第15章 クアラルンプールに消えた恋
弘美にもモテ期があった?槙村弘美主演、香港映画のようなドタバタ恋愛喜劇。
「ねえ、夜明けのラブホって、何だかとっても淫靡だよね」
スカイラインスポーツのステアリングに顎を乗せたマリリンが唐突につぶやいた。
先月、運転免許を取得したばかりのマリリンのリクエストで、今日は二人でドライブがてらに呼子のイカ刺を食べにゆくことになったのだ。
十一月三日の福岡市の朝はかなり肌寒く、七時を過ぎているのに空はウミウシが分泌液を撒き散らした海面のような薄紫色のグラデーションに覆われていた。
唐津方面に向かう二〇二号線の沿線にはラブホが多く、その大半が人目を忍ぶかのように丘の中腹や大通りから離れて周囲を草木で覆われたようなところにひっそりと建っている。とはいえ、客の目に留まらなければ意味がないので、夜間は毒々しい照明に彩られているが、明け方にやってくるようなカップルはいないとみえ、この時間帯は完全に照明が落ちて、閉鎖したホテルのような静寂に包まれている。
日本のラブホテルは、海外のモーテルなどと違って、ビジネスマンの出張や家族旅行で利用するよなものではなく、あくまでも男女の営みが目的である。とすれば、朝靄の中の静まり返ったホテルですやすやと寝息を立てているのは、昨夜、激しく睦みあった男女(必ずしも異性との組み合わせとは限らないが)ということになる。
けばけばしいネオンが輝いている時間帯は獣のように発情し、ネオンが消えた頃には暗闇の中で泥のように眠っているなんて、なんてわかりやすいんだろう。点灯と消灯が生殖行為の開始と終了の合図だなんて、何だか子作り工場の始業と終業みたいで笑ってしまう。
マリリンは、性行為そのものより、むしろ精根尽き果てて脱力した男女の“使用後”感の方が想像力を掻きたてられてドキドキするという。さすがに芸術家の娘だけあって着眼点が違う。
「ってことは、マリリン、ラブホ経験あるの?」と尋ねてみると、
「やだーヒロポンったら。秋休みにオスロに帰ったときに女子寮の友達の部屋をノックもせずに開けたら、その娘が彼と素っ裸でぐったりして抱き合ってるのをたまたま見ちゃったのよ。それが妙に頭にこびりついちゃってさぁー」とかわされてしまった。
早熟な子が多い北欧育ちでこの発育の良さからいって男がほっとくはずないから、マリリンはもう男を知っているはずと思いつつも、自分の恋愛経験らしい話はほとんどしないので確信は持てない。
デートの相手には事欠かないようだから、どこそこの男の子と遊びに行っただの、食事に行っただのという話こそ時折してくれるが、そこから恋愛に発展したという話は聞いたことがない。あとはたまにカトリーヌと下ネタで盛り上がることもあるけれど、そういう時はスラングっぽい英語でヒソヒソやっているので、英検一級の不二子ですらほとんど聞き取れない。
かくいう私は、恥ずかしながら男性との本格的な交際経験はゼロだ。
とはいえ、市内各校に男子学生の知り合いがいるおかけで、それなりの頻度でデートの誘いはあるし、すでに何度かプロポーズもされているので、恋愛コンプレックスはない。それどころか、プレイガール気取りのくせに男から飽きられるのも早く、いたずらに男性遍歴だけを重ねている残念な子たちからは「師匠」とリスペクトされているくらいだ。
だからといって、私はプロポーズされた経験をそれほど自慢に思っているわけではない。中には一度に三人から求愛されたことがあるにせよだ。
これまで私にプロポーズしたのはいずれもアジア系男子で、福岡市主催の国際交流事業や研修、ツアー旅行で海外に行った時に知り合った。内訳はインド人が一人、中国人が一人、マレーシア人が二人、タイ人が一人だ。
初めてのプロポーズは私が十四歳の時で、相手はメル友だった十六歳のインド人だ。ボランティアツアーでコルコタに行った時、フリーの一日を使って英領時代のコロニアル風建築が並ぶ異国情緒溢れる繁華街を案内してくれたまではよかったが、母親自慢のタンドーリチキンをご馳走してくれるというので、裏通りのサダル・ストリートまでのこのこ付いてゆくと、親族一同が集まっている古風なケララ(伝統的なログハウス風の家屋)に案内され、いきなり「この娘が僕の花嫁だ」と紹介されたのには驚いた。
