第21章 社会人篇 偽造の太陽
”キレ者”那智統を陣営に迎えた弘美は、染井良乃を政界のヒロインにすべく大きな賭けに出る。
平成二十九年四月、大学卒業と同時に染井良乃議員の公設第一秘書に昇格した私は、JR高円寺駅南口から徒歩三分の場所にある議員事務所の実質的な主として一切の職務を任されることになった。
元は四谷にあった事務所をここに移転したのは、麻吉親父の舎弟の口利きで、入り口に駐車スペースのある物件を安価で斡旋してもらえたことと、事務所内のリノベーションも含めた一切合財を私のプランに基づいてゼロから行いたいという、いささかわがままな理由による。
事務引継ぎは、前任者の寿退社が決定していたたため、二人の間にはわだかまりもなく、私が私設秘書に採用された時点からすみやかに遂行された。
また公設第二秘書は、紫電会が地元有力企業の営業課長補佐のポストを、事務職員には博多港物流センターの配送係長のポストをそれぞれ用意したのと引き換えに、年度末をもって退職してもらっており、先輩面して私に指図しかねないような職員はもはや誰も残っていない。
代わりに私が公設第二秘書に推したのが、那智さんである。
ポチの紹介で那智さんと知り合って二年余り、私はずっと彼のことを観察し、相当な切れ者であると同時にかなりの野心家でもあることも見抜いていた。
すでに不二子も那智さんの軍師としての才知に太鼓判を押してはいたが、念のため竜野同窓会長らとの食事会を通じてGOサインを頂いたうえで、染井先輩にも引き合わせることにした。
もちろん染井先輩には、那智さんが使える男であることを示唆したうえで、価値観が近ければ、是非陣営に取り込んでもらうよう事前にプッシュしておいたが。
結果、那智さんはインターン終了後に公設第二秘書として染井事務所に籍を置くことに合意した。
那智さんほどの人が第二秘書の座に甘んじているのは、そこは単なる踏み台で、政治勉強のためと割り切っているからである。つまりその裏には、才女同窓会の口添えで、機が熟し次第、紫電会が将来的な那智統の国政選挙出馬に全面協力をするという約束事があるのだ。
これには付帯条件として、事務局長として“ポチ”こと石山新次郎を採用することも含まれている。
ここまで私の思惑通りに事が運んだのは、選挙参謀としての私の実力に対する党からの高い評価と那智さんの人間的魅力(悪魔的というべきか)に染井先輩が洗脳に近いほどの信頼を寄せている証でもある。
一応ポチも染井先輩による面接を受けてはいるが、男性に対する免疫力の低い先輩のこと、まんまとヤツの口車に乗せられ、かなりの好待遇での採用に同意してくれた。
それもセキュリティ対策を口実に、この三階建ての小さなビルの最上階を2DKに改装したうえで住み込みで働くことにまで了解を得たというのだから恐れ入る。もちろん家賃はタダである。
その代わり、私から事務所に女性を連れ込むことを禁じられているため、女性との交際費で給与の大半が消えるという金欠生活からは脱却できないままだ。。
ついでに言うと、事務所から逆の方角、高円寺駅北口方面には、大学院修士課程進学後もそのまま魔法屋敷に住み続ける不二子がいる。自転車で十分足らずのところに彼女がいるというのも実に心強い。
これで役者は揃った。
これだけの頭脳集団が結束すれば、どんな不可能だって可能にできる。
ラッセルとアインシュタインのコンビだって目じゃないわ。
平成二十九年七月五日から六日にかけて九州北部を襲った未曾有の局地豪雨は、大分県と福岡県にかけて濁流による大規模な土砂災害をもたらした。
七月七日金曜日に母校で開催予定の講演会に備えて五日に福岡に戻っていた私は、朝倉市と東峰村での被害が甚大であることを夜のニュースで知るや、ただちに染井先輩と那智さんに連絡を取り、現地での救援活動への参加を要請した。
本家が朝倉にある那智さんは言うまでもなく、正義感の強い染井先輩も全てのスケジュールをキャンセルして帰省することを了承してくれたので、私は実家に救急医療に必要な器具と薬品をとりあえず二百名分用意してもらうよう頼み込んだ。
