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第14章 JKコマンドー南へ

高校生活最後の夏、阿蘇で優雅な勉強合宿としゃれのめす弘美たち四人。そこで不二子が語る麻吉親父の過去に一同驚愕する。いじめられっ子の中学生は、いかにして逆境を潜り抜け、警視庁キャリアにまで昇りつめたのか。その謎を解く鍵は、強きを挫き弱者の味方をする正義漢麻吉の武勇伝だった。

 高校生活最後の夏、受験を控えた私たちは全世界的な温暖化に起因する記録的猛暑から逃れるため、熊本県阿蘇市の乙姫にある螻河内建設所有のログハウスで一週間の勉強合宿を行うことにした。

 豊後街道から少し南の山間部に入ったこの地域は、冬は雪で閉ざされて身動きが取れない反面、真夏でも明け方はひんやりとしていて、夜はエアコンの必要性がないほど快適だ。もう少し湿気が少なければ南ドイツのハイデルベルクあたりの気候に似ている。

 避暑地には最適な土地柄のせいか、個人の別荘が多いが、金持ちが群がる湯布院ほど俗っぽくなく、場末のカフェを思わせるこじんまりとした建物が朝靄の中に点在するさまは、まるで十六~七世紀のヨーロッパの田舎町のようでとても落ち着く。

 こんなのどかな風景の中を、爆音を轟かせながら私たち四人を乗せて走っているランボルギーニ・チータは明らかにミスマッチで、まるでアルデンヌの森でバルジ大作戦を遂行中のドイツ軍のように物々しい。

 ジーパンにTシャツ姿の私とマリリンはともかく、オリーブドライのタンクトップにアーミーパンツ、ベレー帽を被ったドライバーのカトリーヌはどう見ても進駐軍だ。ちなみに、肩口に「旋風Z」のエンブレムが縫いこまれたグレーの長袖シャツ姿の不二子は連合軍の捕虜になったゲシュタポだ。


 ハマーの原型と言われるランボルギーニ初のSUV車であるチータはプロトタイプで、正規に発売されたLM二〇〇とはエンジンもフォルムも異なるが、一九七七年にモーターショーでお目見えした当時は、スーパーカーマニアの少年たちの間で大きな話題となり、大手模型メーカーからは先行してプロトタイプの方のプラモデルが発売されている。

 麻吉親父は、小学生時分にモーターショーで実車を見て以来、いつかはチータを手に入れたいと思っていたそうだが、チータがお蔵入りになったため、ずっとプロトタイプを探していたという。

 ランボルギーニ社は一九七八年に一度倒産した後、次々とオーナーが変わっていったが、そのどさくさに紛れて売却処分されたプロトタイプのうちの一台が、巡り巡って日本のとあるランボマニアの元にたどり着き、その情報を入手した麻吉親父が、元の買値の倍額を払って譲渡してもらったそうだ。

 今回の合宿は、ゴーストを借りてゴージャスな旅を楽しむつもりだったのだが、麻吉親父が「熊本だけに、チータで行って来い」などと下らないおやじギャグで、無理やりチータを押し付けたのだ。

 親父の言う「チータ」は、熊本県が生んだ国民的演歌歌手、水前寺清子の愛称だが、マリリンやカトリーヌはもとより、不二子さえも何のことかわからずシラケ鳥が飛び交う中、麻吉親父の機嫌を損ねてはやっかいだと思った私だけがバカ笑いし、その場を和ませた。

 祖母がよく水前寺清子のレコードを聴いていたとはいえ、チータと聞いて水前寺清子を即座に思い浮かべる平成生まれは珍獣の類ではないだろうかと思うと、ちょっぴり泣けてきた。

 

 螻河内家の別荘は中二階のある吹き抜けのログハウスで、一階のベランダの一角には自然石を組み合わせて作った露天風呂がある。もちろん地下から天然の温泉を引いたものだ。

 ベランダのウッドデッキの先には湧き水が流れる小さなせせらぎがあり敷地の境界にあたるところには鉄網を張っている。麻吉親父が社員たちの慰安を兼ねてここで過ごす時には、近場の川で釣ってきた魚を入れるいけす代わりに使うそうだ。この自然環境の中で岩魚か鮎を備長炭で炙って食べたら、と想像するだけで涎が出てくる。


