第28章 喧嘩上等
民友党、アースエンジェルともに内紛が起き、政界全体が風雲急を告げる中、弘美の愛国心はますます燃えさかり、権力欲にまみれた往生際の悪いダニ議員の駆除に立ち上がる。
令和二年夏
市長室の窓から眺める景色も悪くはないが、目の前にそびえるアクロス天神のバビロンの空中庭園を彷彿とさせる優美な造形に見入っていると、なんとなく見下ろされているようで気分が滅入る。
やはり私の本当の居場所はここではない。
「弘美も一杯付き合わない?」
真っ昼間から市長室で梅酒サワー片手にピンクのソブラニーカクテルをくゆらせながら、黒皮ソファーにふんぞり返っているのは、篠崎高子。
福岡市政史上最年少、二十五歳の市長である。
本来なら私が座る予定だった市長の座に高子がいるのは、ジイの頼みを聞かざるをえなくなったからだ。
といっても、ジイが余命わずかになったというわけではない。米寿を迎えてますます盛んなジイは、先日フルレストアが終了したばかりの一九三八年型イスパノスイザH6Cゼニアというまるで宇宙船のようなフォルムのヴィンテージスポーツカーの慣らしを兼ねて、大分県の別府市北浜にある海南銀行の保養所まで泊りがけで出かけた帰りの九州道で、福岡県警の警邏隊とひと悶着起こしていた。
なんでもパトカーの警官が宇宙船のような車体を見て違法改造車と思い込んで停車を命じたところ、制限速度を守っていたジイは、停められる筋合いはないとばかりに警告を無視して走り続けたらしい。頭にきた警官がパトカーで並走しながら拡声器の声を荒げると、ジイもファックサインでやり返したため、進路を塞がれ、公務執行妨害で甘木署に連行されたのだ。
ところが取り調べ中に、パトカーの警官が陽光を反射して眩しいばかりに輝くシルバーの車体にばかり目が奪われてしまい、リアフェンダー下の目線が高いと見えにくい位置にあるナンバープレートを見落として、無届けの違法車両だと勘違いしていたことがわかった。
ジイは、大方そんなことだろうと見当をつけていたにもかかわらず、快適なドライブを邪魔されたことがよほど気に障ったのか、ふてぶてしい態度のまま顧問弁護士が到着するまで黙秘を貫いた。しかも取り調べ中の会話まで全て録音していたのだ。
サングラスに革ジャン、鳥打帽姿のジイは見るからにワルである。そんな可愛げのない老人から黙秘権をたてに小馬鹿にしたような目つきで睨みつけられれば、相手が警官でなければ胸倉をつかまれていたっておかしくない。
しかし、ジイの挑発に乗った愚かな取調官が「いい歳こいて、じいちゃん」「ちょいワルじじいどころじゃねえな」などと嘲笑を浴びせた証拠が残っている以上、もはや弁解の余地はない。
不良老人の素性を知って慌てふためいた署長が土下座するのを無視して、ホイールスピンの白煙を巻き上げながら、颯爽と署を後にしたジイが自宅に戻ると、門前で風呂敷包みの夕張メロンを抱えた県警本部長が直立不動で待ち構えていた。そのまま南新地の高級鱧料理店まで案内されたジイが、店に入る前に手が滑ったふりをして、那珂川に架かる中州懸橋の上からボイスレコーダーを川ポチャしたことは言うまでもない。
不死身の不良老人の近況はこの際どうでもいい。問題は高子の父である篠崎高文氏で、二年前から若年性アルツハイマーに侵され、昨年度いっぱいで頭取の椅子を実弟の清高常務に譲っていた。すでにその頃は、時折自分の妻と娘を取り違えるほど病状が進行しており、あと何ヶ月高子のことを娘として認識していられるかわからないほど事態は深刻だった。
実は平成三十一年四月の福岡県知事選挙には、高文氏をわが党の公認候補とする方針が前知事選直後に決定し、本人からも内諾を得ていたのだが、志半ばで断念せざるをえない状況に陥ったのだ。
代わりに娘の高子を擁立しようにも、知事の被選挙権は三十歳以上のため、選挙期日にはまだ二十五歳の高子にはその資格がない。
