序章 ロケットガール・フルスロットル
福岡県豊前市出身の田舎の女王様が、大都会福岡市の名門校に進学するが、強力なライバルたちに揉まれながらも、手段を選ばす、学園のヒロインの座を手に入れようと奮闘するコメディタッチのピカレスクロマン。
適度に筋肉質だが、長くしなやかで美しい。男の人が見たら放っておかないだろうな、私の生脚。
サラブレッドの躍動美というよりも、猫科の肉食獣のように優雅で気品のある野生美という方がしっくりくるかもしれない。私が飼っている雌オセロットのドゥーチェには敵わないけど、霊長類ヒト科の雄から見れば、私の方に分があるはずだ。きっと。
歯と右手を使ってゴム管を左の二の腕に巻きつけ、浮き上がった静脈に注射針をすみやかに突き通す一連の動作は、まるで手練のジャンキーのように芸術的ですらあり、フィルム・ノワールのファム・ファタールもかくやという興趣だが、残念ながらこの姿を人前に晒すわけにはゆかない。
ヘモグロビン濃度を上げた自分の血液を静脈に注入してゆくと、線虫が毛細血管の隅々にまで潜りこんでゆくような何とも形容し難い感覚とともに、全身に力がみなぎってくる。
三ヶ月前から投与を続けているスタノゾールとテストステロンとメルドニウムが育んだ筋肉は、大量のヘモグロビンチャージによって、今まさにピーキーなアイドリングを始めているところだ。
心臓の鼓動が高まるにつれ、ブースト計の針が振り切れそうな高揚感と胃痙攣を起こしそうなほどの緊張感が私を包み込んでゆく。
これって最高のエクスタシーかもしれない。
本日、平成二十三年五月二十一日は、わが母校西夏女学院の中・高等部合同体育祭の日だ。
福岡市中央区赤坂にある私立西夏女学院は、「筑紫の女王」と謳われた女流歌人、柳原白蓮が発起人となり、福岡市婦人会と博多商工会の協力によって大正十三年に創立された、当時としては画期的な、高等教育機関(今日の大学)への進学を目的とした女学校で、昭和十二年に来福したヘレン・ケラーが名誉顧問として名を連ねていたこともある。
西夏という十一世紀に成立したチベット系タングート族の王朝を思い起こさせるような校名にしたのは、初代理事長兼校長の西城夏希女史がかつて西夏の首府があった中華民国寧夏省銀川市生まれであり、自身の姓名とも被っているという語呂合わせ的な理由によるそうだが、なぜか校史には、辺境の一部族が宋帝国を脅かす強国に発展した歴史になぞらえて、地方都市の福岡から国際社会に飛躍できるような女性を輩出する、という信念のもとにこう名付けたとある。
創立当初は無宗教でチベット仏教とは何の係わり合いもないにもかかわらず、強引にチベット国家に結び付けた後年の校史編纂者の意図は不明だが、校長の単なる思いつきでは安直すぎるという配慮だったのかもしれない。
ちなみに現在はスウェーデンボルグ系のミッションスクールとなっているが、これまたヘレン・ケラーを崇拝していた西城校長が彼女の来日中に滞在先のホテルまで押しかけ、徹夜で死生観を語り合っているうちに悟りを開いたという、イマイチ説得力に欠ける理由によるものだ。
博多麹町の富裕な輸入貿易商の一人娘だけに、ちょっとわがままで独善的なところもあった西城校長だが、行動力は抜群で、東和英和女学校を卒業して福岡に戻ってきてからは、福岡女子師範学校で教鞭を取るかたわら、女学校時代の友人柳原白蓮に誘われ、本校の設立運動に奔走した。
大正二年に東北帝国大学が女子の入学を認めて以来、北海道帝国大学、九州帝国大学といった男子のためのエリート教育機関が次々と女子に門戸を開き始めるのと並行して、私立の女子高等教育機関の設立も相次いだが、まだ地方には進学に特化した女学校がなかったため、高等教育機関に進学できるのは、塾に通うか家庭教師を雇ってもらえるだけの余裕がある上流階級の子女に限られていた。