 今夜は庭でバーベキューということで、玄関脇に立てかけてあった分厚い木製のテーブルを引っ張り出してほこりを拭き取ると、何やら墨で文字が書いてある。

 「不二子、なにこれ。玄洋館とか志成館とか、昔の旅館の看板?」マリリンが尋ねると、

 「道場のやつだよ。空手とかの」

 よくよく全体を眺めてみると、達筆すぎてわかりにくいが、武興館道場、なんてのもある。

 麻吉親父が武道系道場の看板をモザイク状に組み合わせて作ったテーブルだったのだ。

 マリリンが旅館の看板と勘違いしたのも無理はない。こういった道場の看板は古くなったからといってゴミ出しするような代物ではないからだ。道場主の知り合いがいて、新しいものに掛け代える際に譲ってもらうという線もないではないが、十数枚も手に入れるというのはおおよそありえない。

 盗んできたか、力ずくで奪ってきたかのどちらかだ。

 不二子に問いただすと、予想どおり後者の方だった。


 不二子によると、麻吉親父は小学校の頃からずっと剣道をやっていて、今では五段の腕前らしい。ところが九州工業大学在学中、些細なことから監督と口論になった際に、興奮のあまりハイになった監督からいきなり木刀で肩口を痛打されたのに腹を立て、素手で殴り返してしまった。

 監督は右顔面複雑骨折に加えて顔筋麻痺の後遺症まで残る重傷だったが、指導者が木刀という武器を使って学生の肩甲骨を亀裂骨折させた罪は重く、学校側からは懲戒免職処分が下された。一方の麻吉親父は、正当防衛が成立したとはいえ、部には居づらくなり自主退部の道を選んだ。


 それから柔道部に鞍替えした麻吉親父、もとい麻吉青年は、わずか一ヶ月で昇段審査に合格し、三ヵ月後にはレギュラーに抜擢されたが、それをねたんだ先輩から練習中にかけられた腕ひしぎ逆十字固めで左肘靭帯を部分断裂し、インカレ予選に出場出来なくなった。タップを無視してまで負傷欠場をもくろんだ先輩の卑劣な行為を許せなかった麻吉青年は、怪我が癒えると、その先輩に練習中は禁じられている「かに挟み」をかけて両足を骨折させ、柔道部から退部を言い渡された。

 左腕が使えない間も、麻吉青年は自宅の庭先に設置したサンドバッグ相手にかに挟みの練習を繰り返し、やがてスライディングしながら上体にひねりを加えることでダメージを倍増させる殺人技を完成させていた。当時百十キロはあったという麻吉青年が全体重をかけてローリングすれば、技をかけられた方は骨折は免れない。

 麻吉青年を病院送りにしてまでレギュラーの座に執着したその先輩は、大腿骨の複雑骨折と前十字靭帯の断裂が尾を引き、二度と柔道ができなくなったそうだ。


 麻吉親父の高校時代は、ツッパリ全盛時代だった。矢沢永吉ばりのリーゼントに憧れてはいても、剣道部員は坊主が当たり前で、これではいくら喧嘩が強くても、ヤンキー娘にさえも相手にされない。その腹いせに天神や西新界隈で目が合った不良連中に片っ端から喧嘩を売り、憂さ晴らしをしていたという。

 当時、県下最大の暴走族だった「黒太刀」の特攻隊長を、試合開始のゴングからわずか三十秒で失禁KOで片付けてからというもの、螻河内麻吉の名はやさぐれ連中の間で神格化され、腹が減った時は、不良がたむろしてそうな西新商店街のゲーセンや喫茶店周辺を練り歩いていると、必ずといっていいほど、パンチパーマや剃り込みを入れた人相の悪い学生が「兄貴」と声をかけてきては、うどんかラーメンをご馳走してくれたそうだ。