衆参両院で順調に議席を伸ばしているわが党の次の一手は、染井良乃の支持基盤である福岡県を完全にコントロール下に置いたうえで、随時福岡県政、福岡市政から民友党勢力を駆逐してゆくことだった。
福岡県は長らく事実上の民友党の一党独裁体制であったため、国政に顔が利く大物の族議員が多く、地元財界から党への献金額は大阪府と遜色がないと言われていた。それでも、県政市政を掌握しているうちこそ企業献金というパイプラインは潤沢であっても、政治的発言力が低下し、関連企業への利権の供与が途絶えてしまえば、一気に枯渇してしまうことは目に見えている。
わが党は民友党にとって大きな財源である福岡県連の金づるを断つだけでなく、将棋の駒のように寝返らせて敵の戦力を再利用するという計画を予定していただけに、知事選のスルーは痛かった。
しかし世の中悪いことばかりではない。
ベルリン工科大学大学院に留学中の不二子が、ネオナチの友人たちから誘われてオーディン聖槍騎士団という怪しげな神秘教団の集会に興味本位で参加したところ、荘厳な占星術儀式の結果、自身の誕生日(十月二十九日)と被る一〇二九が年度のオーディンの使命が下される救世主の数字に選ばれた、と珍しく興奮気味に国際電話をかけてきた翌日のことだ。
民友党公認の現職市長桐島宗高が、二ヶ月ほど前に発覚した悪性リンパ腫の治療経過が思わしくないことから、令和二年四月二十一日付けで病気療養に専念するために辞職届けを提出したのだ。
この降って沸いたような幸運(不幸?)によって、本来なら二年後に行われるはずの市長選が前倒しになり、篠崎高子に天命が下ったのである。
当時高子は財務省キャリアだったが、入省前から将来的には海南銀行の総帥として地元に戻ってくる意思表示はしていた。それでも父親の政界入り後の話であって、党の未来設計では、染井党首を首相の座に就かせるための下準備として、まず高文氏を福岡県知事に、私を福岡市長にする青写真ができていた。その後、アースエンジェルが政権を奪取した時点で、私は国政に転じ、高子とバトンタッチするつもりだったのだ。
しかし事情が事情なだけに、二十五歳から立候補できる市長選を政界への第一歩と考え張り切っていた私も、父親が元気なうちに一人娘の晴れ姿を見させてやりたい、というジイの思いを汲んで、市長の座は高子に譲ることにしたというわけだ。
任期を満了すれば東京オリンピック後の令和三年の予定だった衆議院議員通常選挙は、内閣不信任案の可決を受けて現内閣が総辞職に追い込まれたため、急遽令和二年九月に行われることになった。
民友党の支持率が急落し、不信任決議を受けるに至った最大の要因は、極度の右極化とサウジアラビアの航空会社アルゾフラ社への軍事技術供与が、国民の党に対する不信感を助長したことによる。
平成二十九年五月十七日、参議院本会議において全会一致で可決した改正外為法により、軍事転用につながる技術供与を無許可で行った際の罰金が最大十億円に引き上げられ、わが国の優れたIT技術の国外流出に対する監視体制が強化されたにもかかわらず、機密輸出に関する許可権を持つ経済産業大臣が権利を悪用し、当該航空会社への軍事技術供与の便宜をはかっていたのだ。
国内大手IT企業であるギャラクティカ社は、防衛省の依頼でレーダー反射面積が少ないステルス性の高い機体を索敵するため、障害となる背景ノイズを除去し、追尾ミサイルの有効射程を延伸するデジタルリムーバーを開発中だったが、このことを嗅ぎつけたサウジアラビア総合情報庁(GIP)は駐日大使官書記長アブドゥル・ムラーを通じて、石黒竜朋総務会長に接触してきた。
当年八十一歳の石黒は党内第二派閥である石黒派の頭領で、国内石油売上高第一位の座に君臨するJPぺトロールの巨大な資金力を背景に政界でのし上がってきた昭和の怪物である。
