87.四年も経った
四年も経てば、私たちの共同生活も板についてくる。
言わずとも求めるものがわかるし、自然と互いを気遣えるようになってくる。
だけど、私とアンナさんの関係は曖昧なままだった。
同居人? それとも恋人? あるいは未だに友人か。もっと相応しい言葉は探せばあるのかもしれないし、ないのかもしれない。
想い合っている――はっきりとはわからないけれど、たぶん、そのはず。アンナさんが私を慕ってくれているのは確かだし、私もアンナさんの事は好きだ。
手を繋ぐこともあったし、キスも、実は、ちょっとだけ……。一線は越えていない。
それでも、曖昧な関係のままだった。都合の良い関係と言っても良かった。
そこをハッキリさせようと思ったこともなかったし、させる必要もなかった。関係性が変わることによって日常が壊れるのが嫌だったから。なにより、アンナさんが離れてしまったら――そう考えると、ずっとこのままで良いと思っていた。
……今までは。
何年も一緒にいて、様々な面を見て、毎日話して、楽しく暮らしたり時には衝突したりして――いつの間にか、私は、アンナさんと添い遂げたいと思うようになっていた。
好きなのは確かなんだけど、これが恋なのか……よくわからない。好きなのか好きなのか、好きなのかもしれない。エカチェリーナとして生まれてからは、そうした感情を抱いたことがないから、ほとんど忘れてしまった。
ただ、誰にも渡したくないし、私以外の隣に立っていて欲しくないし、この先もずっと一緒にいたい。最近は一日中、そう思っている。
明確な関係の初手としてこれになるのはどうかと思うけど、ひとつ、決心を付けた。
アンナさんも――恐らくだけど、望んでる。
なんともない日常。
こうしたことを言うなら、特別なレストランとか、綺麗な夜景が見える場所とかが最も相応しいのかもしれないけど、私には似合わない。
それに、世界で一番綺麗な場所はこの世には一つしか無い――上空だ。そんなところで伝えるなら、無線で話すことになっちゃう。風情がない。
はあ。私は心の中でため息をついた。
たった二つか三つの単語を喋るだけなのに、頭の中で関係ないことや関係あることをたくさん考えてしまっている。緊張の証だ。
ていうか、本当に良いんだろうか。恋なんてことではなく、ただの醜い独占欲なだけかもしれない。お気に入りのオモチャを取られたくないだけかもしれない。……そんなことないのは、私が一番わかっているんだけど、考えちゃう。
空戦のときよりも、合衆国の議会で演説するときよりも、もっともっと緊張している。
……やってやろう。一歩進まないことには、何も変わらない。それが嫌だから、決心したんだ。
「あの、アンナさん」
「どうかしましたか、リーナ?」
隣でソファーに沈んでいるアンナさんの方に少し身体を寄せて、顔を向けた。
それから話すことにする。
「ちょっと、お話があります」
何から話そう。
ゼロから百まで? それとも、いきなり結論を出すべきなのか。正直、雰囲気で察せられてる気もするから、変に遠回りするのもちょっとおかしいだろう。
レコードプレイヤーが奏でる音楽が、ちょうどサビのところを過ぎた。折の悪い音楽め。空気を読んで欲しい。
そういえば、電球を換えるのも忘れていた。昨日『明日になったら切れそうだから換えておこう』と思っていたのに。少しずつ明るさが減っていっている。
『白聖女』は大事なところでは運がないらしい。初めて知ったよ。
「いいですか? あっ、別に、その、大事な……いや大事ではあるんですけど」
「……はい」
アンナさんはしおらしく頷いた。
私よりも覚悟が決まっていそうだった。どんな言葉を掛けられても、全てを首肯するつもりみたいだ。
庭先で咲いていた花を思い出した。綺麗で、かわいい花だったけれど、いつの間にか萎んでしまった。もっと大事に世話をしていれば。少し後悔をしたのを覚えている。
アンナさんは花ではない。後悔はさせない。
私も徐々に覚悟が決まっていく。だけど、口から出る言葉は煮えきらないものばかり。
「あー、その……」
もごもごと口を動かす。
心臓がばくばくうるさい。落ち着け、大丈夫、ただの言葉だ。
アンナさんが断ることはないだろうし、私の気持ちも確かだ。
落ち着かなくて膝の上で指を動かしていると、アンナさんは、そっと指を絡ませてきた。
少し冷たい。アンナさんの手は、私よりも少し冷たい。体温が低いのだろう。今、気が付いた。
私は彼女のことで知らないことがたくさんある。長い間一緒に居て全てを知っているつもりだったけれど、私はまだまだ知らないみたいだ。