 麻吉親父が荒れていたのは高三の夏頃までで、猛勉して国立の九州工業大学に進学してからは、傷害罪で前科がつくことを恐れて、文武両道の模範的学生生活を送っていた。ところが武道を離れた時から、体力を持て余すようになり、フラストレーションが溜まってきた。そこで、合法的な喧嘩をするには正当防衛しかないと思いついたまではよかったが、麻吉青年に挑発された筋者がいきなりドスを抜いたのに驚き、とっさに金的を蹴り上げると、その筋者は一メートル近くも垂直に飛び上がってから、腰から路上に落下して泡を吹いたまま失神した。てっきり相手が死んだと思った麻吉青年は、その場から逃げ出すと二、三日の間、殺人事件の記事が出ていないか、新聞の隅々まで目を通していたという。

 ルールのない喧嘩はヤバイ。そう思い直した麻吉青年の頭に浮かんだのが道場破りだったのだ。

 ターゲットになったのは合気道や空手の道場で、自称七段だの八段などという説得力のない肩書き付きの道場主を練習生の前で痛めつけることが快感だった。

 柔道や剣道と違い、国内に統一団体がない空手やテコンドー、少林拳といった打撃系格闘技は昇段の統一基準がない。それだけに道場主の段位はほとんどが自称で、柔剣道ではありえない小学生の黒帯をはじめ年齢的に若すぎる高段者がごろごろいる。そういう道場に白帯のまま乗り込むのだ。

 剣道の猛者で動体視力抜群の麻吉青年にとって、空手のような直線的な打撃技は見切りやすく、かわすだけなら造作もないことだった。たまたま命中しても鉄筋のように鍛え上げた胸や腹はビクともせず、逆に至近距離から放ったボディブロー一発でたいていの相手は悶絶したという。

 麻吉青年の道場破りは、お気に入りの侍映画『十三人の刺客』のタイトルにちなんで十三ヶ所を目標にしていたが、看板のコレクションはあと一枚というところで頓挫した。

 十三番目の空手道場は、門構えこそ立派だったが、練習生も数名しかおらず、自称八段の道場主が病に臥せっているということで、師範代である大学生の長女が相手を務めることになった。

 さすがに女には手を出せないと好きに打たせていたところ、いきなり急所に膝を入れられた麻吉は反射的に掌低で長女を羽目板まで吹っ飛ばした直後に失神した。

 

 「おいちゃん、大丈夫と?」

 子供たちの声で意識が戻った麻吉がゆっくりと目を開けると、同じく失神して隣で寝ていた道場主の長女も目を覚ましたところだった。

 長女は慌てて身体を起こすと、キッと麻吉の顔をにらみ付けたが、次の瞬間腹を抱えて笑い始めた。打撲の痛みに身を捩じらせながらも笑いが止まらない娘は、目に涙を浮かべて麻吉の下半身を指差していた。

 急に股間に寒気をもよおした麻吉が下半身に目をやると、ビキニブリーフの上にマッターホルンがそそり立っていた。子供たちが麻吉の腫れ上がった股間を冷やそうと、せっせと手動かき氷機を回しながらかき氷を盛っていたのだ。

 慌てて立ち上がった麻吉は、恥ずかしさのあまり逃げ出そうとしたが、膝下まで下げられた道着が足にからまって転倒した拍子に、床に置いてあった救急箱で下腹部を強打し、再び意識を失った。


 次に目覚めたのは北九州市立若松病院のベッドの上だった。

 救急車で運ばれた麻吉は、右の陰嚢がテニスボール大に腫れ上がって直立して歩くこともできない状態だったという。退院後も一週間は松葉杖を使う生活を余儀なくされ、外出もままならなかった麻吉の下宿に、毎日手作り弁当を持って見舞いに訪れたのが道場主の娘、後の不二子の母だった。

 当時、北九州市立大学に通っていた不二子の母は空手部の主将を務めており、九州大学選手権で個人優勝したこともある腕前だったが、麻吉には全く歯が立たなかったことでプライドをいたく傷つけられ、咄嗟に禁じ手を使ったことを深く恥じていた。弁当の差し入れはそのお詫びがてらのことだったが、麻吉の方も自身の無礼な行為が原因だったことを猛省しており、道場主の病気が治癒するまで自らコーチに出向くことを申し出たのだった。麻吉は下宿がある戸畑から若戸大橋を自転車で渡って、道場のある若松区本町まで毎日のように通いつめた。