平成六年の政治資金規正法の改正により、企業・団体からの献金対象が政党と資金管理団体に制限された後に、多額の個人献金を受けたかどで秘書が書類送検され、干されていた時期もあったが、平成二十一年の政権交代により、反目していた党執行部の重鎮たちが詰め腹を切らされたのを期に、再び勢力を拡大してきた。
番頭格である真鶴洋行防衛大臣(七十四歳)との「鶴竜コンビ」は、党内の一部の議員たちからは「老害」と陰口を叩かれていたが、無尽蔵の資金力にモノを言わせ少数派閥の議員を次々と身内に取り込んできた。
中東産油国と太いパイプを持つがゆえに、親米派の黒木田正明総理にとっては内なる敵ともいっていい存在だったが、石黒は公政会前代表、林雄山を説得して与党連立政権を実現させた影の仕掛け人でもあるため邪険には出来ず、政権維持のために提携せざるをえないという拠りどころのない事情があったのだ。
ところが平成三十年一月、次期総裁候補の一人と目されていた石黒派の志垣拓哉外務大臣(五十九歳)が愛人の自殺未遂騒動で更迭され、後任にはアンチ石黒派の金光巌(六十二歳)が就任した。この人事によって志垣のライバルだった黒木田シンパの成田修彦財務大臣(五十七歳)が俄然有利となった。
焦った鶴竜コンビは、第三派閥の山島派、朝比奈清経済産業大臣(五十七歳)に総裁選における全面的協力を餌に接近し、サウジアラビア政府専用機の開発事業計画の一部にギャラクティカ社が参画できるよう便宜を図らせたのだ。
総裁選ではこれまでダークホース的存在に過ぎなかった朝比奈は、不正と引き換えに石黒派と金で転んだ少数派閥の支持を獲得し、黒木田総理の座を脅かすまでに勢力を拡大することができた。
鶴竜が朝比奈の担ぎ出しに走ったのは、彼が元外務省キャリアであり、現職の事務次官とは親友の間柄でもあったからだ。志垣が更迭されても、事務次官とツーカーの朝比奈を操れれば、外務省における石黒派の勢力は維持できる。そのうえ外務省時代の朝比奈は中東関係のエキスパートで、通訳抜きでアラビア語でコミュニケーションが取れるという強みもある。
機密漏えいを防ぐためには関係者は最小限に抑える必要性からも、サウジ側と単独交渉ができる朝比奈は最適な人材だった。
実際、全ては鶴竜の思い通りに進み、石黒派と山島派には潤沢な政治活動資金が流れ込んだまではよかったが、令和元年十二月、アルゾフラ社と提携したギャラクティカ社のCEOボリス横山が資金不正流用の疑いで国税局の査察を受けたことで事態は一変した。
ギャラクティカ社を私物化していたボリスは、伊達順一郎副社長以下重役数名からの証拠提供により辞任に追い込まれたが、その際、経営実態のない架空の子会社に億単位の送金があったことが発覚し、その金の行き先が朝比奈と石黒の個人事務所であったところまで公安から突き止められてしまったのだ。
当初朝比奈は私設秘書に全ての罪を被らせようと画策したが、収監中のボリスが架空会社の代表として名義貸ししていた妻の不起訴処分を条件に全てを暴露してしまったため、国会の証人喚問におけける答弁も大半が偽証であったことが明るみに出た。
黒木田総理の立場としては、朝比奈の秘書と経産省事務次官に責任転嫁してスキャンダルの波及を抑える手もあったが、この機会を利用して石黒派と山島派を壊滅状態に追い込むことで黒木田派の独裁体制を確固たるものとし、将来的に自身が総理の座を勇退した後も、院政を敷くことを優先したのだ。
民友党の弱体化よりも総裁選の刺客とその支持層を一掃することに同意した北輝一官房長官は、検察庁に圧力をかけて恐妻家のボリスの自白を引き出し、石黒と朝比奈の政治生命を断ったばかりか、朝比奈と親密な関係にあった外務次官ほかの幹部職員を脅迫まがいの辞職勧告によりほぼ総入れ替えしてしまった。
