第25章 寒い国から来た用心棒
ある雨の夜、弘美と那智、麻吉親父がプロの襲撃者に襲われる。明らかに敵対勢力が弘美と那智を狙っていることから、弘美たちも凄腕のボディガードを雇うことに。
元号が令和に変わると、各党は参議院選に向け慌しい動きを見せ始めた。
私たちアース・エンジェルの面々も、依然として民友党が幅を利かせている九州・山口地区を中心とした票固めに日々奔走していた。
中でも県議選での策士ぶりに、党所属議員のみならず後援会である『紫電会』の面々からも最上級の賛辞を頂いた私と那智さんは、今回は党婦人会の選挙戦略の監修と、地元商工会議所関係の浮動票の取り込みという重大使命を帯びて、梅雨入り前から東京と福岡を行き来する日々を送っていた。
時を同じくして、民友党福岡県連が子飼いの記者連中を総動員して情報収集に当らせ、私たちの選挙戦略の手の内を知ろうと躍起になっていることは、政界の噂話としてこちらの耳にも届いていたが、この時水面下で、対抗手段が取れないという最悪の事態を想定した妨害工作の下準備にまで取りかかっていようとは、神ならぬ身の知る由もなかった。
雨のしとしと降る夜、『フィオ』を出て小さな路地を曲がったところで、私たちはいきなり黒づくめのスーツ集団に襲われた。
麻吉親父と那智さんがいるからと安心していたのもつかの間、正面から向かってきた男をカウンターの右ショートフック一撃で昏倒させたまではよかったが、左右から近づいてきた二人から顔面と腹部に同時に蹴りを入れられた麻吉親父は、顔面のガードが精一杯で、鳩尾を狙った靴先を避けることが出来ずにその場に転倒した。
襲ってきたのは四人の男だった。顎鬚に白いものが混じった初老の男以外の三人は、いずれも筋肉質の巨躯で、明らかに空手の高段者らしいキレのある身のこなしを見せていた。
顎が外れたらしき一名が両膝をついてうめいているのを除けば、他の二人は動きも良く、麻吉の下腹部を狙って左右から正拳突きと蹴りを連発していた。
下肢をしたたかに蹴られて劣勢の麻吉が、内ポケットからいきなり特殊警棒を取り出すと、形勢は一気に逆転した。
そこから剣道五段の麻吉が筋肉マン二人を片付けるのに擁した時間はわずかに五~六秒。膝と肘を粉砕された男たちが路肩で悶絶しているのを尻目に、麻吉は同じように懐から特殊警棒を取り出した初老の男に打ちかかっていった。
ところが、初老の男の腕前は麻吉とは次元が違っていた。
麻吉の初太刀を身体をゆらしただけでかわした後、振り向きざまに凪いだ一撃を払うと、胴と背中に連打を浴びせて麻吉を水溜りに這いつくばらせた。
「那智さん、やばいよ。おじさんやられちゃうよ」
「確かに凄い腕前だな。麻吉さんが子ども扱いだから七段、いや藩士八段クラスじゃないかな。動作も芸術的だ」
「もお、那智さん、そんな悠長なこと言ってる場合じゃないよ。うわっ、こっちに来るよ」
筋肉マン二人の横に大の字に倒れこんだ麻吉にはもはや戦闘能力は残ってなさそうだった。ゆらりと揺れる柳のような足取りでこちらに近づいてくる初老の男は、全身に冷たい殺気がみなぎっている。
那智さんも剣道四段の猛者だが、人間凶器のような麻吉親父が打ちのめされた今となっては、とても頼りになりそうもない。那智さんが今手にしているのは、いつの間にか傘の本体から抜き取った心棒だけだからだ。
約三メートルの間合いで下段に構えた那智さんは、相手の足元に飛びつくような低い体勢で跳躍するや、傘の心棒を斜め上方に右手一本で突き上げた。
初老の男は左にかわしたつもりが、レピアのように避けた方向にしなってきた傘の先で右の瞼を切り裂かれた。
二度目の突きはかろうじて胸元でブロックし、鍔迫り合いの形になったが、一瞬にやりと笑った那智さんが、警棒を左手で抑えてから、素早く抜いた右手を自分の後頭部に巻きつけるようにして左肩越しに突き出すと、おそらく剣道の達人にとっても死角から飛び出してきたであろう傘の切っ先は、ものの見事に左眼球を貫いた。