かねてより教育の機会均等を提唱していた白蓮は、想いを同じくする福岡市婦人会長村上茂登子とともに福岡女子特進学校(仮称)設立期成同盟を立ち上げると、自らが広告塔となって県内各地で賛助会員を募るための歌会や講演活動を精力的に行った。
全国的な婦人解放運動の拡大が追い風となって、設立運動発足からわずか半年で賛助会員は千名を超え、運動に同調してくれた博多商工会有志による募金活動の結果、資金面の目処も立ってきたところで、白蓮が学園の運営責任者候補として白羽の矢を立てたのが、実父が博多商工会会頭を務める西城夏希だった。教育者でありながら家業の貿易会社の専務取締役としての経営手腕も高く買われていた西城女史は、まさにうってつけの人材だったのだ。
行動力と交渉術に長けた西城女史が設立運動に参画したことによって、滞っていた県との設立認可交渉も前向きに進展し始める一方、専業主婦に納まっていた退職教員を中心に一定数のボランティア教師も確保することができたことは大きかった。
表向きは知名度の高い柳原白蓮が運動の中心ということになっていたが、地所は十年間無償貸与という条件で村上婦人会会長が私有地を提供しており、廃屋となっていた芸妓向けの裁縫学校校舎を移築して仮設校舎として使用する段取りがついたのは、西城女史が新柳町遊郭連合会に直談判した成果だった。
西城女史が教育とは水と油の世界のような遊郭関係者にまで協力を仰いだのは、インテリ女史がコネクションをフルに活用して作った学校では、敷居が高すぎて庶民教育とはかけ離れてしまうことを危惧したからである。結果、西城女史の働きかけで芸妓たちからも十銭単位の小口の寄付が相次いだが、良賎に関係なく様々な人々が施してくれた小さな愛の集合体としての学校であればこそ、設立に関わった全ての人たちに感謝の気持ちを忘れない人間教育ができる、という彼女の思いを汲んでくれてのことだったようだ。
県から設立許可が下りた直後に、白蓮は宮崎龍介との駆け落ち事件を起こして、心ならずも福岡を去ったため、栄えある西夏女学院の開校式に姿を見せることはなかったが、その功績に感謝の意を表して、昭和四十二年に白蓮が亡くなるまで、理事長室の表札は西城夏希と宮崎燁子(白蓮の本名)の二枚が並べられていたという。
西夏の校訓である「無名有力」は、福岡が生んだ女傑、高場乱(医師、興志塾主宰者)が唱えたもので、出自に関係なく、大志を持った女子を有用な人材に育成したいという思いが込められている。
これに基づいて、設立当初は作文と面接、集団討論のみの入試を行い、貧困家庭を対象とした奨学金特待制度も存在したが、学園創立から十年も経たないうちに志願倍率が十倍を超えてしまったため、公立と同様の学力試験を導入せざるをえなくなった。
きっかけは、昭和二年三月から五月にかけて大濠公園で開催された東亜勧業博覧会に、奨学基金設立の目的で西夏女学院が出店した『カフェ・マリア』が大評判を呼んだことである。
福岡のカフェブームはまだこれからという時代、アギア・ソフィアの外観を模し、内装は和洋折衷に仕上げた深紅のドーム型店舗は、現在でいうところのインスタ映え間違いなしのインパクトがあり、本場アラビア産豆を使った本格派コーヒーと香港式ミルクティーの珍しさも手伝って、開店当日から、新しいもの好きの福岡市民が長蛇の列をなす盛況ぶりだった。
しかも、人気の理由は単なる珍しさだけではなかった。
和装、洋装、チャイナドレスといった様々なコスチュームのウエイトレスが日替わりで入れ替わるうえ、中国、台湾、朝鮮系の客に対しても拙いながらも母語で接客するなど、一流ホテル顔負けのサービスも評判を呼び、リピーターが連日詰めかけたことは、当時の地元新聞でも大きく報道されている。接客マナーの行き届いた十代のインテリ少女たちが給仕してくれるのだから、オヤジたちは堪らなかっただろう。一歩間違えれば、高級キャバクラである。