これによって平成以降は総理、外務大臣でさえも思いのままにならなかった伏魔殿は完全に焼失し、跡地には民友党所有地の看板が立った。
民友党は石黒派の事実上の解体により、黒木田の独裁体制がさらに強化されたとはいえ、国民の信頼を失墜したことで議席数のさらなる喪失は避けられない事態に陥った。
ところがわがアース・エンジェルも憲法九条の改正と原発の再稼動問題をめぐって党内が分裂し、外務省の改編からわずか一ヶ月後の令和二年五月には、党の選対委員長を務めるリベラル派の島津和平が離党。直後に立憲新生党を立ち上げ、これに追従して離党した元アース・エンジェルの衆参両議員三十二名と合流した。急進左派の台頭も著しく、政界はさながら戦国時代の様相を呈してきた。
党の重鎮たちによるクーデタの要因は、元をたどれば私と那智さんにある。
島津議員は元新進党の古参議員で、染井良乃代表にとっても師匠格だったが、私が選挙参謀格になって以来の婦人勢力ならびに若手の台頭を快く思っておらず、私に対してもかなりの警戒感を示していた。
「和をもって勝つ」というのは所詮アマチュアの論理に過ぎない。「勝って和する」というプロ意識に徹した私は、議席を増やす、つまり選挙に勝つことによって不満分子をも味方につけてきた。
決定的だったのは、「紫電会」から私と那智さんの次期衆議院選出馬の大命が下ったことだ。
党首が、同じ医師であり使命感を共有する那智さんに対する信頼度を増してゆくにつれ、島津議員の肩身が狭くなっていることは傍目からも伺えたが、残念ながら彼は政界における経験値こそ高くても、時代の流れを読むという先見性に欠けているうえ、説教臭くて若年層受けも良くないため、率直に言って、とても同情する気にはなれなかった。
そこをゆくと、美少女?の私は、ティーンエイジャー人気は抜群だし、各地に大学生の親衛隊組織もある。那智さんにいたっては、選挙区内のおばちゃんうけは言うまでもなく、他党の女性地方議員にも人気があった。「紫電会」が当選間違いなしの太鼓判を押したのも当然のことだろう。
幸い島津議員ほか離党した国会議員は、大して役に立たない二世や古参というだけの窓際族が多く、平均年齢も六十歳と高齢だった。しかも揃って権力欲が強く、肩叩きもしづらい相手なだけに、肥満したドブ鼠たちの集団脱走は、党の構造的刷新にはむしろ好都合だったといえるかもしれない。
かねてより国政への参加意欲を表明していた那智さんの政治思想は、端的に言えば、社会保障の充実と国家に対する忠誠をセットにした懐柔策である。
他国に先立って社会保障制度を導入したエリザベス一世にせよ、オットー・ビスマルクにせよ、真の目的は、国民の幸福の追求ではなく富国強兵であった。つまり社会保障とは、国家に尽くした代償として国家が老後の面倒を見るというギブ・アンド・テイクに基づく制度であり、裏を返せば、独裁者による洗脳さながらの専制政治でも敷かない限り、見返りのない愛国心など期待できないということだ。
高度経済成長期に比べて格段に生活レベルが向上した社会に生まれ、甘やかされて育った世代にとって、成績至上主義とカースト並みの格差が融合した実社会はあまりにも過酷で、努力と苦労がそれなりに報われ、今が苦しくとも将来に夢や希望を持てた昭和のような楽天主義は、過去の遺物と化しつつある。
老後の保障は期待できず、高齢者の老後の蓄えを巻き上げる輩が野放し状態の社会で、国民の愛国心を煽ろうというのがどだい無理な話で、憲法第九条の改正にしても、未来に希望の持てない若者たちの目から見れば、支配階級の私兵公募と何ら変わりがない。
豊かで満たされていて守るべきものが多い者が次に望むのが安全保障である。
いくら格差社会の頂点に立っていても暴力に対しては無力に等しいからだ。