雨脚が強くなったおかげで着衣の泥汚れはあらかた洗い流された麻吉親父は、肋骨と肩甲骨を骨折しているとはいえ外傷はほとんどなかったので、セーターで患部を仮固定して那智さんのトレンチコートを羽織れば、一見傘を忘れて雨の中を駈けてきた男にしか見えない。
この三人の組み合わせだと目立つため、私はタクシーで、那智さんと麻吉親父は中洲川端から地下鉄で姪浜まで行き、駅前の螻河内建設本社ビルで合流した。
医師免許を持つ那智さんの応急処置で骨折した第六肋骨を固定してもらった麻吉親父は、応接室の花瓶の隣にディスプレイしていたヘネシーエリプスを鎮痛剤代わりにボトル四分の一ほど一気飲みすると、ようやく痛みが和らいだのか先ほどまでの鬼のような形相から一転して、いつものオヤジ顔に戻った。
「あいつらは、SPか自衛隊の特殊部隊あがりかもしれんな。喧嘩のレベルがヤー公とは雲泥の差やったばい」
「確かに相当な訓練を積んでいるようですね。素手じゃあとてもじゃないけど、僕や石山君では勝負になりませんよ」那智さんが不二子の淹れた紅茶にへネシーを垂らしながら上目使いにつぶやく。
「麻吉おじさんがやられるところなんて初めて見たから、びっくりしちゃった」
「一対一なら負けんくさ。ばってん、四人じゃけんの」
「だけど、あの剣道の達人みたいな人におじさんがやられた時は、私たち殺されるんじゃないかって、ほんとに怖かったんだから」
「僕ってそんなに頼りなかった?」
「ごめんなさい那智さん。私の中ではおじさんより強い人なんて考えられなかったから、足がすくんじゃって・・」
「これからこんなことが起こったら、一目散に逃げるんだよ弘美ちゃん。並みの男じゃ弘美ちゃんの脚には追いつけっこないからね」
「でも、那智さんがいれば大丈夫だよね」
「いやいや、たまたま傘を持ってたからで、丸腰の僕なんてまるで当てにならないよ」
謙遜しているけど、那智さんの落ち着きぶりは尋常じゃなかった。相手の力量を推し量っているような冷静な目つきと、あれだけの達人を瞬時に倒した腕前はただ者じゃない。
「それにしても、那智君の太刀さばきは見事じゃったな。フェンシングを知らんやつにあれは防げんばい」
「そんなにフェンシングって凄いの?」素人の私が尋ねると、武芸百般に精通した麻吉親父が剣道と比較して説明してくれた。
「剣道は両手で打つけんが、ボクシングのジャブのように速かとは打てん。そやけんが、片手でしなってくる切っ先のスピードと軌道には反応できんったい。オリンピック銀メダリストの太田雄貴は0・5秒で二度も突けるとぜ。そいに剣道は下から上への攻撃に慣れとらんけん、避けるだけでもやおいかん」
麻吉親父の解説によるとこうだ。
剣道競技における突きは、的の小さな喉元以外はポイントにならないから、普通は面、篭手、胴を打つ。しかし、いかに打ち込みが速いといっても、目標までの到達時間は突く動作よりは遅い。したがって剣道競技で培われた動態視力や防御技術では、経験したことのないスピードで突いてくるフェンシングの攻撃に対応するのは厳しいというわけだ。何よりフェンシングの剣にはしなりがあるため、剣道の見切りでは曲線的に食い込んでくる切っ先をかわすのは至難の業なのだ。
那智さんはハイデルベルク大学ではフェンシング部に所属し、ドイツ大学選手権ではフルーレ団体で準優勝したことがあるそうだ。剣道四段の腕前に加えて、フェンシングも一級品なら、刃物を持てば無敵だろう。
「あの男は剣道家としては超一流でも、剣術家ではないですよ。真剣で戦う時は、突くか手元あるいは足を斬りつけてくるのが常道でしょう。鍔迫り合いになったら膝か股間を蹴ってきますよ。彼にはそういう汚さがなかったから、僕でも勝てたんです。いずれにせよ、左目はもう使い物にならないし、右目も傷が網膜まで達しているはずだから、剣道家としては終わりですね」
那智さんは洞察力もプロの域だ。
「まあ、スポーツ剣道の限界ちいうとこやな。道場じゃ平凡な師範に過ぎんかった近藤勇が、真剣での殺し合いになっと、むちゃくちゃ強かったんと一緒たい。そいにしてんが、那智君の実戦的な知識は大したもんやな。誰か凄か師範についとったとやろ」
麻吉親父が他人を誉めるのは珍しい。