 火野葦平の『花と龍』の舞台でもある若松は、気性の激しい男たちが多い土地柄だった。昭和の終わり頃まではそういう気風がまだ残っていて、小中学校といえども一種の縦社会が存在した。

 このような閉鎖的な社会における序列は、腕力、運動神経、親の社会的地位と財力、学力といった要素によって決定するが、コバンザメのような調子のいいヤツはどこにでもいるし、自分がヘタレででも、兄貴や親父、伯父貴といった親族が地元でそこそこの顔というやからも順応性は高い。

 一番バカを見るのは、運動も勉強も苦手という子や、他所からの転校生である。

 オンボロ道場に通ってくるのは、そういうカテゴリーに入る子たちだが、実際は気休めの現実逃避に過ぎず、いじめっ子への復讐をリアルに考えているわけではない。ブルース・リーやジャッキー・チェン映画の影響で、空手やカンフーをやっていれば、大柄なマッチョでなくとも、そのうち強くなれるだろうと勝手に思い込んでいる楽観的妄想狂がほとんどだった。

 パワーとタフネスは体重に比例するから、映画の中でこそ、ブルース・リーは二メートル超の巨人アブドゥール・ジャバー(本業はプロバスケットのスター選手)を倒せても、セーム・シュルト(身長約二メートルの元K1王者)のようなプロの巨人格闘家と本気で戦えば、まず勝ち目はない。体重区分のない空手やカンフーで、スピードとテクニックに長けた小男が、鍛え上げた大男を倒すなどというのは絵空事に過ぎないのだ。

 しかも格闘技というのはある程度のセンスも必要で、人一倍練習したからといって必ずしも一流の腕前になれるとは限らない。逆に武道であるがゆえに、ルールに基づいて試合をすることに慣れているせいか、空手の達人が予期せずに巻き込まれたストリートファイトで素人にボコボコにされることだってある。

 武道家にして天性のストリートファイターでもある麻吉は、非力で運動神経もイマイチの子たち少々鍛えたとこころで、空手という武道だけで若松の気合の入った不良連中と渡り合えるようになるとは思っていなかった。

 だからといっていきなり三下り半を突きつけるのも酷なので、表向きは演武用の空手の型を教えながら、ルールのない喧嘩向けに人体の急所を徹底的に狙う裏技までマンツーマンで指導したのだ。もちろんこれは正当防衛のための技であって、子供同士の組み手では使わせない。

 非力な人間でも頭突きや肘打ち、膝蹴りを急所に的確に当てれば、与えるダメージは大きい。

 麻吉は子供たちの実戦能力を高めるため、自分の顎や側頭部で頭突きや肘打ちを直接受けたため、いつも青痣だらけだったが、大男の麻吉がめまいを起こしたり、尻餅をついたりすると、彼らは大喜びだったという。麻吉に伴われて祭りや花火大会に出かけた際に、目つきの鋭い地回りやチンピラたちが、麻吉が近づくや一斉に道を開けるところを、幾度となく目の当たりにしているからだ。

 彼らの小さな世界の中では麻吉が「最強の男」である。その麻吉に「効いたばい」と言わせれば、若松で怖い者なんていない。自信というのは恐ろしいもので、喧嘩の裏技が上達するにつれ、空手も強くなった。

 麻吉は喧嘩の秘術を子供たちに伝授したが、俺が使っていいというまで絶対に使うな、といい含めおいた。未完成のまま腕試しをすれば、道場を辞めさせるし、仮に喧嘩に勝ったとしても、約束を破った罰として、その相手に俺の必殺技を教え込んで倍返ししてやる、と脅しておいたので、元々気の弱い連中だけにその約束を破る子はいなかった。そのうちみんな体格も良くなり、空手の大会などで入賞するようになると、潮が引いたようにいじめはなくなった。ただ一人の例外を除いて。

