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1話

《達成率を上げたら、私の朝が消えました》

受信音と同時に、相羽あいばはマグをテーブルに戻した。

失われたのは時間そのものではないらしい。依頼メールには、パンの焼き目、駅前の売店の小さな迷い、SNSのスクロールの惰性——そういう要らない寄り道の一覧が、箇条書きで並んでいた。

現実修理課は《レーテ》を携えて出動する。

※本案件は救い7:喪失3の修理になります。


1|導入


「朝が短くなった? 遅刻が減ったならむしろ良いのでは、と言いたいところですが」

相羽は、投書の署名「朝倉 渚」の名前を口の中で転がす。

向かいで新人の杁瀬いりせが、ポケットからフレキシブル端末を取り出し、指先で地図を拡大した。

「最寄りは東池袋。依頼人の勤務地は霞が関方面。通勤時間は片道二十七分……申請ログによると、三週間前に“資格試験の合格達成率を底上げする補正”の外注を出してます」

「達成率の指標は?」

「学習時間の確保と、出勤時のストレス軽減……のはずが、朝の余白の喪失として出ている」

相羽はうなずき、端末に《レーテ》のキャリブレーション画面を呼び出した。レンズの向こうで、世界は薄い格子に区切られ、歩幅や呼吸の揺れのリズムが色になって表示される。

「要らないものを要らないと見なした補正が、過剰適用された可能性がある。全部は直さないで戻すところを選ぶ。いつも通りだよ、杁瀬くん」

「了解です、先輩」


2|ヒアリング


朝倉渚は、ひどく健康的に見えた。

髪はひとつにまとめられ、化粧は薄い。スーツの襟も、靴のかかとも、過不足のない整い方。

「朝、気がついたら、喉の右側に味の跡が無いんです」

はじめの一言で、相羽は“良い依頼人だ”と判断する。抽象でなく、具体を言葉にできる人は修理が早い。

「補正申請は、合格率の底上げ。記録では、睡眠効率の改善、通勤の最適経路の提示、SNSの閲覧時間の圧縮が行われています」杁瀬が読み上げる。

「それは、わかっています。遅刻はなくなりましたし、朝にやるべきこともやれています。……でも」

朝倉は、テーブルに両手を置いた。

「パンの焼ける匂いが浮いてこないんです。駅までの道で、コンビニの前に並ぶ雑誌の表紙が、全部いっぺんに頭をかすめるだけで、立ち止まる“迷い”が発生しない。前は、くだらないことで二分くらい悩んでたはずなのに」

「くだらない迷いが、消えた」

「はい。消えた朝は、正しいのかもしれません。でも、生きてない感じがする」

杁瀬が小さく頷いた。彼はこういう話に弱い。

相羽は無表情のまま、言葉を選ぶ。

「修理課が関与できるのは“ほころび”です。達成そのものを妨げることはできない。足し算も、引き算も、ほどほどにする。その範囲で、朝の“匂い”を取り戻せるか、検査してみましょう」