「いえいえ、スポーツ医学をかじっていたもんで、人体の急所や筋力、関節の稼動範囲なんかに詳しいだけのことですよ。人間の筋力には年齢的限界がありますからね。いかに剣道や空手の達人でも、ドーピングでもやってない限り、初老の男が二十代の若者より俊敏に動くことは生理学的に不可能です。ましてや雨水に濡れた重いスーツをまとっているんですよ。あの体格の筋力から想定して、弘美ちゃんの傘の下で全く濡れていない僕の突きをかわせる道理がない」
那智さんが逃げようとするでもなく、麻吉親父が戦っているところをじっと見ていたのは、相手の動きを観察して、勝算があると確信していたからに違いない。わざわざ眼球を貫いたのは、剣道の達人がフェンサー相手の対策を練る機会を葬り去る目的だったのだろう。
そうだ。麻吉親父が筋肉マンたちと殴りあっている時に加勢をしなかったのも、そこで太刀筋を見せたくなかったからだ。三人のマッチョと一人の痩身の男というアンバランスな組み合わせから想像するとすれば、痩身の男の武器は腕力ではなく刃物か銃だろう。もっとも、銃は足がつきやすいから刃物の可能性もなきにしもあらずだが、あの服装で長い武器は隠せそうもないから、携帯しているのはせいぜい短刀か特殊警棒に絞ることができる。だからこそ那智さんは相手が剣道の熟練者だと推測して、ぎりぎりまで自分の手の内を見せずに、最も危険な相手を一撃で仕留めるつもりだったのだ。
「みんな無事だったのはいいけど、そいつらからお礼参りされたりしない?」
いつもはクールな不二子も、父親がこれほど痛めつけられた姿を見たのは初めてだけに、心なしか少し声が震えていた。
「タクシーに乗ってからすぐ、私がポチにメールして警察呼ぶように伝えたから、あの男たち今頃は博多署で絞られてるはずよ」
私は自分の携帯で警察に電話をして発信者を特定されるような愚は犯さない。
ちょうどポチがセフレと清川のラブホテルにしけこんでいたので、近くの公衆電話から通報するよう指示したのだ。
「傘は途中で那珂川に捨てたし、あの雨じゃ足跡も流されてるから、僕らが現場にいた証拠なんて一切ないんだよ。それに麻吉さんを助け起こした時、ついでに下敷きになってた二人の股関節も修復でき
ないように警棒で砕いておいたから、誰かが保釈金積んで釈放されたとしても、もう戦闘員としては使えないだろうね」
さすがに那智さん、抜かりがないというか、まるで必殺仕事人のように情け容赦もない。
「というわけたい、金坊」
麻吉親父と私は、料亭『秋水』に福岡県警本部長、山田金警視監を招いて二日前のいきさつについて相談することにしたのだ。
「私も詳しい状況報告は受けていませんが、所轄じゃ単なる暴力団の抗争と見ているようですね。ただ私の感じたところでは、どこかから圧力がかかっているようなー」
「大方、そんなとこじゃろうとは思っとったけんが、次の手は打ってくるかの」
「暴力が通じなかったからといって、まさかサリンやPXガスまで持ち出すことはないでしょうが、念のためにマル暴のOBでも二人ばかりつけておきましょうか。もっとも、先生を守るというのもおこがましいかもしれませんが」
「どうせなら射撃の上手いやつにしろや。柔剣道や空手じゃ、殺すつもりで向こうてくるプロ相手には役に立たんばい。グリンベレーやデルタフォースあがりの奴が出てきた日にゃ、ワシがおっても皆殺しじゃ」
麻吉親父の相変わらずの無茶ぶりにも、山田警視監は嫌な顔一つ見せずに丁寧に対応している。
「銃、ですか。理由もなく携帯させるのは無理ですし、それこそ銃撃戦にでもなったら私が辞表を書いたくらいじゃ済みません。ましてや警察官が野党関係者を私的に護衛していたことが発覚すれば、染井先生にも迷惑がかかります」
「柳にヤッパを持たせりゃあ、飛び道具より速かかもしれんばってんが、せっかく堅気になったヤツを元の世界に戻すわけにゃいかんけーのう」
「確かに柳はSP二人くらいは瞬殺の腕前ですが、今度ムショ行きになったら、ちょっとやそっとじゃ出てこれませんからね。ああそういえば、警察や自衛隊とも無関係で使える男がいましたよ」