最新のセキュリティシステムと屈強なボディガードに守られたビル・ゲイツの邸でさえ、千人単位の武装難民や暴徒に襲われればひとたまりもない。そうなると行き着くところは、市民革命や領土侵犯を阻止しうる国防軍という名のハイテク武装集団の育成こそが、支配階級にとって特権を長期保障してくれる究極のセキュリティシステムということになる。
現政府は、教育の名のもと歴史認識の再構築を行ったうえで国民の愛国心に訴えかけ、効率的に支配階級の安全保障を手に入れたい腹だが、那智さんは社会保障と国家への忠誠心は表裏一体であるという立場から、教育と生活水準の格差是正を最優先事項に置いている。
つまり目標とするところは与党と同じでも、そこに至るプロセスが異なるのである。
それでも那智さんの考え方が富国強兵に傾倒していることは明らかであるため、事なかれ主義の島津議員は危機感を抱いたのだ。
私はこの二人を宋の王安石と司馬光の対立になぞらえて傍観していた。
中国の歴史では、富国強兵策を推進した王安石は、保守派の司馬光の妨害行為により志半ばで失脚している。その結果、宋はどうなったかというと、女真族の金によって滅ぼされ、漢民族は被支配民族へと転落したのだ。
歴史はさらに繰り返す。
華北を捨てて華南に逃亡した宋の趙一族は、建康を都に王朝を再興(南宋)したが、金との武力抗争を主張した岳飛が和平派の秦檜に暗殺された後、金を滅ぼして南下したモンゴル帝国によって王朝の息の根は完全に断たれた。
隣の国の歴史だからといって日本人も笑ってはいられない。
日本人も基本的に変化を好まない傾向が強いからだ。
肝心の私はというと、党の施政方針として安全保障問題を前面に打ち出した。
自衛隊法の改正により、集団的安全保障に基づく武力行使が一部認められたことで、与党は大ブーイングに晒されたが、私はあえてこれを擁護する立場をとった。
無条件降伏から三日後、突如北海道の占守島に上陸を始めたソ連軍に対し、日本の守備隊は徹底抗戦し水際まで追い返したが、政府が戦闘放棄を指示した結果、この島はソ連に占領され、今でも返還されていない。
この例を見てもわかる通り、領土をめぐる紛争はたとえ条約を一方的に反故にしようが、実効支配した者の勝ちなのだ。竹島問題、南沙諸島の基地問題においてもしかりである。不法占領した側が、ここはわが国固有の領土であって領土問題など存在しない、とうそぶけばこれがまかり通ってしまう。
多くの日本人にとって占守島や竹島が他国に実効支配されているからといって、日常生活には何の支障もない。だから無益な争いをするくらいなら放っておけばいいというスタンスなのだろう。
しかし、自分たちがロヒンギャやクルド人の立場だったらどうなのか。虐待されても戦うことを放棄し、針が飛んだレコードのように平和・共存を唱え続けるつもりなのか。無抵抗のままいじめられて自殺に追いやられた子供の死を美化できるのか。
私が集団自衛権の拡大解釈を支持しているのは、軍事大国になって世界に幅を利かせようというのではない。諸外国で起こっている領土問題や民族問題に起因する虐待や紛争に収拾をつけるには、日本がその先鞭を担うしかないと思っているからだ。
かつて十九世紀は白人の時代だった。アフリカも南米も白人に支配され、アジアでも完全な独立を維持しているのはタイと日本だけだった。
しかも極東の小さな島国は、ロシアを破り、東南アジアを占拠していたイギリス、フランス、オランダまで駆逐した。このことが世界中の有色人種に自信と勇気を与え、各地の独立運動を高揚させる要因の一つとなったのだ。
確かに戦争は悪だが、もし日本が白人たちに媚びて争いを避けていたとしたら、いまだに多くの途上国は白人の支配下にあったに違いない。白人社会においても、ブルジョア市民革命という武力抗争なくして十八世紀に民主主義国家が誕生することはなかったはずだ。