3|現地検査


朝倉の自宅は、二階建ての集合住宅の角部屋だった。

玄関のドアを開けた瞬間、《レーテ》の枠外に淡いノイズが走る。

「匂いのプロトコルが縮退してますね」杁瀬がつぶやく。「嗅覚に関連する記憶参照のレイテンシが、意図的に短縮されてる」

「悪くない設計だ。朝の迷子はストレスの一因になりうるからね」

キッチンは整っている。トースターのトレーにはパンくずがたまっていない。相羽はトースターのレバーに触れ、指の腹で冷たさを確かめた。

「パン、最近は?」

「食べてます。味はします。……でも、思い出せないんです。朝のパンの、昨日との違いが」

相羽は《レーテ》の焦点を、コンロ脇の瓶と棚の隙間に合わせた。粒子が、淡い青に震える。

「選択分岐の“抜け”が縫われてます。朝倉さん、パンを焼くとき、焼き目の色を目で見て判断してました?」

「はい。今日は薄い、昨日は濃い、みたいな。焼けすぎたらジャムの量を増やして……くだらないですね」

「くだらなくない。くだらなさが、朝という時間を持っていた」

杁瀬が、ベランダに出た。物干し竿、角のサボテン、街路樹の葉の透け。彼は鼻で空気を吸い込み、少し笑った。

「この部屋、朝八時を過ぎると風鈴の音が入ってきますね。隣家の窓についたやつ。音のプロファイルが、いま圧縮されてる」

「味と迷いと音。余白の三点が削られている。通勤の最適化が、生活の解像度まで削っている」

相羽は端末に指を走らせる。

「修理方針。達成率補正の係数はほぼ適正。切り戻すより、穴を開ける」

「穴?」

「完璧な縫い目に、わざとひと目抜く。そこで空気が通る」


4|修理


《モルペウス》を取り出す。銀色の細い糸のスプールと、目に見えない針。

「時系列のほつれを三分だけ縫合するための道具ですが、今回は逆にほどくところに使います」

相羽は、キッチンと玄関の間に立った。

「朝倉さん、明日の朝、パンを焼く手順を頭の中で声に出さず想像してください。いまは言わなくていい。私たちが、そこに穴を開けます」

朝倉はうなずき、目を閉じる。目元がわずかに動く。

《レーテ》が感情と選択分岐の縁を可視化する。緑色の線が何本も集まって、トースターの上で揺れている。

相羽は《モルペウス》の針先を、空中の一点に合わせ、そっと触れる。

世界は、柔らかくきしんだ。

「——」

部屋の空気が変わる。ベランダのほうから、遠い自転車のブレーキ音が届いた。

「これで、パンの焼き時間の判断に、躊躇が戻るはずです。三十秒。長すぎず、短すぎず」

「躊躇……」朝倉の声が小さくなる。

「次に、駅までの道。スマホの地図アプリからのリルート提案が、あまりに賢すぎる。あなたがわざと信号二本手前の脇道に入る余地を、少しだけ増やします」

杁瀬が端末で交通経路のアルゴリズムに、調停用の“粗密マップ”を差し込む。人工的な雑さは、時に生活の味方になる。

「最後に、風鈴の音の解像度を戻す。音は、記憶の引き出しの取っ手ですから」

相羽は窓の桟に手を置き、ひと呼吸。

《モルペウス》の糸が、光に溶ける。

針先で、音の波形の端を縫う。

部屋の空気がもう一度しなり、どこかでガラスが鳴るような微かな高音がした。

「……聞こえる」

朝倉が目を開ける。遠くの風鈴が、たしかに二度鳴った。

「いまは試験音。本番は明日の朝です」相羽は《モルペウス》を納めた。「ただし、全部は直さない。朝の余白のうち、戻したのは“迷いの三十秒”と“脇道の一回”と“音の二度鳴り”だけ。達成率の係数は触っていません。あなたはきっと合格に近づく。でも、朝は朝の速度で戻る」

「ありがとうございます」

朝倉は、何度もうなずいた。

「ひとつ、わがままを言ってもいいですか」

「どうぞ」

「パンの焼き目に、小さい焦げがほしい」

相羽は口元だけで笑う。

「それは、あなたが自分でやってください。うっかり、少しだけ。わざとじゃない顔で」


5|回収


帰り道、東池袋の交差点で信号待ちをしながら、杁瀬がため息をついた。

「先輩、ぼく、外注って怖いなって思います。便利でしょうけど、生活の“くだらない部分”が先に削られる」

「怖いよ。でも、怖いからこそ、取っ手を残す」

「取っ手」

「痛むところ、ひっかかるところ、役に立たないように見える手触り。人はそれで、扉を開けたり、閉めたりする」

杁瀬は黙る。風が地下街の吹き出しから上がってきて、相羽のコートの裾を撫でた。

信号が変わり、人の群れが動き出す。

「先輩」

「ん?」

「取っ手、先輩にもありますか」

相羽は、足を止めずに答えなかった。

代わりに、耳の内側で、誰かの声が古い記憶ごと揺れた。

(——修理官は、自分の夢を外注してはならない)

課の壁に貼ってある規約の一文。紙は黄ばんで角が巻いている。文字の黒は、薄くなってきているのに、どういうわけか、その一文だけは、誰かが上から重ね書きしたみたいに濃い。

「課に戻るよ」

相羽は短く言い、歩幅を調整する。

杁瀬が並ぶ。

交差点を渡りきったところで、風鈴に似た音が一度だけ鳴った。——どこにも風鈴なんて、ここには無いのに。


6|翌朝(短い検証)


翌朝。

朝倉の部屋は、昨日と同じ位置で光を受けていた。

パンを載せた網の上で、焼け具合が、わずかに躊躇する。

トースターの前で、朝倉はほんの少しだけ眉を寄せた。

ジャムの蓋を開け、スプーンを入れる。思ったよりも粘度が強い。スプーンを抜く角度を間違え、瓶の縁にジャムが少し跳ねた。

「……」

その赤に、朝倉は笑う。

パンの端に、小さい焦げができた。

駅への道で、地図アプリが別のルートを示す。朝倉は、目線を少しだけ遠くに投げ、脇道の入り口に足を向ける。

自転車が一台、ゆっくりと彼女を追い越し、ふっとブレーキを鳴らした。

風鈴が、二回。

朝倉は足を止め、手帳に小さく書いた。

《脇道、二本目の角のパン屋の前、いい匂い。》

そのメモは、誰に見せる予定もない。ただの自分用の取っ手だ。


7|返礼箱


その日の夕方、現実修理課の返礼箱に、短いメッセージが届いた。

——朝が戻りました。全部ではないけれど、十分に。パンの焦げは、私の失敗です。合格します。ありがとう。

署名は無い。

相羽はメッセージを読み終え、小さくうなずいた。

「よかったですね」杁瀬が言う。

「うん」

「先輩、パン食べます?」

「いらない。コーヒーの香りで十分」

相羽はマグを口もとに寄せ、目を閉じた。

コーヒーの苦さの向こうに、風鈴の音が——一度だけ——鳴った気がした。


修理レポート(様式 GR-17)


案件名:達成率補正の副作用による朝の余白の縮退


依頼番号:D-2025-10-04-1123


依頼人:A.N.(本人確認済)


症状:嗅覚想起のレイテンシ低下、経路選択の多様性喪失、環境音の圧縮


原因:達成率外注に伴う過剰最適化(迷い・躊躇・偶然の排除)


実施手順:


《レーテ》にて選択分岐の抜けを検知。


《モルペウス》でキッチン行動系列に**意図的な“ひと目抜き”**を挿入(躊躇三十秒)。


通勤アルゴリズムへ“粗密マップ”を調停挿入(脇道一回)。


環境音の波形解像度を部分復元(風鈴二度鳴り)。


結果:主要症状は軽減。達成率係数は維持。朝の取っ手(匂い/迷い/音)を限定的に復帰。


副作用:通勤時間が平均一分二十秒延長。ジャム瓶の粘度差による汚れ発生率が0.8%上昇。


返金可否:部分返金(規約第7条b)対象外。達成指標は維持のため。


瑕疵条項:修理官は、自分の夢を外注してはならない。


——直し切らなかった場所に、人は暮らしていく。

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