終章 神様お願い
わが国初の女性総理が誕生し、弘美はついに26歳の若さで内閣官房長官の椅子を手に入れたが、これが終着点ではない。あと一息で、女ヒトラーに、ムッソリーニになれるのに・・・
こんなことってあるんだ。嘘みたい。
「緒方さんとホテルなう」
こんな場面でマリリンに携帯メールを送るなんて、私って下品で悪趣味なビッチなのかもしれない。
マリリンは「Tonight the Night!(今夜決めちゃえ)」と一言だけ返してきた。
詐欺のようなリハーサル経験はあるけど、やはり本番は違う。心臓バクバクでおしっこ漏れそう。
にしても、痛い。鎮痛剤のフロモックスでも飲んどけばよかったかな。
私より三十歳も年上なのに、全身しなやかな筋肉で覆われた緒方さんに強く抱きしめられると、華奢な私はバラバラになりそうだ。
だけど、唇を重ねると麻酔を打たれたように痺れて、身体の芯から溶けてゆくようだ。
やけに天井のシャンデリアが眩しい。めまいがしてきた。
閣僚人事の公表から一週間後、私と緒方さんは帝都最高層のレストラン『トーキョーバビロン』で祝杯を交わしていた。
地上六十階のミカドパレスビルの屋上にある総ガラス張りの展望レストランはまさしく天空の城で、周囲の建築物は全て眼下にある。ワンフロア分の広大な店内は三層構造になっており、観葉植物が周囲に植えられた人工のせせらぎまで流れている。
一層は全て窓際席で、真ん中にある厨房の屋根に当たる中二階がバーカウンターとカップルシートで占められている。さらにそこから螺旋階段を昇ったところにあるのが、モンゴルのゲルを模した十畳ほどの広さのスペシャルボックス席で、ドーム状の開閉式ガラス天蓋に覆われている。
足元のタイルは中央アジアの聖都ヒヴァが帝政ロシア軍に破壊された時、宮廷の床から剥ぎ取られたものの一部で、檜製の食卓はかのティムールが愛用していたとされる国宝級の一品である。なんでも、英領ビルマに流刑された最後のムガル皇帝バハドゥル・シャー2世の私物だったものを、長崎グラバー商会のトーマス・グラバーがサザビーズのオークションで落札して、幕末期の日本に持ち込んだのだという。
今晩は天候も良いので天蓋が開いており、ここから臨む満天の星空は、ダイヤモンドを散りばめたビロードの絨毯だ。
ワイン以外は飲み放題で一人前三十万円という料金も、かりそめのひとときとはいえ、地上の覇者の気分が堪能できることを考えれば安いものだ。
痩せている頃のクロエ・モレッツを意識した太眉とエクステまつ毛の私は、赤紫色のプラダのミニワンピースドレスもばっちりきまり、今夜ばかりはセクシーさでもカトリーヌに見劣りしていないと自負している。さすが、さやかのメイクは神業だ。
およそ三ヶ月ぶりに再会した緒方さんは若干白髪が増えたような気もするが、ノーネクタイでキートンのジャケットをラフに羽織った姿は、肩幅の広さも相まって、和製ジョージ・クルーニーと言っても過言でないくらいクールだ。
年齢的には親子ほども違う私たちだが、気合を入れておしゃれさえすれば、歳の離れた恋人同士に見えなくもない。というか、こういうシチュエーション自体が初めてで、これまで緒方さんと外食というと、マリリンたちと一緒に回転寿司か屋台が定番で、二人っきりでの食事となると大学時代に帰省した時に新天町に親子丼を食べに連れて行ってもらって以来のことだ。
あの時は夏だったから、二人ともTシャツにジーンズ姿で、まさに親子そのものだった。
彼のことを男性として意識するようになったのはいつのことだっただろう。
いつもは無愛想な緒方さんが初めて話しかけてくれた時は嬉しかったけど、私がカウンターで嘔吐するという粗相があっておっちょこちょいのイメージが定着してしまったから、なんとなく師匠と弟子みたいな関係になってしまった。
博学だったから色んなこと教わったなあ。学校の先生にすらほとんど敬意を感じたことがないくらいプライドの高い私が、緒方さんからはいいようにいじられて・・・それでいて一緒にいると安心するというか、会話がなくても「フィオ」でたたずんでいるだけで癒されてた。
あと二十歳くらい若かったら私の射程圏かな、なんて想像を張り巡らしたこともあったっけ。
上京してからも色んな男性と出会い、時に言い寄られることもあったけど、心を許せる人がいなくて、私ってハードル高すぎるのか、しょうもない男しか寄ってこないつまらない女なのか、一時期真剣に悩んでいた。
ようやく謎が解けたのは、大学卒業前くらいだっただろうか。私が男性を異性として評価する基準が、ポチと緒方さんだということに気付いたのだ。家族を除けば、それまでの人生の中で最も、といっても大した時間ではないが、長い時間を過ごした男性がポチと緒方さんで、私はこの二人を通して男というものを学び、理解を深めていったように思う。