「経歴はどげんな」
「私が外事課にいた時にちょっと関わったことのある亡命ロシア人で、ロシア連邦保安庁アルファ部隊の狙撃手だった男です。屋外での銃撃ポイントとトラップの察知に長けていて、危機管理能力は皇宮警察のベテランでも敵いません。現在は神戸で外国人相手にフリーランスのボディガードをしていますが、私にはちょっとした借りがあるので、選挙が終わるくらいまでならタダ働きさせますよ」
アルファ部隊というのは旧KGB第七局破壊工作対策課Aグループを前身とする特殊部隊で、その作戦遂行能力は米陸軍のデルタフォースに匹敵するといわれる。この元アルファ部隊隊員は、六年前にサンクト・ペテルブルクのコンサートホールで起こった立てこもりテロ事件に狙撃部隊の副隊長と
して派遣された際、射殺した犯人が倒れた衝撃で、手にしていた散弾銃が暴発し、観客の中にいた政府高官夫人に重傷を負わせたかどで、サハリン州ユジノサハリンスクの保安局に左遷された。それから一年後、パワハラ上司を半殺しにしてシベリアの収容所送りとなるが、護送中に脱走し、大連の日本領事事務所に転がり込んできたのだという。
当時、瀋陽日本領事館主席領事が東大のゼミの先輩だったこともあり、相談を受けた山田公安三課長が情報収集のための亡命許可を進言したらしい。
「いや、日当十万でよか。そんだけん腕ばただで借りるわけにゃいかんばい」
「さすがは先生、話がわかる。これで万が一先生方に被害が及んだ場合は、私の方できっちりけじめをつけさせていただきます」
「そん時ゃ金坊、きさんが本丸で胡坐かいとるボス猿ん生首ば掻っさばいてきて、ワシん仏前に供えちゃりやい」
麻吉親父に凄まれ、国家警察の大幹部たる山田警視監が畳に両手をついて「御意」と頭を下げる姿は、まるで織田信長の前にひれ伏した木下藤吉郎だった。
三日後、那智さんと福岡空港に迎えに行くと、待ち合わせ場所に指定しておいた国内線二階のカフェに現れた本人を見てびっくり。私たちと変わらない黒髪のアジア系で、背格好も平均的な日本人より少し恰幅がいいくらいだった。普通に日本語を話せれば、そのまま日本人で通りそうなくらいだ。
後で聞くと、ロシア人といっても父方の一族がアイグン出身のツングース系だそうで、特殊部隊というから白人の大男を想像していた私は当てが外れた格好になったが、ボディガードらしくないぶん、目立たなくていいかもしれない。
カウンターから通路を見ていた私と目が合い、目印である私の赤いベレー帽を確認したブリオーニのスーツ姿の男が、こちらへ向かってまっすぐ歩いてきた。
「グーテンターク!」
アルファ部隊ではドイツ語は公用語だと聞いていた私がドイツ語で挨拶すると、なんとその男は
「ぼちぼちでんなー」
と、ガチ関西弁で返してきたのだ。
私の仲間内で多少なりともロシア語が理解出来るのは、留学中のマリリンしかいないので、中途半端な私の英語より、ドイツ語がペラペラの那智さんの方が話がしやすいと思いきや、すでに日本語を完璧にマスターしていたのだ。金さんからアルファ部隊は語学力も一級品と伺っていたが、日本に来て五年弱というのに、関西人と遜色がないほど流暢に関西弁を操るとは、恐るべしエリート特殊部隊である。
「ジーマ・スパイロフいいます。アルファ時代は“バイオン”言われとりました」
「バイオンって確かギリシャ語じゃないですか。灰色っていう意味の」
「わてがアルファの隊員になったばかりの頃は、えろう青白い顔しとりまして、根暗っぽいちゅうことで、ギリシャ系の隊長がそないなコードネーム付けよったんですわ」
「へえー。でも、今は血色良さそうですよ」
「これは酒やけでんねん」
三十五歳と聞いていたが、髪は薄いし、口調も雰囲気もまるで中年おやじだ。
どこがアルファ部隊やねん。ベータカロテンみたいな顔しくさって。
おおっと、私までが釣られて言語コードが関西弁になってしまった。
サングラスを外すと、鳶色の瞳と彫りの深さにやや東洋人離れしたところが伺えるものの、クオーターの関西人だと紹介すれば、ほとんどの人がそう信じるだろう。