彼はインド人といってもイギリス人の血が混ざったハンサムだったし、両親ともに私のことをとても気に入ってくれて、それはそれで嬉しかったのだが、一目惚れイコール結婚という数式は私の中では成り立たない。おまけに彼の母親は二十九歳で、弟と妹が七人いると言われた時、私の頭の中には、外界も知らずにただ死ぬまで卵を産み続けるブロイラーの姿が頭をよぎると同時に、軽い嘔吐感に襲われ、ラッシーとチキンとサフランライスをミックスしたスムージーが咽喉元までこみ上げてきた。
タンドーリチキンの食べ過ぎを理由に御手洗いに立った私は、トイレの窓から脱出し、永久に彼の前から姿を消した。
日本❘マレーシア親善大使の一人に選ばれてクアラルンプールを表敬訪問した中三の夏は、今思えば、人生最大のモテ期だったのかもしれない。
最初にアタックをかけてきたのは十七歳の華僑の小皇帝(過度に溺愛され、わがまま放題に育った中国人の一人っ子)で、AKBの熱狂的ファンだったせいか、セーラー服には目がなく、親善大使の中では一番スタイリッシュな西夏女学院のセーラー服女子、つまり私に目を付けたというわけだ。
地元の高校の生徒会長だった彼は運輸相の一人息子で、国内最高峰のマラヤ大学を目指している秀才だったが、一七〇センチ一二〇キロの肥満体とあって、隣にいるだけでまるでヒーターの傍にいるように暑苦しかった。
この肥満児と張り合ってモーションをかけてきたのが、マレー人の双生児だ。兄弟仲が悪く、常に離れているのだが、髪型やホクロの位置、声質までほぼ一緒とあって、服装が同じならほとんど見分けがつかなかった。
いずれにせよ精悍なルックスと筋肉質なスポーツマンタイプの身体つきは、十分私の眼鏡にかなったので、誘われたらデートくらいならいいかな、と密かに期待していた。
そんなあざとい思いが伝わったのか、クアラルンプール最後の夜に、兄のラジブから夜のデートに誘われた私は、ホテルを抜け出したところで、たまたま私を誘いにきた弟のラジャと出くわしたが、勝手にラジブと思い込んでしまい、その夜の目的地である『ズーク・クラブ』まで同伴した。
ラジブとラジャを見間違えたのは単に見かけが似ているからだけではない。いつも名前を呼び間違えてわずらわしいので、まず二人が一緒にいることがないのをいいことに、二人とも「ラジー」と愛称っぽく呼ぶことにしたのが裏目に出たのだ。
この日はラジブと店の近くで待ち合わせていたのだが、気を利かせて迎えに来てくれたものと勘違いしていた。おまけにこの兄弟、英語が苦手でマレー語と中国語が混ざっているため、会話で細かい部分を伝え合うのが困難なのだ。それでも、若い者同士のノリでなんとなく会話が成立していたのが、ここにきて二人を取り違えるという大失態につながったというわけだ。
遊び慣れているラジャは、フロアマネージャーにも顔パスで、私も引率責任者に預けてあるパスポート提示を求められずにすんだ。
初めてのクラブは私にとって別世界だった。
外国人が多く、熱気に満ちていて、けばけばしい色のカクテル光線に照らされたダンスフロアは大気圏外の小宇宙だった。私が雰囲気に飲まれて唖然としていると、ウオッカのオレンジ割りのショットグラスを両手に持ったラジャから、一気に飲み干すよう促された。これがここでの作法だそうなので、私も彼に合わせてショットグラスを一気にあおると、手をつないで奇声を上げながら人ごみの真ん中に飛び込んでいった。
この時ほど我を忘れて弾けたことはない。
ワンフィンガーのウオッカで酩酊した私は、周囲の景色がメリーゴーランドのようにぐるぐる回っているのが楽しくて、夢遊病者のようにふらつきながらも、狂ったように笑い、踊り続けた。
チークタイムでラジャの胸に抱かれた時はもう陶酔状態で、このままムーンライトビーチを裸で泳いだあと、満天の星空を眺めながらアウトドアセックスしたらどんな気分なんだろう、などと危険な妄想に酔いしれていた。
甘く危険な香りのする夢は、バラの花園でシェスタを満喫した後のストッキングのようにずたずたに切り裂かれた。
ラストナンバー、パティ・ラベルの『If you asked me to』のフェードアウトに合わせるようにラジャの顔が近づいてきた。
頭の中はもう「Why don’t you ask me to?(キスしてよ)」だ。