ただし、デザートにアイスクリームがつく本格的な洋食ランチは、庶民にとっては高嶺の花だったらしく、リピーターの大半はブルジョワ層で占められていたようだ。それでも、常連客たちが礼儀正しく知的な会話も楽しめる西夏生のことを行く先々で賞賛してくれたことは、学園自体の宣伝効果に繋がった。これらは博多商家のごりょんさん方と新柳町の芸妓のお師匠さんたちによる熱血指導の賜物である。
とりわけ宣伝効果が高かったのは、タニマチから誘われてたまたま来店した豊前市出身の銀幕スター大河内傳次郎が、帰国子女とおぼしき女生徒が海外からの観光客に対して流暢な英語で受け答えしていた姿に感銘を受け、取り巻きの記者連中に郷土自慢として吹聴してくれたことである。おかげで西夏女学院の名は、活動写真好きの婦女子の間では全国区のブランドネームとなった。
昭和五、六年頃には近県どころか九州全域の上流家庭の子女が受験に殺到する事態となり、その競争率の高さゆえに、子供の教育に糸目をつけずに資本投下できるくらい経済的余裕のある家からしか合格者が出なくなったのは何とも皮肉なことである。
せめてもの救いは「有名無力」なブランドだけの学校に成り下がらなかったことだろう。
太平洋戦争中は、北は樺太から南はインドネシアまで津々浦々の日本の植民地からの留学生が各学年十名前後も在籍していたというから、日本一国際色豊かな女学校だったことは間違いない。
しかもこの時代には珍しく、身体的ハンデがあっても学力が基準値に達していれば入学が許可されていた。これはヘレン・ケラーの進言によるものだが、その後、宗教的、人種的、身体的差別に抵触する言動は停学もしくは退学、という校則が付加されたため、リベラル過ぎるという理由で福岡県警特高課から睨まれたこともある。
この創立以来の危機を乗り越えたのは、義侠心に富んだ博多のごりょんさん方の結束力だった。
設立運動の時期から後援会員、賛助員として物心両面で西夏を支えてきたごりょんさん方が、いわゆるママ友コネクションを使って上級将校の夫人連中を煽り、軍部の力で特高に圧力をかけたのだ。
「できる男」の影には有能な女がいるのは今も昔も同じで、人前では威厳があっても女房には頭の上がらない亭主は少なくない。「泣く子も黙る」と恐れられた特高課も、突如臨時召集された特高主任がノモンハンに送られた翌日に戦死したのを機に、西夏の教育方針への干渉は完全に途絶えた。
おかげで教職員、生徒ともに軍国主義の風潮にはとんど流されることなく終戦を迎えたばかりか、大日本帝国内でガラパゴス化していたことがかえって幸いし、施設見学に訪れたGHQのお偉いさん方からも「極めて先進的かつ民主主義的な女子教育機関」として賞賛されたほどだ。
ミッション系ということもあって、昭和二十年代には西戸崎の在日米軍将校夫人連が非常勤の英語講師として西夏に出講するようになった一方で、米軍家庭の子女の入学も相次ぎ、この時期の生徒たちの語学力は帰国子女並みだったらしい。
当然のことながら、有能な卒業生が数多く社会に進出し、その大半がハイソサイエティな家庭の夫人に収まった。そんなOBたちが、自分の娘を西夏に入学させたいと願うのはある種の必然で、西夏がセレブ層の輪廻のごとき帰属意識を助長する学校になるまでにはさほど時間はかからなかった。
このように典型的なお嬢さん学校ではあるが、かつては東京、メキシコ、ミュンヘンと三大会連続でオリンピック陸上競技の強化選手を輩出した栄光を埋もれさせたくないのか、近年では風化が著しい「文武両道」をいまだに看板に掲げており、現在でも毎年のように学業と運動の両方に秀でた県大会クラスのスポーツ少女が若干名入学してくる。
教育方針は世の流れに逆行しているかのように「自立」と「自己責任」を重視しているため、福岡県下の進学校では、ほぼ例外なく実施されているゼロ時限と呼ばれる早朝課外授業など存在しない。
加えて追試や再試などという成績不振者の救済策もないため、点数が足りない生徒は容赦なく留年させられるし、正当な理由のない不登校が入学以来通算十五日に達した時点で除籍処分となる。