「ランチはもうすませましたか」那智さんが尋ねると、
「いや、まだでんねん。博多はラーメンがごっつ美味い聞いとりますよって、ええ店知っとったら連れてってくんなはれ」
「そうだな。僕もしばらくラーメン食べてないから、長浜でも行きましょうか。弘美ちゃんもそれでいいかい?」
久々の元祖長浜ラーメンは美味しかった。
昨今のラーメンブームで、東京でもオリジナリティに富んだインスタ映えしそうなラーメン店に行列が並んでいるのをよく見かけるが、一昔前まではラーメンを食べるために列をなしているのは、福岡でも元祖長浜くらいのものだった。
トッピングが豪華なラーメンは、値段が張るだけあって美味しいことは美味しいけれども、さすがに毎日食べていると飽きてしまう。
その点、元祖長浜はシンプルだけど、頻繁に食べていても飽きがこない。
かつては替え玉がたったの五十円だったから、葱を山盛り追加してもらって(無料でだ)替え肉までたのんでも五百円でお釣りがくる安さだった。
ラーメンは材料の単価が安いから、これでも十分元が取れていたはずだ。元祖長浜ラーメンはまさしく学生と庶民の味方だった。
それが最近のラーメンときたら、下手するとビジネスホテルのビュッフェランチよりも値段が高く、人気のラーメン屋が市内にビルを建てるご時世だ。
「一杯のかけそば」が日本昔ばなしになってゆく。
那智さんがレンゲも使わずスープをズルズルすすりながら、額に汗してラーメンを夢中で食している姿は、普段の寸分の隙もない優雅な所作とはあまりにもギャップが大きく、ちょっとした驚きを禁じえないが、これはこれで躍動的で美しく、ずっと眺めていたいほどだ。
ジーマはといえば、箸に麺を巻きつけてスパゲッティを食べるように音も立てずにすいすいとたいらげている。ロシアの田舎者が「こらいけまんなー」とか言いながらがっつく姿を想像していただけに、大衆食をこうも上品に食べられると、調子が狂ってしまう。
それどころか、私が那智さんばりに豪快な音を立ててズルズルやっていると、「若いおなごが下品な真似やめなはれ」と睨みつけてくる始末だ。
私は懐かしい味に夢中になって、ついつい三回も替え玉を頼んでしまったが、最近は運動不足で食が細くなっていたせいか、不覚にも帰り道で強力わかもと(整腸剤の定番)に助けを求める事態に陥った。
そんな私に比べると、同じ量を食べた那智さんもジーマもケロリとしていて、早くもデザートのスイーツを食べに行く算段をしていたのには驚かされた。
さすがに私はスイーツはパスして、レモンティーで整腸剤を飲み干すのにとどめたが、二人はチェリーブランデーをたっぷり垂らした、まるで雪だるまのような二段重ねのベイクドアラスカを、あっという間に平らげていた。
「なんでそんなに食べれるの?」私が不思議そうにジーマに尋ねてみると、
「食い溜めができへんかったら、スナイパーは務まりまへん」と急にマジ顔になった。
ジーマによると、日中の狙撃はまだしも、夜間の場合は熱センサーに引っかからないように、全身にグリースを塗りたくったまま、五~六時間微動だにせずに標的を待ち続けることも珍しくないそうで、狙撃任務の日は前夜から食事を断つのが常識だったという。
もちろん空腹でもスタミナがなければ、カウンタースナイパーから逃げおおせることができないため、日頃はカロリーの高い食事をがっつり摂っておくのだそうだ。まるで冬眠前のヒグマである。
「じゃあ、狙撃待機中のトイレはどうするの?」と聞くと、
「んなもん垂れ流しにきまっとりますがな。そやけど重要任務の前は、ボクサー並みに水分も極限まで絞りこんどるさかい、小便どころか唾液もよう出らんですわ」ときた。
ジーマの話を聞いているうちに、目の前のレモンティーが検尿に見えてきて、余計に気分が悪くなった。
翌日、ヒルトン福岡シーホークで山田本部長立ち合いのもと、私と那智さん、麻吉親父、ジーマとの間でボディガード契約が交わされた。