七日の午前中に麻吉親父の運転するランボルギーニ・チータで小倉駅に到着したばかりの染井先輩と那智さんを拾うと、国道十号線を南下して豊前市の槇村医院で医療物資と食料・飲料水を積み込み、夕方までには被災地の朝倉入りすることが出来た。
道という道が土砂に埋もれ、流木が転がっている中、消防関係の車両まで行く手を塞がれ立ち往生しているのを尻目に、高性能軍用4WDのチータは日没間際に赤谷川上流のライフラインを断たれた地域までたどりついた。
当初は麻吉親父がレジャー用に使用している水陸両用のシュビムワーゲンも考えたのだが、平地走行で80kmしか出せないうえ、積載量にも限りがあるため、チータを選んだのだ。実際、障害物だらけのぬかるんだ不整地は非力なワーゲンの小径タイヤには荷が重く、チータでなければ走破できなかっただろう。
孤立した被災者のもとに到着してからは、まず水と食料を配り、体力的に余裕のある人たちの協力得て設営した簡易テントで染井先輩と那智さんが負傷者の応急処置を始めた。看護師役は、もちろん私である。
一応医師の娘なので、多少は医療器具や薬品の名前も知っているとはいえ、なにぶん不器用なものだから、包帯の巻き方はめちゃくちゃ、縫合用の針穴に糸を通すのに一分もかかって、那智さんから冷ややかな視線を浴びせられるわ、生れてこのかたこれほど緊迫感に満ちた時間を過ごしたのは、ちょっと記憶にない。
麻吉親父はといえば、薪を集めて火元を確保すると、治療に必要な湯を沸かし続け、夜明けと同時に、消防が待機している場所まで重傷者をピストン輸送してくれた。居残った被災者も、二人の腕利き外科医の手際のよい処置により、救援隊が駆けつけるまで大事に至ることはなかった。
九日の昼前には大勢のボランティア医療関係者が朝倉入りしたため、ようやくお役御免となった私たちは、天瀬温泉で一風呂浴びてから国東の大分空港までチータで送ってもらい、その日のうちに東京に舞い戻った。
十日の報道番組は染井代議士をリーダーとする救援活動の話題一色で、事務所では取材の応対に大わらわだった。
連日のハードワークで疲労困憊だった染井先輩は、本人が「仕事があるから」と渋るのを、昨夜のうちに、山室先生の友人が副院長を務める東京聖女病院に無理やり入院させておいたが、検査の結果、単なる過労との診断を受けたので、十日の夕方には病室で記者会見に応じることになった。
げっそりやつれた先輩はノーメイクでの会見に最後まで抵抗したが、病室でメイクなんてKYです、といさめて何とか納得させることができた。もちろんこれも私の計算のうちで、いつもは一流料亭の若女将然とした染井良乃の劣化した姿を見せることで、世間の同情を買うつもりだった。
現場での活躍の様子は、私がスマホで撮ったものをノートパソコンで編集して、才女OBの報道記者の元に送っておいた。劣悪な交通事情からして、報道関係者が孤立地帯まで入ってこれるのは八日以降だと判断した私は、とっさの思いつきでチータのロールバーにスマホをビニールテープで固定し、車載カメラのようなリアル映像を撮ろうと試みたのだが、これが抜群の宣伝効果を生んだ。パッセンジャーズシートでピラーにしがみついている染井先輩の引きつったような横顔と画面のブレ具合が、絶妙の臨場感を醸し出しており、この時の映像は各局の報道番組で紹介されたからだ。
浅い濁流や沼地のようなところを、小舟のように揺られながら疾駆するチータの雄姿は、アクション映画にそのまま使えそうなほどスリリングだった。陸上自衛隊の七三式パジェロなら、エンジンが水没していたかもしれないような場所も、腰高のミッドシップの強みで一気に走破した。
発表当初、車重に対して心もとないと酷評されたダッジ製八気筒エンジンも、ターボ化とデジタル制御によって、一八三馬力から二六五馬力へと大幅に改善されているため、救護物資満載状態のヘビーウエイトのチータでも、まるで水辺を駆ける虎のごとく、タフでエネルギッシュなパフォーマンスを披露することができたのだ。
