針が届く?」水城が問う。

「届かせる。三分だけ」相羽は微笑む。

まずアルバム。

《モルペウス》の針先を、母のマフラーの端、結び目に触れる。

光が細く走り、写真の表面の角がほんのわずか、立つ。

「ここは型抜き。残す」

つづいて、冷蔵庫のへこみの、記憶の縁に針を当てる。

「ここは砂場。角をもう少し丸くする。怒鳴り声のクラスターに吸われていた痛みを、砂の中に落とす」

世界が小さくきしんだ。

水城は目を閉じ、拳を握る。

「胸の中で、角が分かれる感じがします。痛いほうと、手がかりのほう」

相羽は頷き、壁の写真へ。

金具の爪に、そっと針を触れる。

爪先が起き、金具がわずかに締まった。

「これで、写真は落ちにくくなります。落ちなくなるわけじゃない。風が強い日には落ちる。落ちる日が、思い出す日になる」

最後に、《レーテ》で部屋全体にタグの切り替えを流す。

赦しタグが砂場と型抜きに二分され、“型抜き”には小さな印が付く。

「型抜きの印は、見えません。でも、触れればわかる。痛みは少し残す。触れるとちくとする。それが取っ手だ」

水城は額の前で立ち止まり、指先で縁をなぞった。

「ちょっと、痛い。——けど、落ち着く」


5|回収


夕方、窓の外の空が灰色から藍色へ変わる頃。

水城は台所で湯を沸かし、カップに注いだ。

「父のいいところ、言葉にできます」

彼女はローテーブルに座り、言葉をひとつずつ、ゆっくり置いた。

「餅を焼くのが上手い。新聞を、私が読む前に折り目をつけてくれた。雨の日、玄関のたたきの水を、押し出すみたいに拭いた。——怒鳴る声が、そこに入ってくると、全部を丸くしてしまうから、分けられなくなってた」

相羽は頷いた。

「分けるのは、赦さない、じゃない。赦す配分を自分で決めること」

「配分……」水城は笑って、それから目を細めた。「写真、落ちませんね」

「今日は、風が弱い」

杁瀬が玄関の方に歩き、三和土の灰色に指先を近づけた。

「砂場のタグ、ふわふわしてる」

相羽は鞄を持ち上げ、立ち上がる。

「では、レポートを送って終わり」

「待ってください」水城が立ち上がる。「一つ、お願いが」

相羽は首を傾ける。

「写真の裏に、小さい角を残してほしいです。私だけが、触ってわかる角。落ちないようにするんじゃなくて、落ちるかもしれないっていう緊張の角」

相羽は《モルペウス》を取り出し、額の裏の紙の端に、ほんのひと目だけ、糸を入れた。

「触れば、わかる」

水城はお礼を言い、玄関まで送った。

外に出ると、廊下の突き当たりから、風鈴に似た金属音が一度だけ鳴った。

どこにも風鈴は見当たらない。

相羽は振り返らず、歩き出した。

ポケットの内側で、小さな紙片の角が指に当たる。**匿名〈φ〉**のメモだ。

(——まだ、読まない)


修理レポート(様式 GR-17)


案件名:赦し補助の一律適用に伴う記憶エッジの均一化/家族史の把持不能・額縁落下


依頼番号:H-2025-10-04-1938


依頼人:水城 灯(本人確認済)


症状:過去の怒鳴り声クラスター処理後、良性エッジまで丸められ、家族史の把持困難/壁面額縁の金具弛緩


原因:外注“赦し補助”の角半径一律化(半径3.1)による、痛みと手がかりの非分離/現実側の小規模物理影響


実施手順:


《レーテ》で空間・記憶のエッジマップを計測、痛み系と持ち直し系の角を分類。


《モルペウス》で可変半径化:痛む角=砂場(さらに丸め)、持ち直す角=型抜き(わずかに立てる)。


赦しタグを砂場/型抜きの二系統へ二分、型抜きに不可視の印を付与。


額縁金具の爪に一時縫合(現実側3分限定)、裏紙の端にひと目の角(触知用)を残置。


結果:家族史の把持性が回復。痛みの総量は減少し、持ち直し角が取っ手として機能。額縁の落下頻度は低下(強風時は発生し得る)。


副作用:角の触知により、一時的なちくり感と涙の誘発が生じる可能性(推奨:温かい飲み物とともに扱う)。


返金可否:不可(赦し補助の主目的=感情の刺低減は維持)。


瑕疵条項:修理官は、自分の夢を外注してはならない。


——触れると少し痛む取っ手が、扉を開ける。全部は直さない。持てる形で残す。

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