人間というのは狡猾な生き物で、自分から手を汚すのはいやがるくせに、それがうまくゆくと追従者になりたがる。
最近、アメリカではインディオを虐殺したコロンブスを英雄視していることに対する反対意見も出ているようだが、新大陸が未開のままずっと放置されていたとしたら、絶海の孤島の島民たちの一部がそうであるように、アメリカ大陸の原住民は今でも前時代的な生活を強いられていたとしてもおかしくはない。ジャレド・ダイヤモンド氏が唱えているように、家畜に適した動物がいない世界では生産効率を劇的に向上させることが出来ないからだ。
話を戻そう。日本はかつてそうであったように、再び汚れ役を演じるべきだ。
もっとも、多くの国民は軍備が縮小され資源も乏しい国が戦争なんて出来るわけない、どうせ太平洋戦争の二の舞だと考えているだろう。しかし、日清、日露戦争の頃の日本人はもっと悲観的だったはずだ。
ほんの二、三十年前までちょんまげ姿で刀を振り回していた国が大国と戦争するなんて、客観的に見れば無謀もいいところで、事実、傍観していた白人たちも日本に勝ち目などあるはずがないと決めつけていた。負ければ占領されて、国民は被征服民族になり、インディオたちのような非人間的な虐待を受けるかもしれない。それだけのリスクを背負いながら、当時の日本人は滅びの美学を貫くことを選んだのだ。
先の大戦では壊滅的な打撃を被ったかもしれないが、逃げることをよしとせず、大敵にも向かってゆく不屈の闘志があったからこそ、日本は負けてもなお世界で一目置かれる国家であり続け、今日の私たちの豊かな生活を現出したといっても過言ではない。
一見無意味に思えるシベリア出兵にしても、ポーランド政府の要請に応じてシベリアで孤立していたポーランドの青少年を保護するためにわが国が貴重な人的・物的資源を投入したことはほとんど省みられることはない。
弱肉強食的な民族問題、領土問題にピリオドを打つためにも、日本は立ち上がらなくてはならない。
今日の経済発展は、労働力の提供や商品市場としての途上国の存在なくしてはありえなかった。にもかかわらず、寝たふりをしてわれ関せずを決め込むのは卑怯だ。
国際社会の一員である以上、相互が支えあってゆくのは当然で、日本には日本にしか出来ない役割があるはずだ。いくらクウェートやドバイが裕福だからといって、ひとたび隣国から軍事侵攻を受ければ社会の機能はたちまち停止する。その豊かさにしても食料品の輸入を閉ざされてしまえば、一ヶ月も経たずに経済崩壊を招き、飢餓難民で溢れかえってしまうほど底は浅い。
しかし日本は違う。有色人種の経済大国にして、世界でも十傑に入る軍事力を有し、工業技術の精度は世界一だ。なおかつ、民族的・宗教的対立という内憂も存在しない。唯一の欠点は食料と燃料が自給自足できないことだ。
つまりバランス的にはポーカーに例えるとフラッシュかストレートくらいのハンドランクなのだが、外交交渉の席では妙に弱気で、どう考えてもツーペアか良くてエースのスリーカードくらいの国家のブラフに易々と引っかかり、ドロップしてしまう傾向が強い。
互いに手の内を見せない国際政治の駆け引きはポーカーのようなもので、自分の持ち札と場の捨て札という限られた情報の中から相手の手を読めるかどうかにかかっている。
優れた情報分析力と財力があるがゆえに、少々のことでは勝負を降りずにレイズしてくるアメリカはともかく、目の前のチップも少なく小さな手しか作れないにもかかわらず、ハッタリをかましてゲームを降りない国もあるというのに、わが国ときたら元手を失うことばかり恐れていて、そもそもポーカーに参加する資格すら疑わしいと思うことが多い。
「こりゃちょっと過激すぎやせんかの」
私の演説原稿をの推敲を頼んでいたジイから指摘されたとおり、関東圏なら、前振りもなくこんな自論をまくしたてたところで、「女ヒトラー」と罵声を浴びせられるのがオチだろう。