完全週休二日制で夏季と春季の短期集中講座以外には補習授業がないにもかかわらず、毎年現役で東大、京大合わせて三十名前後、上記以外の国公立大医学部医学科にもほぼ同数の合格者を出している。これは受験学年の四分の一に相当する数字であり、その他、アメリカのアイビーリーグクラスの海外の大学に進学する生徒も毎年数名はいる。
この驚異的な進学実績により、西夏女学院はその発音をもじって「才女」と呼ばれており、「才女」の生徒とメル友になるだけでも市内の男子高校生にとっては大きなステイタスとされている。
深窓の令嬢揃いの「才女」の子たちときたら、ベンツやジャガー、BMWでの送迎など当たり前で、登下校時に校門の前にピカピカに磨き抜かれた高級外車がズラリと並んだ光景は、ちょっとした輸入車ショーの趣である。もちろん全て違法駐車だが、教師も周辺住民も誰一人クレームをつけたためしがない。
時折、下世話な目的で校門の外でたむろしている挙動不審な男子高校生を見かけることもあるが「才女」の生徒たちが醸し出す浮世離れしたオーラと、高級外車の威圧的なクラクションに追い払われるのがオチで、覗きがバレた出歯亀のようにその場を駆け去ってゆく彼らのみじめったらしさにはいつも辟易させられる。
校外でも「才女生」とお近づきになる機会はほとんどない。
マルチタスク志向が強いがゆえに部活動加入率が高い本校生は、放課後三時半から六時くらいまで部活動に参加した後、職員も完全退校となる八時まで学校に残って勉強しているのが大半で、塾や予備校(といっても少人数のゼミか個別指導)に通う生徒を除けば、放課後直帰の生徒は一割にも満たない。そのため、平日に若者が群れる場所で制服姿の才女生を発見するのは、白昼に流星を目撃するようなものだ。
では休日はというと、家庭教師による個人授業か習い事、あるいはドライブに出かけたりレストランでランチを楽しんだりと、いかにも育ちの良いお嬢らしく、家族と過ごす時間を大切にする子たちが過半数を占める。
ショッピングもデパートの外商かオーダーメイドで済ますことが多い本校生は、ロケーションの良いオープンデッキを持つ友人宅でランチパーティを催してはファッションセンスを競い合うのを楽しみにしているようなインドア派が主流だが、アウトドア派も、ひと頃までは複数名でハイヤーをチャーターして高級ブランドショップをはしごするのが流行りだったのが、ここ最近は円高に便乗してか、釜山までビートルか、台北まで格安航空券で日帰り弾丸旅行というのがトレンド化しつつある。
主な目的は食べ歩きかスパあるいはエステで、これが日頃の勉強疲れを癒す才女流のリフレッシュ休暇というわけだ。
こうなると、もはや異次元の住人である。
もちろんネットや携帯にも規制がかけられていて、在学中はフェイスブックやLINEなどもご法度だから、一流ハッカーでもない限り、文明の利器を利用して彼女たちに接近することもままならない。
とはいえ、年頃の女子学生のこと、異性に全く興味関心を持たないわけではない。
ミュージシャンやアイドル、映画俳優に入れ込んでいる子もいるにはいる。
しかし、彼女たちの人気アンケートで上位に並ぶのは、マーク・ザッカーバーグ、ラリー・ペイジ、スティーブ・ジョブズといったIT企業創始者やエドバルド・モーセル、アダム・リースといった若手の世界的研究者たちで色気も素っ気もない。
校内一の秀才三島彩に至っては、将来的にはハーバード・メディカルスクールでジャック・ショスタク教授のゼミに入り、教授の遺伝子を受け継ぐのが夢というのだから、これはもう立派な変態である。
私が思うに、この子たちはブルジョアのくせに感性がとても原始的で、遺伝子の優劣に性的魅力も比例しているようだ。確かに自然の摂理に適っていて、優秀な血を絶やさないことこそ種の繁栄につながるという生命体の基本理念を把握している点においては異論の余地はないが、人間は感情の動物である。愛するという感情より生命科学的な本能が優先するなんて、女性というよりも単なる雌だ。
