3話
《売れたいと願ったら、古い歌が鳴り止みません》
受信音が二度だけ鳴った。
件名は一行、本文は行替えもなく続く——「新曲が出るたびに、昔の歌が鳴り続けます。止めると、客席の一部が消えます」。
※本案件は救い7:喪失3の調整を含みます。ステージ描写/音響表現がありますが、暴力的描写はありません。
1|導入
「“客席の一部が消える”?」
杁瀬が眉を上げた。
「比喩か現象か、現地で確かめよう」相羽は《レーテ》のケースに触れながら言った。「外注“売れる補正”と古い作品の相互作用、過去にも似た報告はあったけど……“鳴り止まない旧曲”は、珍しい」
差出人は逢瀬アヤ。二十代後半のシンガーソングライター。活動歴七年、近年SNSで火がついてライブハウスが満員続き、とのプロフィールが添付されている。
「ライブハウス“ネオン・アトリエ”……下北沢か」
二人は小雨の街へ出た。午後の光は薄く、信号の赤が濡れた路面で長く引き伸ばされている。
「先輩、音の案件、好きですよね」
「音は、記憶の取っ手だ。戻し方を間違えると、他のすべてが落ちる」
2|ヒアリング
ネオン・アトリエの楽屋は狭いが、奇妙に落ち着く匂いがした。木材と古いアンプの熱。
逢瀬アヤは、黒のフーディにスニーカー。目は眠そうなのに、声はよく通った。
「売れたい、ってお願いしたんです。二か月前。アルゴリズムのご機嫌取りは疲れたし、地方のフェスにも行きたいし。で、新曲の露出は増えた。いいことだらけかと思ったら——」
彼女は、耳の後ろを触った。ピアスホールの跡が二つ。
「新曲を歌うと、古い歌が勝手に鳴り始めるんです。ステージ上で。弾いてもないギターのピックアップが共鳴して、PAには乗らないのに、客席は知ってるの。みんなその歌の合図で手を上げて、いちばん古い頃とおんなじ振りになる。止めると……見えるんです。客席の後ろのほうから、列が一本ずつ、じわって薄くなるのが」
杁瀬が思わず身を乗り出す。「物理的に?」
「肉眼で“存在感が薄れる”って感じ。録画で見ると、ノイズが縦に走ってるだけに見える。でも、私にはわかるの。消えてるわけじゃない、“過去の列”に戻されてる。新曲の合図が遅れると特に顕著」
相羽は頷き、《レーテ》のレンズ越しに空間を覗いた。
楽屋の壁には、いくつかのポスター——と、剥がし跡。「NEON ATELIER 2018」「地下二番線の小夜曲」「AYASE OUSE Live TAPE Session」。
「テープ?」
アヤが苦笑いした。「まだ無名のころ、カセットでデモを配ってた。一本一本、手で巻き直して。“古い歌”って、あのころのやつ。『海まで歩く』って曲。三分半。浅いコード、拙いメロ。けど、あれが、鳴る」
「外注の契約書、見せてもらえますか」
アヤはスマホを渡す。契約項目に「露出最適化」「ターゲティング補正」「記憶喚起ブリッジ」がある。
相羽は最後の項目に指を止めた。
「記憶喚起ブリッジ——新規曲と既存のファン記憶を橋渡しする補正。これが暴れてる」
「橋、渡しすぎってこと?」
「渡す先が、過去の観客列そのものになっている。あなたの“最初の手”に合わせて、現在の客席が整列してしまう」
3|現地検査
サウンドチェックの時間。
フロアはまだ暗く、数人のスタッフがケーブルを束ねている。
《レーテ》の投影が空間に走る。客席側に、薄い残像の列が何本も浮いた。立ち位置、手を上げる高さ、掛け声のタイミング——記憶のリハーサルが、光の糸になって張られている。
「これ、橋ですね」杁瀬が口笛を小さく吹く。「新曲のフックが鳴ると、古い曲のコール&レスが起動。観客が“昔の自分の席”にスライドしていく」
「橋脚が古いテープに刺さってる」相羽はステージ袖の棚を指した。埃っぽい段ボール箱がひとつ。ガムテに“TAPE”と殴り書き。
アヤが顔をしかめる。「それ、……置いてあるだけ。忘れてた。触るの怖くて」
相羽は箱の蓋を開け、一本を持ち上げた。透明のケースに、青いラベル。「UMI-MADE」とマジックで書いてある。
《レーテ》の枠の内側で、テープの磁性がふるえた。
「このテープ、起点です。あなたが売れたいと願った瞬間、外注の“橋”は最短ルートを探した。“いちばん強い共通項”——それが最初の合図だった」
「最初の合図?」
「手を上げる角度、最初にあなたが自分で決めた振り、客席のはじめての揃い。それが全部、ここに巻き取られている」
アヤは指先をぎゅっと握った。
「修理はできますか」
「できます。ただし、全部は直さない。鳴り止まない旧曲を“完全に”止めると、最初の手を失う。あなたは新曲で迷子になる。橋は残す、橋脚の向きだけ変える」
4|修理
会場にはまだ観客がいない。
相羽は《モルペウス》を取り出し、テープのラベルにそっと針先を触れた。
「テープの**“巻き戻さない”を宣言します」