 

 山田(かねし)は佐賀県玄界町からの転校生で、父親は電力会社の社員だったが、若松に転勤してきてから一年後に急性骨髄性白血病で亡くなった。それからというもの、父親が以前原発に出向していたことから、放射線を浴びて癌を発症したという噂が広まり、金は「山田菌」と呼ばれ、陰湿ないじめを受けるようになった。

 金は喘息持ちの虚弱体質だったが、勉強の方は抜群だったので、いずれ偉くなって見返すつもりでいじめにも耐え続けたが、姉の泉はその試練に耐え切れず、若戸大橋から身を投げた。まだ十五歳の若さだった。

 泉は器量が良く、勉強もスポーツもできたため、中学では人気者だった。内向的で友達も少ない金にとって、泉は自慢の姉だった。父の死後、中学に入学した頃から、金が周囲から孤立していったのに対して、当時中三の泉はますます美しさに磨きがかかり、校内でも華やかな存在であり続けた。当然、男子生徒からはちやほやされ、女子人気ナンバーワンだったサッカー部の主将とも半ば公然の仲だった。

 泉の人生に暗い影が差し始めたのは、中三の二学期に入って間もなくのことだった。

 理由もなくサッカー部の主将から別れ話を切り出されてからというもの、周囲の態度が激変した。それにともない、向日葵のようだった天真爛漫な笑顔も、引きつったような作り笑いへと変わり、やがて拒食症によって、飢餓難民といってもいいほどの貧相な容貌へと変わり果てた。

 泉の死はいじめによるものだ、と母親が校長にねじ込んではみたものの、関係者は後難を恐れてかだんまりを決め込んでいたため、学内調査の結果は「いじめの痕跡は見受けられない」というマニュアルとおりのものだった。

 しかし、時間というのはいかに厳重な心の鍵をも錆びさせてしまう。四十九日の法要が終わった頃には、泉の死の要因となった一人の男の存在が浮かび上がってきた。


 権藤瑞典、通称「ゴンズイ」と呼ばれるその男は、泉と同じ中三ながら、一八〇センチ九十キロを超えるガタイと小学五年で県の空手道大会初等の部を制覇した腕っ節の強さで、戸畑、若松、黒崎の中学校の総番の座に君臨していた。

 校内の鼻つまみ者であると同時に、影の独裁者でもある権藤は、中二の時に柔道三段の生徒指導主事をシメてからは、教師が見て見ぬふりをしてくれるのをいいことに、何でもやりたい放題だった。軍資金集めのカツあげから万引き、援交の仲介までやりながら鑑別所にぶち込まれたことがないのは、全てを配下にやらせているからで、まるで暴力団幹部さながらの周到さだった。女好きでも有名で、取り巻きの一人から、いとうあさこ似の姉を無理やり人身御供に出させたこともある。

 運の悪いことに、泉はこの権藤から見初められてしまったのだ。

 登校率の低い権藤は、中二くらいから急に大人っぽくなった泉の存在にはしばらく気付かず、執拗にデートに誘うようになったのは、中三のゴールデンウィーク明けからだった。

 もちろん泉には彼氏がいたので、いくらコナをかけてもなしのつぶてだったが、腕力と権力によって女さえもほしいままにしてきた権藤にとって、自分をそでにする女の存在など到底認められるものではなかった。ちょっとスレた女子中学生はおろか女子高生の中にも、周囲から一目置かれたいという理由だけで権藤のセフレになりたがっている子がわんさといたのだから無理もない。

 権藤はまずサッカー部の主将を脅して泉と別れさせた。サッカー推薦での進学がかかっていた泉の彼氏にとって、権藤の取り巻きから袋にされて大怪我をするリスクを負うより、いずれは記憶の彼方に消えてゆくであろうウブな恋愛に終止符を打った方が、コストベネフィットで上回ったのだ。

 次に、泉が援助交際をしていて中年男の愛人がいるという噂をばらまいた。こうして彼氏にふられ、周囲からも疎まれるようになった傷心の泉の心の支えを装おうという魂胆だったのだが、泉にはヒネたカバのような権藤の容貌が生理的に受け付けられず、この作戦は頓挫した。