「親戚の親戚にダーウィンの遠縁がいない?」って尋ねてみたくなるほどだ。
こんないびつな男性感が形成されたのは、ミッションスクールならではの聖母懐胎を半分信じている過保護な親による歪んだ道徳教育の賜物かも知れないが、所詮は世間知らずの小娘である。大海目指して歩み始めた海亀の子が、志半ばにしてカモメについばまれてゆくように、女性氷河期をたくましく生き延びた厚顔無恥な独身男性教師の甘言に乗せられ、親の期待に背いてしまう者も稀に見受けられる。
高学歴だけが取り得の矮小な雑食獣にとって、食物連鎖の頂点に立つ猛獣(知力、体力、財力が揃った男)が存在しない離島は格好の猟場である。中には雛を狙っているところを狂暴な親鳥に発見され、私的制裁を受けた輩もいないではないが、校長、副校長、教頭の御三家がいずれも一回り以上歳の離れた元教え子を娶っている本校では、この点に関しては信じ難いほどに寛容である。
私自身も二度ほど教師に言い寄られたことがあるが、還暦間近のバツイチ生徒指導主事から誕生日に五カラットのダイヤのネックレスをプレゼントされた時は、心底恐怖を感じたものだ。
もちろん厄払いに父親がリサイクルショップを経営している友人に頼んで処分してもらい、その代金で後輩たちと食べ歩いて使い果たしたが、そもそも五十面の冴えないカットの黄色がかったダイヤで釣れるのは、ノータリンの援交少女くらいのものだろう。いくら五カラットといっても、デザインも質も最低レベルのクズダイヤなど、私にはネコイラズをトッピングした消費期限切れのバースデーケーキにしか見えず、それをしたり顔で渡された時の戦慄は、思い出すだけで冷や汗ものだ。
こんな調子でちょっと世間ずれしたところもあるわが母校だが、大半の教師は優秀で、授業内容、学校行事ともに他校の生徒がうらやむほどに満足度は高い。とりわけ文化祭と体育祭のエンターテインメント性は全国でも五指に入ると言われている。
西夏の文化祭は、通称「歌劇祭」と呼ばれ、十月上旬の三日間、博多座を借り切って宝塚か往年のSKD(松竹歌劇団)を彷彿とさせるミュージカル歌劇公演が行われる。
この伝統行事は創立年度の大正十三年十二月に「関東大震災義捐金募集公演」と題した西夏女学院の生徒と保護者による素人浄瑠璃会が、大博劇場で催されたことに端を発する。
この即興のボランティア公演が大変好評だったため、翌大正十四年からは正式な学校行事となり、戦前は日舞あり、京劇あり、歌劇ありとバリエーションを広げていった。
当初は公演の趣旨に賛同した花柳界の顔役、池見辰次郎がメインスポンサーとなり、有志の置屋たちとともに経費の大半を賄ってくれていたが、その後、九州日報社長、清水芳太郎を発起人に福岡出身の政財界人による後援会が発足してからは、潤沢な資金力を背景に、娯楽の少なかった時代には福博の人気イベントの一つに数えられるほど知名度も高まり、福岡連隊の慰問公演を依頼されたこともある。
戦後は西夏OBを細君に持つ地元の政財界人が、後援会幹事、運営委員を務めることが通例となったことで、現在も学校行事でありながら、主催は「西夏歌劇団後援会」となっている。
ミュージカル歌劇に一本化されたのは、新制高等学校が発足し、駐留米軍の子女が入学してくるようになった昭和二十三年からで、脚本は全校生徒対象の公募で選ばれたオリジナルを使用するのが慣わしとなっている。
出演者は演劇部員と校内オーディションを通過した生徒のみで、主演は演出担当の演劇部長と公募で選ばれた脚本担当者、音楽担当の吹奏楽部長、合唱部長の四者協議により決定する。その他の生徒の役割はというと、受験学年である高等部三年生を除いて、舞台設営やチケット販売に奔走することになる。
昨年度の私は音楽編集の補佐を担当する一方で、脇役ながら栄誉ある出演者の一人に選ばれた。
