第3話 誓いの前で【ゼフィル視点】
老婆の嗚咽が石室を満たし、重苦しい静寂が落ちていた。
ノア様は淡々と、しかし容赦なく言葉を紡ぐ。
「仲間が今、過去の村で少女の魂を救おうとしている。
粗雑で未完成な術式では、何も変えられない。むしろ、事態はさらに歪むだけだ」
その声音は、理性の刃のように鋭かった。
正しい。けれど、その冷徹さは、泣き崩れる母親の胸をさらに締めつけるだろう。
僕は膝を折り、老婆と視線を合わせるように腰を下ろした。
骨ばった手をそっと包み込み、静かに告げる。
「……大丈夫です。もう誰も、あなたを責めはしません。
長く娘を想い続けてこられた、その気持ちは確かに届いています。
どうか、これ以上ご自身を罰しないでください」
老婆の瞳に新たな涙が溢れ、震える唇から声がもれた。
「……許して……」
彼女は嗚咽と共にうずくまり、やがて、ふらつきながらも立ち上がった。
「帰ります……」と掠れた声で告げ、灯りを揺らしながら祠を後にする。
その背は今にも崩れ落ちそうに小さく見えた。
* * * * * *
静寂を取り戻した石室に、残されたのは僕とノア様だけ。
彼はなお床の術式を睨みつけ、冷えた空気を纏っていた。
(理性で切り捨て、冷徹に告げる——それがノア様の強さであり、同時に脆さでもある)
僕は立ち上がり、老婆が残していった布袋を手に取る。
三羽のウサギが怯え、身を寄せ合っていた。
祠を出ると、森の夜風が頬を撫でる。
袋の口を開き、地面にそっと置いた。
「……もう大丈夫。行きなさい」
ためらうように耳を震わせた後、ウサギたちは一斉に駆け出し、暗がりの中へ消えていった。
その背を見送ってから、僕は深く息をつく。
やがてノア様と共に、大樹の下に身を潜め、祠を見張る態勢に戻った。
葉擦れの音だけが夜を裂き、やがて訪れる光を待つ時が続いていく。
夜の森を吹き抜ける風が、葉を揺らした。
しばしの沈黙を破るように、僕はふと口を開いた。
「……ノア様は、ハルカ様のことをどう思っておられるのですか?」
「それはまた、急な質問だね?」
眉をひそめながらも、即座に返答を避けないのが彼らしい。
「もちろん興味はあるよ?」
わざとらしく肩をすくめ、わずかに口端を吊り上げる。
「——研究対象として、ね」
「ふふ……ずいぶん研究熱心でいらっしゃる」
僕が揶揄すると、ノア様はわずかに目を細めた。
「君こそ、人の好奇心を面白がりすぎだ」
「ええ、ノア様がそんな顔をされるのは珍しいものですから」
一瞬の沈黙。
暗がりの中で垣間見えたその素顔は、いつもの冷徹さとは少し違っていた。
僕は思わず笑みを洩らしそうになった。
普段は隙を見せないノア様が、からかえばこんな表情を見せる。
そのことが、妙に面白くて……つい軽口を重ねたくなるのだ。
「やはり……ハルカ様のこととなると、ノア様も表情が変わるのですね」
ノア様は一瞬だけ目を細め、口端に苦笑を刻んだ。
「……君は、余計な観察ばかり得意だね」
その返しに、僕も口元を緩めた。
けれど心の奥では、別の思いが疼いていた。
(恐らく、彼女は……)
祠の暗闇を見据えながら、胸に芽生える痛みを押し込める。
(……だが、彼女はライエル様と心を通わせている)
夜の森に、また静寂が落ちた。
僕はただ、観察者としての役割を胸に刻み、祠の闇を見据え続けた。
* * * * * *
森を覆う闇がわずかに揺れた。
祠の奥から、眩い光が漏れ出す。
次の瞬間、地を震わせるような響きと共に、祠の上空へまばゆい光柱が立ち昇った。
天へ伸びていく白銀の柱。
その輝きが夜を押し退け、森を黄金色に染めていった。
「……来たな」
ノア様の低い呟きと同時に、木々の間から朝日が差し込む。
——夜明けと共に二人が戻って来たのだ。
僕とノア様は、同時に駆け出していた。
だが、その異変に気づいたのは僕らだけではない。
鬱蒼とした森の奥から、鎧の軋む音と怒声が迫ってくる。煌聖騎士団だ。
「……面倒だね」
ノア様が吐き捨てる。
すでに指先には光の粒が集まり、複雑な紋が空間に描かれ始めていた。
「ノア様、それは……!」
僕は息を呑む。
空間を切り離す——古の時代、禁呪に分類された遮断術式。
普通の魔導士には展開すら不可能なものを、彼は迷いなく組み上げていく。
だが発動には時間がかかる。
鎧の軋む音が、森の奥から迫ってくる。
ノア様の指先には、すでに幾重もの術式光が展開されていた。だが、その完成にはまだ数拍の時が必要だ。
(少しでも、時間を稼ぐ……)
僕は息を吸い込み、赤い瞳に魔力を収束させた。
瞬間、木々の影が揺らぎ、騎士たちの目の前を黒い幻影が奔る。
「なっ……!? 何者だ!」
「囲め!」
怒声と混乱。足が止まる。
そのわずかな隙を作り出すことだけが、今の僕にできる支えだった。
そして——。
「——遮断結界」
ノア様の低い声と共に、空間そのものが軋む音を立てて閉ざされた。
風が止み、音が消える。
世界がひとつ切り取られたような、完全な沈黙。
彼は、深く息を吐き、膝を折りかけた。
強大な魔力の消耗に、肩が大きく上下している。
「感謝してほしいね……。二人だけの空間を作ったのは、僕らだということに」
毒を含んだ声に、僕は思わず息を洩らした。
(まさか、この術を……。やはり、ノア様は——希代の天才だ)
そして気づけば、僕とノア様もその結界の内側にいた。
そこには、祠の前で向かい合うハルカ様とライエル様の姿。
風が止まり、世界がその一瞬を見守るように静まった。




