第16章 さらば青春の光
自由奔放に高校生活を疾駆してきた弘美たちもおごそかな卒業式を迎えた。才女の卒業式は伝統に彩られた荘厳な式典で、他校とは全く趣を異にするが、スペシャル来賓の登場で”お約束”の盛り上がりを見せる。
やはりウチの学校はフツーじゃない。
秋の生徒会長選挙も無事終わり、予定通り岡山美菜に会長の座をバトンタッチできた私は、アンヌとともにAO入試最後の仕上げに専心した。
二人とも小論文対策はほぼ完璧だったので、残る面接を篠崎のジイさまに頼み込んで、海南銀行本店人事部長と持株会社の一つである福日放送アナウンス部長に徹底的に指導していただいた。表皮細胞が発電板に変質したアンヌの百万ルクスの輝きにははるかに及ばないとはいえ、おかげで私も白熱電球からLEDくらいの輝きに進化できたような気がする。
十二月初旬には、カトリーヌは東京理科大理学部数学科に、アンヌはF大医学部医学科に、私はK大法学部政治学科にいずれも推薦かAOで無事合格することができた。
ぎりぎりまで志望校を迷っていた弘中愛も、指定校推薦で青山学院大学文学部英語学科に滑り込みで合格していた。ヴォーカリストとして原由子を、ベーシストとして後藤次利をリスペクトしている愛は、模擬試験でA判定が出ていた東京芸術大学を諦めてまで、「原由子と後藤次利の後輩」というブランドを選んだのだ。
マリリンと不二子と高子に関しては、遺伝子にプログラミングされた通りの結果としか表現のしようがない。勝率100パーセントのサラブレッドたちには、受験レースの存在意義などまるで実感がなかったようで、最後に結果が出たアンヌのAO合格以降は、年末年始にかけて私たちと遊びまくっていた。
正月に帰省したジャイ子先輩が宴に加わってからというもの、フィオで沈没した高子と私が、そこから一〇〇メートルも離れていない海南銀行会長室のソファーの上で朝を迎えるのが日課になったほどだ。それでいて不二子も高子もセンター試験の得点率は自己採点で95%に達しているのだから、私などとは種が違うのだろう。
平成二十五年三月三日日曜日は、いよいよ高校生活のフィナーレ、卒業式だ。
カテドラル風の講堂は、卒業式の日のみ電灯が消され、キャンドルの灯りのみとなる。少々薄暗くはあっても、そのぶん神秘的な雰囲気に包まれて身が引き締まる思いだ。
卒業生総代は本命の三島、対抗の篠崎を僅差で抑えたわが親友、美樹本真里が選ばれた。
学業成績だけ見れば、三島、篠崎、螻河内の三強には一歩譲るにしても、体育、芸術、宗教もオール5というバランスの良さがマリリンを学年平均評定値トップの座に押し上げたのだ。
彼女の進学先であるスウェーデンのカロリンスカ医科大学は、ノーベル医学・生理学賞の選考委員会があるヨーロッパ大陸最高峰の医学教育機関だけに、総代を逃した東大理Ⅲ合格の三島も将来のライバル候補を心から祝福していた。
実は東大理Ⅱにしれっと合格している不二子も密かに総代を狙っていたそうだが、体育の評定値が2しかもらえず、これが致命傷となった。高校在学中に英検どころかフランス語検定まで一級を取得し、本校ではマリリン、カトリーヌに次ぐトリリンガル高校生となった不二子が化け物であることは認めざるを得ないにしても、せっかくの門出の日にハデスの答辞は勘弁してもらいたいというのが私の本音だ。薄闇と静寂の中、あの顔付きと声のトーンで答辞を読み上げられたら、希望に満ちた新たな世界への旅立ちの言葉が、冥界へといざなう「死者の書」になってしまうことは目に見えている。
おそらく全生徒と職員が不二子の総代だけは悪魔に生贄を捧げてでも阻止したかったに違いない。
マリリンの卒業生代表答辞は全て英語だったが、本校では外国籍の生徒は日本語以外の言語で送辞や答辞を読んでも構わないという規定があるため、ノルウェーのオスロ生まれで、日本とノルウェーの二重国籍を持つマリリンが英語でスピーチするぶんにおいては何ら問題はなかった。
外国語による答辞は、進駐軍の子女が数多く在籍していた昭和二十七年以来、約六十年ぶりのことだそうだが、本年度の卒業生の中にはカトリーヌの他にも、アンナ・シュミット(オーストリア)、ローズ・ルーミス(カナダ)、ケイ・ローレンス(アメリカ)、レティシア・ヴァイス(リトアニア)、タチアナ・ロマノヴァ(ウクライナ)、陳清華(中国)と六名も外国人がいて、近年まれに見る国際色豊かな式典となった。
それらにさらに花を添えたのが、来賓の祝辞である。
市の助役か副知事あたりが、市長、県知事による祝辞を代読するのが慣例のところ、本年度はなんと、中華人民共和国駐福岡総領事館から唐龍総領事が多忙なスケジュールの合間を縫って本校まで出向いてくれたのだ。
私たちが大国の総領事から祝辞をいただけるという光栄に預かれたのは、唐龍総領事が陳清華の後見人だったからで、陳がシンガポール国立大学に合格したご祝儀も兼ねて、自ら申し出てくれたのだそうだ。総領事の名がアナウンスされると、さすがにブルジョア揃いの保護者席からもどよめきが聞こえたが、唐龍氏はいかめしい肩書きのわりにはなかなかウィットに富んだお方と見え、流暢な日本語によるスピーチが終わると、渋いノドで餞別代りの黒田節まで披露してくれた。
この手の趣向が大好きなカトリーヌの「Come on,everybody, crap your hands!」の一声で、卒業生ばかりか、保護者たちも唄に合わせて手拍子を取り始めると、気分が乗ってきた唐龍氏は最後はブルース・リーかジャッキー・チェンまがいの功夫ポーズで締めくくった。