ところがよりによって、黒人の孤児たちと一緒にゴスペルを歌う黒人修道女という役だったため、わざわざ田舎から出てきてくれた祖父母さえも、黒塗りメイクした孫の顔を判別することが出来ず、無駄足を踏ませてしまった。
せめてもの救いは、私のピアノ伴奏で孤児一同が「アメージング・グレース」を歌うシーンで、最初のおごそかなゴスペル調から次第にテンポをアップしてゆき、マイアミ・サウンドマシーンの「コンガ」にスライドしてゆくという私の提案が通り、舞台の本番でも大好評だったことだ。
私のファンキーなピアノとヴォーカルに吹奏楽部の演奏と合唱部のコーラスを被せて、孤児役の十人が韓流アイドルばりのダンスを踊ったのが親子連れにバカ受けし、終演後に出演者一同が来客を出入口で見送る際にも、子供たちは主役級などそっちのけで、「黒いお姉ちゃん、黒いお姉ちゃん」と私たち脇役陣との記念撮影をねだって群がってきた。
幸いこの年の公演は、チケット代に加えて喜捨とオリジナルTシャツの売り上げも過去最高額に達し、東北の被災地の子供たち七百人分のランドセルを送ることが出来た。
以上のように、わが校の文化祭は一般公開用のボランティア・イベントであって、私たち生徒はリハーサルを一度鑑賞するだけである。そういう意味では、全校生徒を対象としたエンターテインメント性抜群の娯楽イベントといえば、体育祭にとどめを刺す。
西夏の体育祭は、プロのイベントコーディネーターが数百万円単位の報酬で企画・運営を請け負っている本格的なスポーツフェスティバルで、百道のドーム球場を半日借り切って行われる。
ハーフタイム、つまり昼食時間には、イリュージョン・マジックショーやそこそこ名の売れたインディーズバンドのミニライブなどの組み込まれているため、運動が得意でない生徒たちも十分に楽しめる趣向となっている。
多分にスーパーボウルを意識したこのイベントのトリが、全クラス対抗4×100メートルリレーの決勝で、午前中に高等部全学年計二十四クラスを、抽選で六クラスごとに分けた四組による予選が行われ、各組上位二クラスずつ、計八クラスが決勝に進出する。
優勝チームは校旗を掲げて場内を一周してから表彰式に臨むことになっているが、その時、お立ち台の上でノンアルコールのシャンパンファイトが行われるのがお約束で、高校の体育祭でここまで派手な演出は「才女」くらいのものだろう。
かく言う私、槙村弘美は二年四組のアンカーだ。昨年は予期せぬトラブルもあって予選落ちしてしまったが、クラスが入れ替わった今年は絶対に優勝するつもりだ。
いや、優勝しなければならないのだ。
第一走者は昨年と同じく私の大親友であるマリリンこと美樹本真里だが、今年は不慮の事故に備えて抜かりなく準備を整えているので多分大丈夫だろう。
マリリンは一六九センチ、五十七キロというイタリア女性のような恰幅で、バストも九十二センチGカップの巨乳を誇っている。西洋人体型で下肢が長いため、こんなムチムチボディにもかかわらず、百メートルのベストタイムが十二秒九という俊足なのだが、昨年は事もあろうに予選一組で先頭を走っている最中にブラのホックが金属疲労で弾け飛んでしまうという信じられないアクシデントに見舞われた。こうなると体操服の下で巨乳が大暴れして、とても全力疾走どころの話ではない。
ノーブラ状態のマリリンを激写しようと外野スタンドから身を乗り出した一人のエロ親父がグラウンドに転落し、脊椎骨折と下半身麻痺の重傷を負うという悲喜劇とともに私の体育祭も終わったのだ。
今年のマリリンはさらしを巻いて万全を期し、予選でも見事な走りを披露してくれた。
第二走者の豊島茜は佐賀県三瀬村の豪農の娘で、小学校時代は「三瀬のリトル・ジョイナー」と呼ばれていた短髪色黒のボーイッシュなスポーツ少女だ。都会に出てきて色気づいたかダイエットにはまり、金華ハムのようだった太腿も今やすっかり筋肉が削げ落ちてしまったため、かつて百メートル走で佐賀県小学生記録を更新し、鳴り物入りで西夏中等部に入学してきた頃の面影はない。まあ、マリリンのリードをキープしてくれれば御の字というところで、私もあまり期待はしていない。