耳元で「Can you marry me?」 と囁かれた気がする。
目を閉じた私の唇に熱い吐息がかかった次の瞬間、もたれかかっていたラジャの身体が消え、私は靴跡だらけの冷たいフロアと濃厚なキスをかわしていた。
見上げると、ラジブとラジャがつかみ合っていた。
Tシャツの柄が違うため、最初は殺気立ったラジブをなだめようとしたが、もみ合っているうちにTシャツが破れ、ブルージーンズに黒のデッキシューズというお揃いのスタイルになってからは、もう判別は不可能だった。
慌てて駆けつけた大男の黒人セキュリティが片方につかみかかるが、危機に瀕すると兄弟愛のスイッチが入るのか、二人同時にセキュリティの顔面にストレートをぶち込むタイミングは見事だった。よろめいたところをすかさず左右からのローキックで仰向けに倒して、咽喉元と股間に連続エルボースマッシュを叩き込むと、黒人はピンク色の泡を吹きながらものの十秒ほどで失神してしまった。
これをサプライズショーと勘違いした客たちは大喜びで、ご祝儀のコインや札が飛び交う中、グータッチをして周囲に軽く頭を下げた二人はベアナックルファイトを再開した。
一分ばかりノーガードで殴り合った後、ダブルナックダウンという形で試合は終了し、割れんばかりの拍手と喝采を浴びながら、失神した双子の兄弟は、黒服の従業員たちからフロアを引き摺られてスタッフルームの奥へと消えていった。
ホテルに戻ると、フロントクロークから「ラジブという方からの預かりものです」と小さな紙包みを手渡された。部屋で開けてみると銀の指輪が入っていた。指輪の内側には、I belong to Hiromi と刻まれていた。
翌日、双子の兄弟がクアラルンプール国際空港に姿を現すことはなかった。
あれだけ私につきまとっていた小皇帝まで見送りに来ないのを不思議に思った私が、ロビーにいた他のマレー人学生に尋ねてみると、映画『卒業』のダスティン・ホフマンばりに私を空港からさらってチャペルに連れてゆくために自宅ガレージから父親の愛車フェラーリF四〇を拝借したところ、四七八馬力のビッグパワーを制御出来ず、ホイールスピンしながらハン・ルキル通りのフードコートに突っ込んでクラッシュしたのだそうだ。
後日聞いたところによると、実は小皇帝、すでに免停をくらっていたため、無免許運転による人身事故扱いとなり、高校は即退学、十八歳の誕生日は檻の中で迎えたという(マレーシアでは十七歳から運転免許取得可能)。
私って男を不幸にする疫病神なんだろうか。
「モテるってことは罪なの?」
薄幸のヒロイン気分で神様に語りかけながらマレーシアを後にした私は、神の機嫌を損ねたのか、それからというもの恋愛飢餓状態に置かれ、贖罪の日々を過ごしている。
「ちょっとお、ヒロポンってばあ」
「ん?どしたのマリリン」
「あなたエロい夢見てたでしょ。口元がほころんでにやけてたわよ」
やばっ。ちょっとうたた寝している間に、過去のラブシーンの中に入り込んでしまっていた。マリリンが急にラブホの話なんかするから、夢の中で欲情したのかもしれない。
「マリリンがいたらない話するからだよ」
「えへへ。もしかしてちょうどいいところだったとか。また寝て続きやっちゃう?」
このフェロモンタンク、どうせ私には、その先は想像の世界でしかありえないことがわかってるくせに。ほんと、ムカつくー。
「あれれ?いいところで邪魔されたから怒ってんの。口ぱくぱくさせて、もしかしてヒロポン、イクとこだったとか・・。やだー、それとも別のことしてた?」
私が無視を決め込んでいると、マリリンのやつ、ここぞとばかりにバンカーバスターの追撃弾を投下してきた。
「ちょっと、何想像して腹かいてるのよ、この発情少女。大好物のやきいもでもほおばってるとこだったんじゃないかなーと思って、聞いてみただけなのに」
誰がやきいもでエクスタシーを感じるっちゅーの。まあ、マリリンなら使い道によっては・・ああ、いかん。私としたことがなんてお下劣な。これしきの挑発に乗るなんて、私もまだまだ青いわ。
「おやおや。何か勘違いしてたようですねえ、黙りこくっちゃって。穴があったら入れたいって気分でしょ」
さすがに頭にきた。