四名の署名入り契約書は、秘密保持のため、山田本部長名義の海南銀行本店貸し金庫に保管することとし、ジーマには、彼が偽名で開設したスイス銀行の口座に海南銀行を通じて入金された必要経費込みの前金三万五千米ドルの入金証明書が渡された。
ジーマの愛車はフォルクスワーゲン・トランスポルターT2という旧式のワゴン車で、わが国でも「ワーゲン・バス」の愛称で親しまれていたものだ。
昔はホットドッグ屋やかき氷屋の移動販売車としてよく見かけたが、この手の車両のほとんどが国産に取って代わられた現在でも、ブラジルやスペインでは新車が販売されているのだそうだ。
ただし、見かけこそ古色豊かな空冷フラット4であっても、二十一世紀バージョンらしく、電気モーターに換装されているほか、パワステ、AT、エアコンにUSB対応のカーコンポーネントと装備も充実している。
もちろんフリーのボディガード業を営んでいるだけあって、グラスウィンドーは全て防弾、ドアも内張りに高強度、高弾性率のケブラーを使っている。レーダー搭載のカーナビに組み込まれた追尾車両認識センサーと相まって、依頼者の満足度も極めて高いらしい。
一時期はスイスで軍用車両として活躍していたというから、車体の強度は国産車の比ではないが、ジーマがさらにポルシェのタワーバーと同じ材質の特殊軽合金のパイプで車体後部を補強しているため、車体がクラッシュして粉々になっても後部座席の乗客は守れるようになっている。
二分割のソファー仕様の後部座席は倒せばシングルベッドにもなるし、キャンピングカーのように折り畳み式テーブルとテレビ、冷蔵庫まで備わっているため、移動中の執務はもちろんのこと、パーキングエリアで車内泊するにも何ら差し支えがない。
これから選挙までの間、私と那智さんはジーマのVWで送迎されることになる。
最近356がご機嫌斜めということもあって、那智さんのマセラティ・カムシンに同乗させてもらうことが多かっただけに、ラグジュアリーなコクピットを包み込むV8サウンドとシトロエン製ハイドロニューマティックサスペンションが醸し出す揺りかごのような心地よさとお別れするのは辛かったが、いざ試乗してみると、1Kの個室がそのまま動いている感覚が新鮮で癖になりそうだ。
「要注意なんは、盲人、老人、車椅子に妊婦や。明らかに自分に向かって半径5メートル以内に近づいてきよったら、逃げなはれ」
「一番安全そうなやつが一番危険というわけですね」
「そや。プロなら化けるんはわけないさかいな」
「でも目の前で車椅子の人がひっくり返ったり、妊婦が産気づいてうずくまったりしたら、無視できないでしょ。芝居じゃなかったら大変なことになるわよ」
「それがあかんねん。じゃああんたのこれまでの人生の中で、目の前で車椅子が転倒したり、妊婦が産気づいたちゅう経験がありまっか。おまへんやろ」
「それは、ないけど・・」
「二十数年間経験のないのんに、よりによってこの時期に遭遇する確率を考えてみなはれ。わては偶然なんぞ信じまへん。何でも偶然で片付けるアホは早死にするんや」
「松本清張じゃないけど、“十万分の一の偶然”は故意ってことですね」
「そういうこっちゃ」
「だけど、ジーマと私たちが出会ったのは、偶然でしょ」
「それは必然や。国家権力相手に要人を守りきれるのはわてだけや。わてしかおらへんのやから、最高のボディガードを探せば、最後はわてにたどり着くのは当たり前でっしゃろ」
自信満々のジーマがそう言い残して私たちと別れた後、私は那智さんにも同じことを聞いてみた。
答えは正直わけがわからなかった。
「フフフ。石山君が君と不二子ちゃんに声を掛けたのが、僕との出会いにつながったのは偶然じゃないんだよ。僕は君のような女性を探していた。だから石山君から面白い子がいるっている話を聞いた時、是非会わせてもらえるよう頼んだのさ。彼の女性の本質を見抜く目は確かだからね」
「だけど、石山さんが私たちに声を掛けた時、もし私と不二子がシカトし続けたら、友だちになることだってなかっただろうし、麻吉さんが殴らずに追い払っていたら、それまでですよね」
「そういう考え方もできるかもしれないけど、石山君と麻吉さんが顔見知りだったことまで偶然だっていう確信はあるのかな。誰かの意図が働いていた可能性がないって言い切れる?」