確かにポチはチャラいが、口説きモードに入ればスマートで、女性を引き立てるテクニックも一流だ。そんなポチとつるんでいたおかげで、普通の男性とデートしていても退屈で、口説き文句一つ取ってみても陳腐に感じるようになってしまったのだ。とはいえ、ポチはバイセクシャルなので、恋愛感情など一度も芽生えたことはない。
一方、緒方さんは過酷な人生を歩んできただけあって、言葉や態度にも重厚感があり、大人の男はかくあるべし、と私の心の中に男性評価の基準値を植えつけた人だ。かなり打ち解けた関係になっても、底知れない怖さとやさしさが同居しているようなところに一種の近づき難さを覚えていたものだが、いつも私たちをさりげなく見守ってくれていることを実感するようになってからは、信頼感というか、強い絆のようなものを感じ始めた。
最初は親子のような感情、それが歳の離れた兄妹になり、やがて慕う気持ち、愛へと変わっていった。それが昨年のことだ。
男を意識してしまうとなんだか照れくさくて、かえって「フィオ」からも足が遠のいたが、本当はずっと会いたかった。会って思いを伝えたかった。
だけど、もし拒まれたらもうこれまでのような関係ではいられない。それが怖くて、このまま頼りがいのある良き友人のままでいた方が楽しく過ごせるのではないかとも思ったが、今回の選挙に当選したことで、私が高校時代から描いていた「理想の未来」というジグゾー―パズルがほぼ完成に近づくと、このピースを埋めない限りは、夢は永久に未完成であることに気が付いた。
残り二つのピース。そのうち総理の座は時間が解決してくれると確信しているが、愛という名のピースばかりは待っていてもどうにもならない。還暦を過ぎても、古希を過ぎても、総理になるチャンスはあるが、愛はうつろいやすく、風化も早い。
一度は叶わなかった愛が運命によって再び導かれ、何十年か後に成就したという美談も聞いたことはあるが、美化した過去の思い出に酔いしれながら、鮮度を失った愛を噛みしめても虚しいだけだ。後で後悔するくらいなら、今の方がましだ。若くてタフで権力と金も握った今の私なら、傷心にも耐えることができるはずだ。
「好きです」と、たった一言伝えるだけのことで胃が痛くなるほど悩んだが、自分って案外可愛い女なんだ、なんて思えてきて少し嬉しくなった。
そんな私の思いが以心伝心したのだろうか。三日前に緒方さんを食事に誘うと、二つ返事でOKしてくれた。わざわざ東京まで出向いてもらうにもかかわらずだ。しかも、いつもの着古したポロシャツやセーター姿ではなく、彼なりの一張羅を着込んで待ち合わせのロビーに現れたのだ。
スペシャルボックス席は曲のリクエストもできる。
緒方さんがリスボンの酒場で生で聴いたことがあるという、ファドの女王アマリア・ロドリゲスの「Triste(邦題・哀しみのフローレンス)」が、無言の時間をステアしながら、愛を育むカクテルタイムに変えてくれる。
しかめっ面でスコッチミストをすすっている彼の横顔を、ジタンの紫煙越しに眺めているだけで幸せだ。
私は少し口を付けただけのフレンチ75のグラスを弄びながら、モノクロームの「カサブランカ」の世界にどっぷりと浸かっていた。
写真に撮って飾っておきたいくらいのこの瞬間の私たちも、やがては時の流れの中に飲み込まれてこの世から消え去ってしまう。だけど、何万光年も離れた星から人類を超越した科学技術を有する生命体が天体望遠鏡でこの天空の玉座を観察していたとしたら、私たちの生きた証が地球上から完全に抹消された後でも、私の幸せそうな姿を目の当たりにしていることだろう。
私は地球上では過去の人になっても、天上界のスクリーンでは永遠に上映され続けるのだ。
ハッピーエンドか悲劇的結末か、はたまた人情喜劇で泣き笑いを誘うのか、全ては脚本家たる神様の匙加減一つだけど。
いや、私は創造主が決めた運命なんて信じないし、認めない。社会という名の演出家の小言に耳を傾けるつもりもない。私はアドリブで自分の人生を切り開いてやるの。講評は私の生命が尽きた後で天上界の方々にお任せするわ。
千年後に今の私を見つめている宇宙の誰かさん、千年前の美女の最高の笑顔を受け止めてよ。
私は天空に向かって投げキッスした。
私が身銭を切ってスイートをリザーブしていたホテル・トリスタンまで緒方さんを送ってゆくと、エレベーターの前で肩越しに「泊まってけよ」とぶっきらぼうに声をかけられた。
私は無言のまましおらしく部屋まで付いて行き、先にシャワーを浴びた。
マリリンにメールしたのは、緒方さんがシャワーを浴びている間のことだ。
二人ともバスローブ姿で、緒方さんが持参してくれたアイスワインで乾杯を交わした。
私は下戸のくせに「フィオ」でマリリンから薦められた極甘口のイニスキリン・ヴィダル・ゴールドだけは結構いけるのだ。
今夜は格別に甘い。L’amour est doux (恋は甘い)だ。
高まる動悸を抑えようと、何杯もおかわりしてしまったので、ショートボトルはあっという間に空になった。
いよいよだ。ミック・ジャガーが私の手を取って囁きかける。
Let’s spend the night together!