応急処置の様子も、LEDに換装しているチータのヘッドライトの照明でばっちり写り込んでいた。
私自身が撮影すると、この非常時に作為的、と非難を浴びかねないので、ドアミラーに固定したスマホの角度とズームを治療中の先輩と那智さんに合わせた後は、そのまま放置しておいたのだ。
慌しく人が出入りするため、治療の様子は途切れ途切れのところもあったが、編集画像でも作業効率の良さはある程度確認出来たので、報道特番で応急処置の様子を見た医療関係者の間でも、二人の奮闘ぶりは評判となった。私がアンヌに送った未編集版を見たF大付属病院の山室院長が、救急外傷外科治療の見本として医学部の教材に使いたい、とまで言ってくれたのは嬉しい誤算だった。
目の下のくまが痛々しいすっぴん姿をカメラにさらしながら、病床で健気にインタビューに応じた染井先輩は、近代初の女医エリザベス・ブラックウェルにちなんで「政界のブラックウェル」と呼ばれるようになった一方で、これでF大医学部の学生票まで取り込めるとほくそえんでいる私は「ダーク・ナイチンゲール」といったところだろうか。
ここから遡ること約二年前の二〇一五年(平成二十七年)十月二十六日、ウルグアイのタバレ・バスケス大統領が、パリへ移動中の機内で急患の十七歳の少女の命を救ったことが世界的なニュースとなった。医師免許を持つ大統領にとっては移動中の急患治療はこれが三度目のことで、彼の政治的手腕以上に、その英雄的行為が人物評価を高めることになった。
それから十日後に四度目の来日を果たしたバスケス大統領は、多忙なスケジュールの合間を縫って十分間だけという条件で、日本の学生代表という肩書きであらゆるコネを使ってアプローチを試みた私と大使館内でのインタビューに応じてくれた。
通訳としてカトリーヌにも同行してもらったが、子供の頃、家族旅行でモンテビデオに行ったことのあるカトリーヌとサッカーの話題で盛り上がり、政治インタビューのつもりが方向がどんどん逸れていった。
挙句の果てには、私たちが手土産に持参したハバナ・クラブ・キューバンバレルをその場で開封して二人で飲み始め、もはやインタビューというより女子大生とオヤジの居酒屋与太話になっていた。
雑談となれば外国人相手でも苦にならない私も、小学生レベルのスペイン語と英語を駆使して会話に加わり、いつの間にかインタビュー時間は予定をはるかに越えていた。
バスケス大統領は実に魅力的な好人物で、理想とする政治の在り方にも大きな感銘を受けた。すでに染井良乃のブレーンの一人だった私は、同じ医師である先輩には日本のバスケスを目指してもらいたいと願い、政治家としての間接的なものではなく、医師として直接的に人助けに携わる機会を模索していた。そういう意味では、九州北部の豪雨災害は、私の邪悪な心が雷神の怒りを招いた結果だったのかもしれない。
それでも、災害が起きるたびに、大して役にも立たないスタッフをぞろぞろと引き連れて現地入りしては、炊き出しや被災者慰問を行う一部の売名目的の著名人たちに比べると、私たちの救援活動は、実際は私の綿密な計画に基づく偽善行為だったにせよ、プロフェッショナルの仕事だったという点において世間の評価は妥当であるといえる。一歩間違えれば遭難の危険性のある地域まで乗り込んで、本格的な医療行為を行うためには、真の勇気に専門的技術が伴わなくてはならないからだ。
事実上の一強体制にある民友党を与党の座から引きずり下ろすには、単発的なスキャンダルネタだけでは心許ない。かといって野党が訴える政治改革がいくら現実的で国民の理想を反映していたとしても、国会で否決され実現に至らなければ所詮は絵に描いた餅である。若者たちはバーチャルリアリティに熱狂していても、リアルな現実を見せない限り、民意を揺さぶることは出来ないのだ。