「ちょ、ちょっと、恐いこと言わないで下さいよ。石山さんってストーカーの気もあるんですか」
「心配しないで。彼は女性には結構ドライだよ。僕がマインドコントロールしてただけさ」
「えっ、もしかして私のこと高校の頃から知ってました?」
「そんなわけないでしょ。石山君から紹介されるまで写真も見たこともないんだから。マインドコントロールなんて冗談だよ。さっきは僕が君を探したように言ったけど、石山君も僕もジーマもみんな君から呼ばれたんだよ。僕らのメタ無意識の中には君がいるんだ。全ては必然であるってことにまだ誰も気付いていないだけさ。僕を除いてはね」
かつがれているのだろうか。
那智さんってオカルト趣味なのかな。
ジーマも変だけど、那智さんはもっと変だよ。
福岡を発つ前日の夜には、螻河内家でジーマも含めて出立式としゃれこんだが、招待客であるジーマの方から、雇ってもらったお礼にロシア料理をご馳走したい、との申し出があり、螻河内家の菜園で収穫した野菜を使った簡単な料理を作ってもらうことになった。
ゴルブッツィというウクライナ風ロールキャベツの煮込み焼きと、キノコスープのグリヴィーは本当に美味で、実はアルファ部隊の料理番を務めていたのではないかと思ったほどだ。
食後に不二子が作ってくれたさくらんぼと桃のベリーニも、炭酸入りフルーツジュースみたいで、アルコールが苦手な私がおかわりしてしまうほど飲みやすかった。
酒飲みの性か、麻吉親父とジーマはベルーガ(高級ロシアウォッカ)をバカラのショットグラスで酌み交わしながら、旧知の友のように盛り上がっていた。
「こいつはただのペンナイフに見えまっしゃろ。実はスペツナズナイフと同じ仕組みになっとるよって、刀身が飛び出しよるねん。二メートル以内やったら人間の反射神経では避けられまへんけど、急所に命中せん限りは、完全に相手の戦闘能力を奪うっちゅうわけにはいかへんさかい、通常は即効性の神経毒を塗っとるちゅうわけや」
「ほとんど銃と一緒じゃない。でも相手が複数だったらどうするの」と不二子が尋ねた。
「心配おまへん。アルファ部隊は、鍛え方が違いますよって、素手ゴロやったらプロの格闘家にも負けしまへん。まかしとくんなはれ」
「この露助が、調子こくっちゃなか。さっきワシに腹ば殴らせてもどしそうになったとは、どこんどいつか?」
「あれは、素人やと舐めとって、油断してもうただけでんねん」
「そいやったら、ここでもう一発殴らせちゃらんや」
「今は満腹やさかい、堪忍しとくんなはれ」
「調子のよか男じゃのう。こげなんで大丈夫とか?」
アルファ部隊の訓練は自衛隊のレンジャー部隊の訓練がお遊戯に見えるほど過酷で、互いに鉄パイプやバットで身体を叩き合ってタフネスを競うこともあるという。しかも日々の格闘技術の鍛錬の目的が“殺害”に限定されるため、巷の格闘技の禁じ手を反射的に繰り出すところが恐い。
反則技を極めたアルファの男たちにとって、表の世界の武道家など鎖付きのペット犬同然なのだ。
ライオンや虎ですら生後からずっと人間に飼育されていると、本能的にところかまわず噛み付いたり引っかいたりするだけで効率的な“狩り”はできない。体格や筋力において同族に引けをとらなくとも、本来は母親から教わるはずの、まずは捕食対象の息の根を止めるという狩猟経験値が欠如しているからだ。
ジーマは見た目こそ人懐っこいハスキー犬かもしれないが、人間に飼育された獣など捕食対象にしか見えないくらい、獰猛で危険な野性の狩人なのだ。
ジーマがシックスパックの腹筋を見せて、偉そうなことを言うので、麻吉親父が「試してよかな」と鳩尾を抜き手で抉ったところ、居間のペルシャ絨毯の上にゲロを吐きそうになったらしい。
麻吉親父からすると、口ほどにもない、のかもしれないが、アラフィフにして人差し指だけの指立て伏せが十回以上できることを知っている私としては、その麻吉親父の一撃を急所に受けながら失神しなかったというだけで、ボディガードとして一流であることを確信した。