これが交尾・・じゃなくてセックスというものなのか。
こんな時に、犬も猫も最初は痛いのかなあ、なんて考えている私はアブナイ奴なんだろうか。
痛いのに身体が激しく求めているというか、子宮の奥が疼いているような変な気分だ。
そういえばカトリーヌが昔、「ハイランビガチカヅクト、カハンシンガウズイテ、シタクナルノヨ」なんて言ってたっけ。
あの時、不二子が「あんたって年中発情期の淫獣だね」なんて言い返すもんだから、みんなで大笑いしちゃったけど、今じゃ不二子だってやることやってるんだもんね。快楽に目覚めると、どんな女でもそうなるのかな。
純情を卒業したら欲情へと進学して、次は激情、最後は燃え尽きて無情かあ。
あっ、さっきまでリズミカルに動いてた緒方さんのストロークが速くなってきた。もしかして、もしかして、もうすぐフィニッシュってこと?
やばい。
私、危ない日だった。
せっかく気持ちよくなってきたところだけど、緒方さん、ちょっとタンマ。
「なはは、らめ・・」
あれ、呂律が回んないよ。舌の感覚がないみたいな・・どうしたんだろう。
「そろそろお別れだな、弘美」
「ふぇ?」
「さっきのワインの中にテトロドトキシンを垂らしておいたんだ」
「・・・・・」
「お前のようなやつは、このままほっとくと、ヒトラーかムッソリーニみたいなモンスターになっちまう。正義のヒロイン気取りもいいが、いずれは愚かな大衆を欺いて独裁者にでもなるつもりだろ。俺は実は元傭兵で、大勢のゲリラどもを抹殺してきた。仲間もたくさんくたばったがな。地雷を踏んだのはバチが当たったんだろうぜ。ゲリラっていったって大の男ばかりじゃない。女子供もいた。ろくに銃も扱えないガキ共の頭をブチ抜いてゆくのは、やな気分だったぜ。特に娘っこはな。仲間たちが周囲で血だるまになって転げまわっているっていうのに、顔色一つ変えずにみんな勇敢に向かってきたよ。そういや、ピンを抜いたとたんに手榴弾が暴発して粉々になった娘もいたな。高校生くらいの年頃で綺麗な娘だったよ。そいつの血と肉片を体中に浴びた夜は、悪寒がして眠れなかったぜ。戦争は悲惨だ。俺はもうこりごりだ。争いを起こすやつはいつだって自分は安全地帯にいて、罪のない奴らを死地に追い込むんだ。くだらねえ自分の理想を実現するために、他人の幸せまで犠牲にするような野郎に生きる資格はねえんだよ。今頃は石山と那智の野郎も、俺がプレゼントしたスペシャルワインで一足先にあの世に行ってるはずだ。あいつらが寂しがるといけねえから、弘美、お前もそろそろ行ってやれ」
私は「緒方さん、愛してる・・」と言ったつもりなのだが、声にならない。
おそらく唇を読んだのだろう。緒方さんが、顔を近づけてきて「ごめんな」と囁いた瞬間、私は彼を抱き寄せるなり、ペンダントナイフで第二頚椎と第三頚椎の間を抉って神経束を切断した。
脳のキルスイッチがオフになると同時に、生命機能は完全に停止したにもかかわらず、私の体内に入っている部分だけが唐突に脈打ち始めた。
「え、なに?」と思う間もなく、まるで連鎖反応のように、麻痺しかけていた私の身体の隅々まで快感という名の電流が駆け巡った。
イッてしまった。
不覚にも。
生とおさらばしつつある私の体内に生命の源が注ぎ込まれるなんて、何という皮肉だろう。
それを生成した肉体さえ、もはや死肉と化しつつあるのに。
一八〇センチ八〇キロの緒方さんが私の胸の上に倒れこんでいるのに、もう重さも感じないよ。
それなのに、それなのに、まだ先ほどの快感の余韻が私の身体を包み込んでいるのはなぜ?
悲しくて気持ちいい。
これって最高のエクスタシーかもしれない。
だんだん目の前がかすんできた。
ごめんね、パパ、ママ・・もう眠いよ。
せめて、私の中で受精して遺伝子だけでも生き残ってくれないかな。
神様、お願いー
ダイバーシティが社会常識となり女性の社会進出が進展する一方、リベラルな社会に息苦しさを感じ始めた人々も増え、社会は二極化しつつある。そんな中で権力闘争を勝ち抜くのは、若く魅力的な右傾化したカリスマ女性である可能性は少なくないと思う。若い力は暴走しやすい危なっかしさの一方で、物欲や権力欲を蔑視した純度の高い理想を追い求めるエネルギーに満ち溢れている。人々の今の理想を現実化するには年齢的に無理がある権力欲に囚われた老人たちの代わりに、未来計画に本気で取り組める若き有能な人材が現れた時、どれほどの若者が利害関係を無視して未経験の理想主義者を支持してくれるのだろうか。