「どこの国に、穴があったら入れたい、なんてことわざがあんのよ。この、スカトロ・ノルウェジアンウッド。穴があったら入れられたい、でしょーが」
ん?ちょっと違ったかな。マリリン、なによこっち向いたまま固まっちゃって。
「ちょっと、マリリン、前!」
大きくコースを外れて対向車線まではみだしたスカイラインスポーツは、マリリンのカウンターステアも及ばず歩道を突っ切り、虹の松原の砂浜で豪快にスピンしながら松の大木の手前でようやく停止した。
コースアウトした瞬間、マリリンにしがみついた私はGカップのクッションのおかげでムチうちににもならず、全くの無傷だった。マリリンの心臓の鼓動も聞こえる。どうやら二人とも無事らしい。
身体を起こすとフロントシールドからの視界は大きな松の枝に塞がれていた。あと一メートル先まで進んでいたら、二人とも致命的なラリアットを浴びて、無残な屍をさらしているところだった。
「マリリン、大丈夫?」
目を閉じているマリリンに声をかけると、いきなりニタニタと含み笑いを始めた。
「はっはっはー、ヒロポンって傑作う。不二子と福岡吉本にでも入ればいいのにー」
「あんた、ばかじゃないの。ハンドル握ったまま、ダッチワイフみたいな顔して私を見つめてる場合じゃないでしょ。下手すりゃ二人とも死んでたよ」
「ぷーっ。ヒロポンって何でエロおやじみたいなせりふばっかポンポン飛び出してくるの?ホント、性的欲求不満なんじゃないのー」
「ポチと一緒にしないでよ。それより、車、大丈夫なの」
幌を上げていたので室内は無事だったが、フロントグリルの格子は砂まみれで、右後輪のホイールカバーが欠落していた。ネジを使わないはめ込み式なので、派手にスピンした拍子に外れてどこかに転がっていったのだろう。
砂浜を見渡してもそれらしきものが見当たらないので、松林の中に分け入ってゆくと、十五メートほど先の木の枝に、朝日を浴びてキラキラと光るものが見えた。
近づいてみると、松の幹にホイールカバーが手裏剣のように突き刺さっており、その真上には切断されたビニール紐が風に揺れていた。どうやら高速回転しながら円盤のように飛んできたホイールカバーに断ち切られたようだ。
松の根っこの間には、まだくすぶっている煙草の吸いさしが転がっている。
「えっ、これってもしかして」二人同時に道路の方を見上げると、首に巻いた紐らしきものをスカーフのようになびかせながら、道路の向こうに駈けてゆくジャンパー姿の人影がちらりと見えた。
シーズンオフの海辺の松林というのは自殺の名所でもある。ちょうど足場によさそうな朽木が少し離れた位置に転がっていることからしても、さっきの男も十中八九、ここで自殺するつもりだったのだろう。ところが、ビニール紐を首にかけた状態で最後の一服を済ませ、足場の朽木を蹴ったと同時に高速回転しながら飛んできたホイールカバーが紐を切断したため、男はそのまま砂地に落下し、慌てふためいて逃げ出したに違いない。
予期せぬアクシデントは、死を決意した人間をも我を忘れさせるものだ。
平成十七年三月二十日、福岡西方沖地震が発生した時、大きな揺れは豊前市にまで及び、うちの病院でもちょっとした騒ぎになった。その時、癌病棟から点滴をぶら下げたまま真っ先に飛び出してきたのが、肝臓癌で余命一ヶ月を宣告されて以来、うつ状態にあった八十歳の老人だった。
元消防士だったというその老人は、一旦大きな揺れが収まるや、てきぱきと重病患者たちを避難誘導し、後日、市長から感謝状が送られた。迫り来る危険が、突如彼の消防士本能を呼び覚まし、ありえないような行動に走らせたのかも知れない。一躍、病棟の人気者になった老人は、五十代のバツイチ婦長にプロポーズして断られたクリスマスの夜に心臓麻痺で息を引き取るまで終活を楽しんだ。
マリリンのクレイジードライビングのおかげ?で命拾いしたあの人も、ほんの少し前まで死ぬつもりだったのに、あの勢いで逃げ出したわけだから、心底死ぬのは怖いと実感したはずだ。死より怖いものはないと思えば、きっと人生やり直せるはずだ。
鏡山の上方に昇ったブラッドオレンジのようなお日様がいつになくイカして見える。
こういうことがあったせいか、せっかく呼子まで足を運んだにもかかわらず、活け作りの気分ではなくなった私たちは、イカシウマイとサザエの壺焼きだけ食べて、そそくさと帰路についた。