ましてや十数議席のミニ政党の党首が、どれほど国民のために政治活動に身を砕いたとしても、その成果は砂漠に降った小雨同然で、痕跡などあっという間に消えてしまう。ここ数年の間に若者たちから大きな支持を受けるようになったことで、次期総選挙では三十議席を超えることは間違いないにしても、わが国初の女性総理の擁立を画策している私としては、まだ不満だらけだ。せめて野党連合で過半数を獲得しなくてはならない。
そのためには染井良乃個人を、政界のスーパーヒロインに仕立て上げるしかない。
普通の男の子や女の子が、プロダクションとテレビ局あげての宣伝工作によって、あっという間に国民的アイドルとしてはやしたてられる芸能界と政界では勝手が違うことは私だって重々承知している。
世間知らずの若年層は流行に左右されやすくても、現実社会に生きる中高年はもっと保守的で、実績が伴わないものは信じようとしないからだ。カットでつなげるテレビ番組やドラマは、大根役者でも何度もやり直しがきくし、音痴でさえも高度なミキシング技術で補えば、カリスマ歌手になれるが、国会の生中継や街頭演説ではそうはゆかない。著名人やタレント議員は、選挙戦こそシナリオに従った巧みな演技で乗り切れても、政治、経済、法律の知識がなければ、国会の答弁や公開討論で化けの皮が剥がれてしまうからだ。
幸い染井先輩は政治家としての力量は一級品である。だからこそスター性が伴えば、必ず政界のヒロインになれるはずだ。
では何をウリにするか。他の議員が持たないものといえば、正義感と医師としての技量だ。実際、地方議員の中には個人病院を経営するかたわら政治家としての仕事を平行して行っているケースもあるが、それだけなら弁護士資格を持った政治家と変わらす、大したPRポイントにはならない。
しかし、バスケス大統領のように、周囲に医療従事者がいない窮余の場面で人命救助を行えば、その英雄的行為は「職業医師」というプラチナカードを所持しているぶん、何倍にも増幅して人々に伝わる。医学的に生命を救うことができる能力に匹敵する個人技は存在しないからだ。
正義感が強い麻吉親父なら、この危険なプロジェクトにも二つ返事でOKしてくれることはわかっていた。那智さんも母方の親戚が暮らしている地域だけにすんなり同行を申し出てくれたが、染井先輩の場合は、本人の意思はさておき、万が一彼女を失った時のことを考えると正直怖かった。それでもリスクを省みずに引っ張っていったのは、いざとなれば、忠臣たる私が染井良乃の遺志を継いで国政の場に打って出ればいいという野心もあったからだ。もっとも全員遭難してしまえば、生兵法は怪我のもと、と揶揄されるのがオチだっただろうが。
私たちは命を懸けたギャンブルに勝利した。
染井先輩と那智さんの英雄的行為は、連日マスコミで賞賛され、私の思惑通り、染井良乃は現在の日本で最も有名な女性の一人となった。
私が提供した現場映像が与えたインパクトもさることながら、一日遅れて被災地入りした総理とそれを出迎えるように握手を交わした染井先輩の姿があまりに対照的だったことも、染井人気の追い風になり、与党には逆風となった。
隙のないスーツ姿で黒光りした長靴を履いた総理とは対照的に、ぼさぼさの髪を血痕が付着したバンダナでまとめた染井良乃の姿は、まるで救出されたばかりの難民のようだったため、テレビのニュースでこの握手場面を見た視聴者の大半が、総理に対して嫌悪感を抱いたのだ。
総理としては精一杯スケジュールを調整して現場に急行したに違いない。
そもそも総理と一介の野党議員では立場が違い、個人の意思で自由に行動することは限られているのだから、フットワークで遅れをとったからといって、それを非難するのは筋違いというものだ。仮に染井先輩と同じくらい速く現場に足を踏み入れたとしても、一国の総理に生命の危険まで伴う行為が許されるはずもない。