列席していた県教委の管理職からの教育的指導を恐れてか、一部始終を引きつった笑顔で見つめていた理事長と校長のアホづらは(実際二人ともヅラだが)なかなかの見物だったが、後日後輩から聞いたところでは、生徒と保護者が退場し終わるや、来賓席にいたPTAや同窓会役員のオバちゃん連中が、甘いマスクの唐龍総領事と記念撮影をしてもらうために雲霞のように群がり、いつの間にか厳粛な卒業式場がチャイニーズ・ムービースターの握手会場へと様変わりしていたそうだ。
やはりウチの学校はフツーじゃない。
卒業式のラストといえば、『仰げば尊し』か『蛍の光』の合唱が定番である。
ただし、才女の場合は一味違っていて、『蛍の光』の原曲であるスコットランド民謡『オールド・ラング・サイン(Auld Lang Syne)』を歌うのだ。
一七九九年製アントン・ワルターのフォルテピアノが奏でる音色は、小鳥のさえずりにも似て、清らかでやさしく、目を閉じていると人為的な音ではなく、まるで自然の息遣いのように聴こえる。
とてもあの尊大な竜野銀子女史が弾いているとは思えない。
創造主が奏でる万物の生命の鼓動だ。
「And we’ll tak a right gude-willie waught, for auld lang syne.」
今、我らは良き友情の杯を飲み干すのだ。古き昔のために。
合唱が終わると式は全て終了となり、卒業生から退場してゆくのだが、本校では「以上を持ちまして第××回卒業式を終了いたします」などという、しんみりとしたムードを壊すようなアナウンスは入らない。引き続きピアノと音楽教師のチェロによるビージーズの『メロディ・フェア』の二重奏が始まり、これを合図に全員粛々と会場を後にするのだ。
この曲は一九七〇年代の日本で大ヒットした恋愛映画『小さな恋のメロディ』の主題曲で、この時期に少年少女時代を過ごした我々の保護者世代には相当感慨深いものがあるはずだが、英語の勉強がてらにDVDを繰り返し観た私の心にも一場面一場面が鮮明に心に刻み込まれているせいか、チェロのイントロが始まった瞬間から、手を繋いで歩くダニエルとメロディの姿がフラッシュバックしてきて目頭が熱くなった。「大人社会への反発」がテーマの映画だけに、学生時代そういう生き方をしてきた私のことを称えてくれているようで、嬉し涙がちょちょぎれそうだ。
昭和七年以来、卒業生退場の音楽はハーマン・フップフェルド作の『アズ・タイム・ゴーズバイ』だったのが、昭和四十七年から『メロディ・フェア』に変更になったのは、映画を観た西城夏希理事長の、映画の舞台であるイギリスの古い公立学校の外観が本校に似ているから、という何とも気まぐれな鶴の一声によるものだったそうだが、日本公開時に八十五歳だった彼女の感性の若さに星三つだ。
才女は他校と違って式典終了後は教室に戻らず、保護者の列と生徒の列が入り口付近で合流し、そのまま帰路につくことになっている。
私は一度も校舎を振り返ることなく校門を後にし、最寄りの地下鉄赤坂駅まで両親と歩いた。
私が自分の意思で再び才女の門をくぐることはないだろう。
私なりに一生懸命生き、良き友にも恵まれ、満足のゆく六年間を過ごせたと思う。
しかし、私の人生計画はまだ序章に過ぎない。
私はさらなるハイスペックな人間になるべく、思考回路から生活習慣、行動力とあらゆる点においてプログラムををアップグレードしてゆく必要がある。そうなると、場合によっては別人格になってしまうかもしれない。
これまでの人生最高の思い出である西夏女学院での日々は、このまま冷凍保存しておきたいというのが現在の私の偽らざる思いだ。大人になって感性が変わってしまうと、リアルタイムでは輝きに満ちていたはずの青春の日々を、怠惰で非生産的な虚しい時間だったと回顧することもあると聞く。
もし物事を考える尺度が完全に変わってしまえば、振り返ってみると納得のゆかない過去を忌み嫌うかもしれないし、現状に満足していなければ、過去を美化することで勝手に自己満足の世界に逃避しようとするかもしれない。
いずれにしても、終活に入ったのならまだしも、まだ残された人生に可能性がある限りは、立ち止まって過去の回顧に浸る気など毛頭ない。
帰省のたびに母校を訪れては恩師たちと昔話に花を咲かせている先輩たちのことを、私はずっと苦々しい思いで見ていた。
個人的に恩義のある人に挨拶に行きたい気持ちはわからないではないが、恩師が多忙でゆっくり話す暇がないかもしれない学校までわざわざ出向くのは何となく不自然さを覚える。表敬訪問は単なるこじつけで、大学や実社会にストレスを感じている卒業生が、居心地の良い場所でしばし和みの時間を過ごしたいというのが本音ではないだろうか。
表向きは和やかな歓談も、同世代から羨まれたブランド高校という過去の時空を疑似体験することで、一時的に承認欲求を満たすだけの気休めに見えて仕方がない。少なくとも私は、功なり名を遂げてから、その報告がてらに堂々と母校の門をくぐるというのが正道のような気がする。まあそこまで出世すれば、才女の広報か同窓会から直々に講演の依頼が来るのかもしれないが。
私はこれから長い旅に出るのだ。少なくとも旅の途中で尻尾を巻いて古巣に戻ってくる気などさらさらない。
「古き善き学生時代」という名の玉手箱を開くのは、竜宮城を心ゆくまで満喫した後でいい。
次回より大学篇が始まります。乞うご期待!