第三走者は私がPTA理事の一人である父に頼んで編入を手引きした秘密兵器である。
カトリーヌ矢坂は、私が二年前サント・ドミンゴのジュニア・ハイスクールに短期留学した時に知り合った日系三世で、当時は百メートルハードルの選手だった。ドミニカの陸上レベルが高すぎてハイスクールではサッカーをやっていたが、祖父の祖国である日本に対する憧れが強く、また学業も優秀だったので、父の働きかけで西夏の二年次編入試験を受験させたのだ。
英語、スペイン語がペラペラで日本語も日常会話程度なら不自由しないカトリーヌは、高取商店街でドラッグストアを営んでいる大叔父宅にホームステイしており、時折私の英会話の指導にも一役買ってくれている。本格的に短距離の練習を再開したのは来日した三月からだったにもかかわらず、すでに百メートル十二秒五までタイムを上げている。これは私の昨年のベストと同じで、もし四人が揃ってベストを出せば昨年度の優勝タイムを〇秒五上回ることが出来る。
ところが、今年は二年一組に陸上部短距離走の主力メンバーが三人も固まってしまい、下馬評では優勝間違いなしと言われているのだ。
ある親しい教師によると、これは陸上部の顧問である一組の副担任上村亮介がクラス替えの際に根回ししたとのことだが、第一走者の雨宮佳織、アンカーの宮城梨奈ともにベストタイムが十二秒〇というインターハイクラスのアスリートが揃っていては、カトリーヌがジュニア・ハイスクール時代に記録した十二秒二まで戻せたとしても勝ち目はない。
では、諦めるか。いや、ドーピングという手がある。
私は抜け目のない性格で、勝算が限りなく百パーセントに近づくまではあらゆる努力を惜しまない。
今回もカトリーヌを引っ張り込めば万全だとは思っていながらも、念のためにアナボリックステロイドで筋力を増強しておいた。
実際、少しは当てにしていた豊島は冴えないし、昨年は別々だった雨宮と宮城が同じクラスになったばかりか、昨年の体育祭は故障中で不参加ながら、秋の県大会では二百メートルで五位入賞の南美川優香まで一組に加わるという最悪の事態が起こり、私の必勝計画は大きく揺らいだ。
そこで私は、父が院長を務める病院のスポーツ生理学の専門医に相談し、造血ホルモンのエリスロポエチンの定期的な摂取に加えて、より即効性のある血液ドーピングを行うことにしたのだ。
自主トレは毎日、兄の通っているF大陸上部の練習に特別参加させてもらっている。これは、三浪もしてようやく入れた医学部で留年すれすれのところにいる兄の身を案じて、父が多額の寄付金を積んでいるお陰である。
インカレ入賞の常連校の陸上部で鍛えられたお陰で、私のタイムも追い風参考記録ながら十二秒二に達し、ヘモグロビンチャージの効果次第では、目標とする十二秒〇も見えてきた。
予選はマリリンとカトリーヌの力走で通過できると読んで、血液ドーピングは温存し、水分と栄養補給用のビートルートジュースだけに留めておいた。
でも今はとても呼吸が軽い。このまま無呼吸で二百メートルくらいは走れそうだ。
「ヒロポン、どこ行ってたとー。みんな待っとうよ」
マリリンが私を呼びに来た。いよいよ本番だ。
スタートと同時に飛び出したのはマリリンだった。二年一組の雨宮は最初のフライングで気後れしたのか、やや出遅れている。
前回の汚名返上とばかりに自慢のポニーテールをひっ詰めて優雅なストライドで走るマリリンは、遠目にはコートを駆け巡るマリア・シャラポワのように猛々しく美しいが、力んだ顔がまるで力士のようで完全に女を捨てている。
雨宮に追い上げられ、半身差の二番手で豊島にバトンを渡すや、精根尽き果てたか、四つん這いになって大きく肩を上下させているのがグラウンドの反対側からでもよくわかる。
よくやったねマリリン。ホルスタインの出産のような神々しい姿を見ているだけで、涙が出そうだよ。