それでも四十名もの死者を出した未曾有の災害で報道が過熱している中、冷静な目で総理の立場を配慮する者などごく少数に過ぎない。このような場合、あくまでも身を挺して人命を救った者しか賞賛を浴びるに値しないのだ。総理が調達した数百人分の食料と衣料、医薬品の援助も国民の目から見れば全て税金であり、無償で医療技術を提供する医師の献身的行為とは比較にならない。
現地では報道関係のインタビューに一切応じず、総理との握手を終えるとすぐに、東京から来た政府関係者に現場主導のバトンを渡してその場を立ち去ったのも、私の演出である。
現役医師の那智さんが「入院加療の必要あり」と診断したという理由で現地でのインタビューを断わり、私たちが急患の搬送のように染井先輩を左右から支えながらチータに乗り込んだ時には、数台の報道車が後を追ってきたが、流れ込んだ土砂が手付かずの脇道を全速で飛ばす軍用自動車を追走できる一般車両などあるはずがない。
ものの五分もかからず報道車を巻いた後は、前述のように温泉で一息入れながら今後のマスコミ対策を練っていたのだ。
やはりその場で気丈にインタビューを受けてカラ元気を装うより、先に編集ビデオを流して現場のリアルタイムの危機状況を視聴者の脳裏に刷り込んでおいてからの方が、染井先輩の言葉の重みも増幅するに違いない。逆に政府関係者は、代わってその場を仕切れることで、先輩の退場を歓迎したはずだが、災害処理に関しては素人同然の役人たちが、報道陣を意識するあまり何かとしゃしゃり出ようとしたところで、そうそう良い結果は生まないものだ。
日本海大地震に伴う福島原発の放射能漏れ事故の際でも、放射線には素人であるにもかかわらず、自身が理系出身というプライドだけで現場にとんちんかんな指示を与えた時の総理は、原発関係者のひんしゅくを買ったばかりが、対応が後手に回りすぎて国民の支持さえも失うはめになっている。
私は今回もそうなることを密かに期待していたのだ。
実際、政府関係者はカメラの前では一切汚れ仕事に手を貸すことはなく、ただ偉そうに消防隊員や自衛隊員に指示を与えている印象しか与えることができなかった。
その間にも病室でのインタビューに備えて、私は那智さんとともに染井良乃議員のコメントのシナリオ作りに余念がなかった。先輩のアドリブも悪くはないが、ドラマティックな舞台設定が整っているこの機会を生かすには、より綿密な計画が必要だった。そのための時間を確保し、各方面への手回しを終えた後、私は一部の革新、中道系のマスコミ関係者だけに、病室で十五分程度の記者会見と質疑応答に応じることを通達したのだ。
あまりのフィーバーぶりにおろおろしている染井先輩の気持ちとは裏腹に、豪雨からわずか一ヶ月足らずのうちに企業からわが党への企業団体献金がトータルで十億円に達したことで、私と那智さんは、評論家の多くが年末と予想している衆議院総選挙に、大きな手ごたえを感じていた。
こうなることまで想定して、七日には染井良乃個人の名義で被災地宛てに一千万円の義捐金と同額相当の医療物資を送っておいた私の先行投資は見事に効を奏した。
私は染井先輩の毎月の文書通信交通滞在費が入金されている海南銀行本店発行の通帳管理を任されており、間接的にせよ政治に関わる用途であれば、事後報告で自由に使える権限まで持っているのだ。
福岡県でも民友党の意向で義捐物資の搬入が行われたが、頭でっかちの大政党ゆえに何かと決定に時間がかかり、私の一存で何でも強引に決定してしまうわが党の後手に回ったことで、かえって党のイメージダウンにつながった。
秋風がそよぐ頃になっても追い風は一向に衰えることはなかった。
しかもラッキーなことに、ブームが去る前に衆議院が解散してくれないかとやきもきしていた矢先の九月の終わりに、突如総理が解散総選挙を行うことを公言した。大方の予想より解散時期が早まったのは、与党民友党が官邸と文科省を巻き込んだ五輪招致スキャンダルで野党から厳しい追及を受けている最中だけに、国民の関心を逸らすためと噂されたが、すでに準備万端の私たちにとっては吉報だった。