針が触れた瞬間、会場の空気がひとつ揺れ、PAラックのメーターのランプが微かに瞬いた。
「手順は三段階。
一、橋脚の向きを変える——“古い歌”へ渡るのではなく、古い“動き”の意味へ渡す。
二、客席の列を固定しない——“過去の自分の席”に吸い戻される代わりに、現在の隣の人に支えられるよう微調整。
三、テープ一本に“歌わない”誓約を付す——曲そのものを封印ではなく、“舞台袖に置く儀式”を設ける」
「歌わない……?」アヤの声が、少しだけ震える。
「一本だけ。“海まで歩く”を二度と歌わないこと。セットリストから排除するのではなく、最初の手を舞台袖に置き直す。橋はそこから現在へ向ける」
アヤは唇を噛んだ。「それが、必要」
「必要です。最初の手は、いつも一番強い。ずっと持ち続けると、持ち手の皮が剥ける」
相羽はテープケースの角に《モルペウス》で短い縫い目を入れた。光が一瞬、糸のように走り、消える。
「次に、客席に取っ手を付ける。声の取っ手だ。手拍子の位相が古曲のテンプレに落ちないよう、一拍遅れの“揺れ”を作る」
杁瀬がミキサーに向かい、クリックのガイドを微弱に流す。人間の耳では境界線ぎりぎりの、触れないほどの呼吸音に近いパルス。
「最後に、あなた自身の宣言**」相羽はステージ中央に立つよう目で示した。「MCで一言。“最初の歌は、もう歌いません。でも、あのときの手は、ここに置いていく”——それだけ。言質は力になる」
アヤはゆっくりうなずいた。
「やります。置いて、進む」
5|回収
夜になり、フロアは満員になった。
オープニングの二曲、観客はよく揺れ、よく歌った。
三曲目のイントロ——新曲のフックが走る。
相羽は《レーテ》を起動し、客席の残像の列を見る。
古い列が、起動しかけて止まった。橋脚は舞台袖のテープへ向かい、そこで方向を変え、現在の観客の肩と肩へ渡っていく。
アヤがマイクを少し下げ、MCに入る。
「“海まで歩く”を、歌わないって決めました」
客席が一拍、静まる。
「だって、あれは、私の最初の手だから。ここに置いとく。いま、両手は新しい歌を持ちたいから」
ステージ袖で、一本のテープがライトを拾って、薄く光った。
客席から、小さなため息と拍手。揃いすぎない拍手。
四曲目。「潮騒のショートカット」のサビ前、フロアの手があがる。昔の合図ではない。いまの隣の人に合わせる一拍遅れ。
アヤは歌いながら、ほんの一瞬目を閉じた。
(——ありがとう)
彼女が誰に言ったのか、相羽は聞かなかった。
代わりに、天井のどこかで金属音が一度だけ鳴ったように感じた。風鈴の音に似て、でも、すこし太い。
曲が終わると、観客は肩で笑い、隣の知らないひとに手をぶつけ、謝り、また笑った。現在がふえる音。
ライブが終わって、楽屋。
アヤはペットボトルの水を飲みながら、「ねえ」と言った。
「“歌わない”って、こんなに歌の側にいる言葉だとは、思わなかった」
相羽は頷いた。
「歌わないは、歌うの裏打ちだ。どちらも、持ち手を増やす」
「テープ、どうします?」杁瀬が尋ねる。
アヤはケースを指先で撫でて、笑った。
「舞台袖に置いとく。仕事で行く先々に、置きっぱなしにしていく。拾うのは、私じゃない誰かでいい」
相羽は《レーテ》を畳み、ケースを留めた。
ドアの外で誰かが荷物を運ぶ音がして、廊下の空気が少し動いた。
帰り支度の途中、相羽のポケットの奥で、小さな紙片が指に触れた。
(返礼箱の、**匿名〈φ〉**の紙)
読まない。まだ。
彼女は手を離し、楽屋の蛍光灯の下で、一瞬だけ目を細めた。
修理レポート(様式 GR-17)
案件名:露出最適化補正に伴う記憶喚起ブリッジの暴走/旧曲の自動再生・観客列の過去回帰
依頼番号:M-2025-10-04-1710
依頼人:逢瀬アヤ(身分確認済)
症状:新曲の演奏時に旧曲『海まで歩く』の非意図的共鳴/客席の“過去列”へのスライド/録画に縦ノイズ
原因:外注項目「記憶喚起ブリッジ」の橋脚が旧テープへ固定、現在の観客動作を初期テンプレに整列させる効果の過剰適用
実施手順:
《レーテ》で観客列の残像(記憶のリハーサル)を可視化、橋脚の向きを特定。
《モルペウス》で旧テープに**“巻き戻さない”縫い目を挿入、橋脚の向きを動作の意味**へと付け替え。
客席に一拍遅れの微弱パルスを導入(PA外レベル)。揃いすぎを抑制。
依頼人による言質MC:「最初の歌は歌わない」宣言により、セットリスト上の**儀式的“置き場所”**を舞台袖に確保。
結果:旧曲の自動共鳴は停止。最初の手=動作の意味として保持。観客列の現在回帰を確認。
副作用:ライブ中の一拍遅れによる偶発的ぶつかりが発生(苦情0件/笑い声の増加を確認)。
返金可否:不可(露出最適化の主目的は維持)。
瑕疵条項:修理官は、自分の夢を外注してはならない。
——歌わないで残す歌が、次の歌の持ち手になる。全部は直さない。手を増やすだけ。