 諦めきれない権藤はついに強硬手段に出た。泉の肩を持つやつは俺が学校に来られなくしてやる、と脅したのだ。泉へのいじめに加担しなければ権藤に報復されることを恐れた同級生は、権藤の指示にしたがって連日いやがらせを繰り返した。

 このチキンレースは泉のコースアウトによってようやく幕を下ろした。


 金から話を聞いた麻吉はこう言った。

 「相手が力士やなかったら、どがんやつでん勝つ秘策はあるとばい。幸いお前は見た目が弱々しかけん、相手も油断すっちゃろう。やけんが、お前に人生ば犠牲にすっ覚悟があっとか。姉ちゃんは気の毒ばってんが、そんだけん頭があっとやったら、将来出世ばして金と権力の手に入れられるっかもしれん。そん二つの手に入りさえすりゃあ、合法的にアイツば社会から葬り去ることやって不可能やなかぞ」


 「いえ、今でなければ意味がないんです。権藤のようなクズは、やがて姉のことなんて忘れてしまうでしょう。少しでも罪悪感のかけらが残っているうちに、山田泉の弟から復讐されたということを思い知ってほしいんです。そのために僕の人生を捧げてもかまいません」


 金の悲壮な決意を知った麻吉は「ボウガンで延髄ば射抜くとが一番手っ取り早かけんが」と笑いながらも、日本の柔道王木村政彦が、格闘技で有名なグレイシー一族の総帥であるエリオ・グレーシーをワンサイドで仕留めた必殺技、通称“キムラロック”こと腕がらみを伝授することにした。


 半年後、中学二年生の金は、土曜の夜に女のアパートに向かう権藤を路地裏で待ち構えていた。

 「姉ちゃんの一周忌に墓参りに来てください」と金が言うと、ポケットに片手を突っ込んだままトリスのポケット瓶をラッパ呑みしていた権藤が一呼吸おいてから「ああ、山田の弟かお前!」と指差した瞬間、金はその左手首を握ると同時に肩口から右腕を差し込んでロックした状態で、権藤の膝を蹴って身体に捻りを加えながら後方に倒れこんだ。

 地面に倒れると同時にゴキッと鈍い音がした。すかさず後頭部に反動をつけた頭突きを入れると、さらに起き上がろうともがく権藤の頭を両腕で抱えて頚椎に膝蹴りを数発叩き込んでから、一目散に逃げ出した。一部始終を近くの電柱の陰から見ていた麻吉は、朦朧としている権藤をコンクリートの側溝の中に蹴落としてから、一一九番に電話を入れた。

 権藤は全治三ヶ月の重傷だったが、武闘派ヤンキーなりのプライドからか、不意打ちとはいえ丸腰の金に半殺しにされたなどとは口が裂けても言えず、自分が酔っ払って側溝に落ちたと言い張った。

 しかし、頚椎捻挫と左肘関節複雑骨折の代償は大きく、退院時にはすっかり筋肉が落ちて別人のような貧弱な体つきになっていたばかりか、左半身に軽度の機能障害が残っていた。そんな彼に待っていたのは、老いたライオンの運命だった。