豊島もいつになく気合が入っている。やはり男の効果はてきめんのようだ。
実はマリリンと私は、発情期の豊島のほとばしるような性欲を、走るエネルギーにコンバートするために一計を案じたのだ。
第一志望である九大農学部進学のために陸上を捨て、軟弱になった豊島は、ボーイフレンド探しを兼ねて、福岡市が後援する国際ボランティア団体に所属している。同じ団体に所属する同級生から、すでに六度告白して全て玉砕しながらも、相変わらず男子学生とのメルアド交換に余念がないという豊島の無節操ぶりを伝え聞いた私たちは、マリリンの知り合いのイケ面学生を、シークレット・エージェントとして団体に送り込むことにした。
マリリンに惚れているそのイケ面学生は、「豊島を口説けたらオールナイトでデートしてあげる」というマリリンの誘い文句に釣られてその団体に入会したのだが、面食いの豊島は易々と餌に食いつき、まだ手もつないでいないのに彼女気取りだという。
今日も予選の後で、スタンドにいる彼としきりにアイコンタクトを交わしていたところを見ると、あの男調子に乗って、もし優勝したら御褒美にキスする約束でもしているのではないだろうか。それにしても豊島の単純なこと。第二走者には陸上部が三人もいるのに、二位キープは上出来だ。
そういえば豊島、走っている時に妙にやけていたけど、いったい何を考えながら走ってたんだろうか。
第三走者のカトリーヌも練習の時よりいちだんと速い。一七三cmの痩躯をムチのようにしならせて疾駆する姿は、獲物を追う褐色の女豹だ。地元大学の陸上部に特別参加させてもらって、アンダーパスの練習をみっちりやった甲斐もあって、トップの一組南美川との差は二メートルもない。いや、残り二十メートルでカトリーヌがどんどん詰めてくる。
稀に見るデッドヒートに、ドーム球場に集まった五千人余りの声援の反響音が雷のようにこだまして、もはや誰の声もはっきりとは聞こえない。会場全体がトランス状態に入ったようだ。
アンカーまで残り五メートルのところで、カトリーヌが先頭に立った。助走のギアを上げ、バトンを受け止めた瞬間、私の世界にミュートがかかった。
そこからは何も聴こえなかった。視界に映る全ての世界がスローモーションのように過ぎていった。
最終コーナーで私の顔を一瞥してパスしていった宮城の姿。
眸の奥に嘲るような表情が映っていた。
瞬時にターボチャージャーで濃縮されたアドレナリンが私の全身を駆け巡った。
脳の中でかき氷が溶けたような爽快感とともに、私のレブカウンターは振り切れた。
バックストレート後半で並び、ほぼ同時にゴールに飛び込むと、優勝は二年四組とコールされた。
一瞬の静寂の後に訪れたドームを揺るがすウォーンという歓声と同時に、私は音のある世界に戻ってきた。
左右から抱きついて頬ずりしているマリリンとカトリーヌの表情は見えないが、目の前5センチにある豊島のにやけきったブちゃいく顔が、今は何だかとても愛おしくて思わずキスしてしまいそうだ。
リレーの優勝メンバーは学園便り『西風』六月号の第一面にカラー掲載される。
改めて記念のショットを眺めてみると、不気味な笑顔を振りまく人食い人種の酋長のような豊島を除けば、美男力士然としたマリリンといい、母国の英雄ウサイン・ボルトのウイニングポーズで決めたカトリーヌといい、なかなか堂に入っている。
その中心で投げキッスをしている私は、何百回も自撮りして研究に研究を重ねた末に作り上げた最高の笑顔を見せているだけあって、まるで本物のアイドルのようだ。
そもそも私は学園ではちょっとした有名人なのだが、これでさらに株が上がること間違いなしだ。
なぜ有名人かと言うと、私は成績こそ平均よりちょい上程度だが、中等部時代には県の弁論大会と市主催のショパン・ピアノコンクールで優勝する一方で、中体連福岡市大会女子二百メートル決勝で第四位、さらにはバスケットボールの福岡市選抜メンバーに入ったこともある万能女子だからだ。