だが、私の選挙区である福岡は玄洋社という日本一の右翼団体の本拠地だったこともあって、戦後の日本の教育では否定的な見方をされている頭山満、杉山茂丸、中野正剛といった大物右翼に対する拒絶反応は意外なほど少ない。
逆に地元であるからこそ、彼らがアジアの解放にかけた情熱や篤志家としての一面も正確に伝承されており、公的に称揚することこそはばかられるにせよ、人間として高く評価している人も多いのだ。
福岡高校出身の杉山龍丸は、貧困にあえぐインドの農業生産率向上のために、莫大な私財を全て投げうって国土の緑化運動に力を注ぎ、『インド緑化の父』としてガンジーと並び称されるほどインド国民の尊敬を集める一方で、その存在は日本国内では長らく知られていなかった。
高校の後輩に当る中村哲医師のアフガニスタンでの同様の活動が、これほど賞賛されているにもかかわらずである。
それは、彼が明治大正期に政財界のフィクサーとして名を馳せた杉山茂丸の孫であり、陸軍士官学校出のエリート将校という過去があったからだ。
軍国主義的なものに対して過剰なほどに敏感だった昭和四十年代くらいまでは、「杉山」の名は取り扱い注意となっており、龍丸のボランティア活動に協力する企業人など皆無だった。
杉山茂丸の後ろ盾があってこそ、二日市駅長から政界に進出できた佐藤栄作総理でさえ、龍丸の活動によりインドの親日化が進展したことを十分理解しながらも、総理の座を退くまでは、龍丸の功績については一切口にすることがなかったほどだ。
しかし、佐藤元総理が政界引退後に講演会などでインド緑化運動を賛美したことで、杉山龍丸に対する再評価の気運が高まると、これに乗じた形で地元のマスコミもこれまで自粛していた杉山家の功績に関する報道を解禁し、祖父茂丸が人知れず行ってきたボランティア活動まで世間に知られるようになった。
思えば戦前派の議員や官僚は、自分たちの犯した愚を隠蔽するために、すでに亡き国粋主義者たちに戦争の責任を転嫁すべく、彼らの負の側面ばかりを強調してきた。
福岡県出身者として初の総理大臣となった広田弘毅も、首相・外相時代に侵略戦争に歯止めをかけられなかったという理由で、文官からただ一人だけ戦犯として絞首刑に処されているが、かの杉原千畝が最大級の敬意を表したほどの外交官としての実績は全く考慮されることはなかった。おそらく玄洋社から就学資金を受けていた関係で、右翼の大物とも親しかったため、戦争によって利益を得た他の政治家たちから人身御供にされたのだろう。
このように何かと福岡県出身者は戦争責任を押し付けられる傾向が強かったが、その反動か、地元では彼らの人気は高く、広田弘毅も中野正剛も立派な像が建立されている。
A級戦犯でありながら巨大な石像が護国神社に立ち、少年時代の揮毫が水鏡天満宮の鳥居を飾っているほど広田は福岡県民の誇りであり続けているのだ。
私はそういう福岡人の県民性を考慮したうえで、あえて演説の達人だった中野正剛を髣髴とさせる過激な内容で勝負することにした。
ある程度の反発は覚悟しているが、どちらかといえば事なかれ主義的な福岡の有権者のほんの一部でも、与党の独裁政治に反旗を翻す起爆剤になってくれることを期待してのことだ。
反発は関心を持っていることの表われであって、無視よりはましだ。
意見をぶつけてきてくれてこそ、議論に持ち込め、場合によっては同調者として取り込める可能性も出てくるのだ。
そう考えると、「骨のある喧嘩相手ほど、不思議と仲良くなるったい」と言っていた麻吉親父は、人の心をつかむことにかけては天賦の才能の持ち主なのかもしれない。
ジイは反発を危惧して自制を促すけれど、やっぱりここは勝負だ。
根性のあるヤツ、野心家の私と刺し違えるくらいの覚悟で向かってきな!