 これまで顎で使っていたような連中から小突き回されて、パシリに成り下がった後、今では玉名温泉のとある旅館の掃除夫をしているという。


 「その金ちゃんが、この間、母ちゃんの七回忌でウチに焼香に来たのよ。春の人事で警視庁公安部参事官を拝命したんだってさ」

 「凄―い。公安ってテロ対策とか外事でしょ。もしかしてキャリア?」

 クラッシュアイスたっぷりのミントジュレップを配りながらマリリンが尋ねる。

 「東大法学部時代は空手部の主将を務めながら、在学中に司法試験にも通ったバリバリだからね。国家公務員Ⅰ種試験も全体で三番だったらしいよ」

 「へえー。それにしても人って変わるもんだね。いじめられっ子が体育会系公安キャリアだもん。さすがの不二子のお父さんも恐縮してんじゃない」

 「ぜーんぜんだよ。山田さんの方が、先生、先生って平身低頭で、父ちゃんの方は、まあ金坊、飲めや、だもん」


 「で、それはそうと、お母さんとのロマンスはどうなったのよ」


 「父ちゃんが近郊の同業者を一蹴してしまったこともあって、入門希望者は増えたんだけど、気の強い子や体格のいい子は入門を断って、いかにもいじめられそうな子ばかり選んでたから、結局、練習生は十人を超えることはなかったそうよ。それでも、母ちゃんは凄く感謝してくれて、時々、父ちゃんの空手着の洗濯や下宿の掃除までやってくれるようになったんだって。後は想像に任せるわ」


 あの成金ヤクザのような麻吉親父の過去に、こんな感動秘話があったとは驚きだ。まるで三蔵法師に弟子入りして改心した孫悟空のようだ。緊箍児(きんこじ)を締めつける呪文を唱える奥さんがいなくなったから、時々暴走はするけど、根はやさしい人なんだ。

 それにしても、両親がともに国公立大出身だから、不二子が頭のいいのはわかるにしても、あの運動神経の悪さは、とても一流アスリート夫婦の遺伝子を受け継いでいるようには思えない。

 目付きの険しさこそ父親譲りだが、母親も一七四センチの長身だったというのに、不二子は背丈も私と変わらないし、彼女の遺伝子配列には謎が多すぎる。

 

 “螻河内家の真実”に聞き惚れているうちにバーベキューの用意も整った。

 本日のアントレは、不二子がクロスボウで仕留めたハクビシンである。

 不二子の家の裏山には、数年前からイノシシが出没し始め、時折近隣の畑まで下りてきて農作物を荒らすようになった。麻吉親父の家庭菜園も例外ではなく、不二子は父娘で丹精こめて育てた糖度の高いプチトマトを食い尽くされたのを機に、裏山に巣くくる害獣のジェノサイトを決意した。

 飼っているマスチーフを猟犬さながらに訓練するかたわら、独学でクロスボウによる射撃テクニックを修得した不二子は、タヌキやウリ坊、ハクビシンなどの小型動物を中心に、すでに数十匹以上駆除しているらしい。

 不二子のトラップは、強化ピアノ線を繋げた釣り針を囮の餌に仕込み、口内に釣り針が刺さった状態で動物が暴れると、スマホと連動した警報装置が作動するというものだ。警報が入ると、まずマスチーフを放してから、クロスボウを手にした不二子が現場に向かうようだが、その姿を想像するだけで悪寒が走る。まさしくサイバーマタギだ。

 ちなみに一番の大物は、クロスボウで頭蓋を射抜かれた後、三頭のマスチーフから食い殺された八十キロ級の雄イノシシだそうだ。もちろん無許可の害獣駆除は非合法だが、裏山で遊ばせていたマスチーフが勝手に野生動物を捕食したことにしてしまえばわからない。

 おかげでマスチーフたちも、運動不足によるストレスから解放されたうえ、ふんだんに野生動物の生肉にありつけるとあって、健康状態は極めて良好で、不二子に対する忠誠心も将軍の前の御家人のようだ。

 大抵は駆除した害獣の肉も臓腑もマスチーフが処理してくれるのだが、滅多に獲れないハクビシンだけは別で、マスチーフには臓物しか与えず、肉は少し寝かせた後、すき焼きにして食べるのだそうだ。

 ハクビシンは、見た目からしてひねていて性格も凶暴なため、日本では単なる害獣扱いされてきたが、中国では食用にされているように、実は国産黒毛和牛以上に美味で貴重な肉であることを知る人は少ない。

 一流の肉料理店ですら、偶然に入手した時に贔屓客だけに提供する裏メニューであることを噂には聞いていたが、不二子が腑分けして冷凍保存していたというハクビシンの肉は甘みがあって柔らかく、想像を絶する美味さだった。

 螻河内家は早良区有数の資産家だが、金では手に入れられないものでも手に入れてしまう不二子のことを、初めて羨ましいと思った。

           


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