――もっと知りたい。全てのことを、私だけが知っているようにしたい。
「えっと、なんていうか」
手のひらを返して、アンナさんの手を強く握った。
勇気が溢れてくる。
「け、結婚、しませんか?」
最大の障壁を越えてしまえば、後は流れに身を委ねるだけだ。
「私、気付いたんです。アンナさんと一緒にいる日常がいつまでも続けば良いなって……思って」
最初に言うのは間違えてたかもしれない。もっと理由から言っていけばよかった。だって、急に言われても困るよ。
そのことに思い至って、私は早口で――落ち着かないのもあるし、もう、喉がカラカラで仕方ない。ともかく喋る。アンナさんの返事を待つ余裕なんてない。
彼女の顔を直視することもできない。恥ずかしいし、照れくさいし、どんな表情になっているのか知るのが怖い。
「正直、感情はまだわかりません。そりゃ、アンナさんとお出かけしたり一緒に楽しい時間を共有したり……たくさん一緒に居て、色々なことをするのは楽しいし大好きなんですけど」
アンナさんが私の頭に手を置いて、ゆっくりと動かしてくれた。
まだ顔は見られないけれど、私も、肩に身を委ねた。
「……なんですけど、恋心はまだ芽生え始めなんです。……でも、なのに、アンナさんを他の人に渡したくないし、この先もずっと一緒に居たいって思っていて……」
私は、アンナさんが好きだ。
結婚したいと思っている。
だけど、恋しているのかっていう大事なところがわからない。たぶん、芽生え始めたばかりなんだと思う。
「何段階も飛ばしちゃって、一気にそこに行くのはどうかとも思うんですけど……なんていうか」
ちらりとアンナさんの顔を覗いた。
真面目な顔だった。私を見てくれている。
怖くない。私も向き合う。
「ああ、ごめんなさい……。ぐちゃぐちゃで。初めてですこんなの。なんて説明すればいいのかな……はは」
電球が切れかかっていた。薄暗い部屋で、青い瞳が朧げに光っている。
魔法使いのそばで暮らしていると、少しだけわかることもある。彼女たちは興奮すると、昂った感情に影響された魔力が瞳から漏れて、仄かに光を放つ。
瞳をじっと見つめていると、青い宝石の名前がいくつも浮かんできた。サファイア、アパタイト、ターコイズ、アクアマリン、ラピスラズリ……。
その中のどんな宝石よりも深い色をしていて、美しい。綺麗。吸い込まれそうになる。
絶美の青が、私を見ている。撫でる手が心地良い。
求めているのはすぐにわかった。
目を閉じよう。
唇が重なる。
温かかった。
「っ、アンナ、さんっ……」
「全てを言葉にする必要はありませんよ、リーナ。恋は魔法ではないのですから」
彼女は私を、優しく、壊れ物を扱うように抱きしめた。
答えを聞かなくても、もうわかった。
安堵からか力が抜けていって、視界も潤んできた。こういう時は笑顔でいたいのに。
「嬉しいです。その気持ちを持ってくれて、それほどに私を大切に思ってくれて」
アンナさんの身体に顔を押し付けた。
いくら抱きしめても満足できない。
アンナさんも私を更に強く、抱きしめてくれる。心が満たされていく。
「――ずっと、同じ気持ちでした。結婚しましょう、リーナ」
いつもと同じ声。いつもと同じトーン。
内容が違うだけで、言葉というものは与えるものが大きく変わる。
よく言うように――『言葉は魔法』。その通りだった。
大好きな人から、一番欲しい言葉を返してもらえて私の涙は止まらなくなってしまった。
だけど、返事を返さないと。
「あっ……あり、ありがとう……ございますっ!」
アンナさんの身体から少しだけ離れて、涙を止めるように瞳を抑えながら言った。
そんな私を、この世界で一番愛している人は、優しく微笑みながら見守ってくれている。
「感情を容易に操る魔法使いが言う言葉ではないのかもしれませんが……」
再び私を抱き寄せて、耳元で囁くように言った。
そんなことない。魔法使いがみんな悪い人で、本当に感情を操れるなら、この世界はもっと酷いことになっている。
だけど、そうしない人がほとんどだ。みんな、特別な才能を持っているだけで普通の人。
特に、目の前の魔法使いなんて、たくさん苦しんで、たくさん頑張ってきた。好きなだけ言って欲しい。
「恋も、友情も、憎しみも――感情というものは、一つの属性だけで出来ているわけではありません」
頭をゆっくりと撫でてくれる。
アンナさんの声はずっと落ち着いていた。だけど、心臓の音はうるさかった。私には――私だけには、彼女の感情がよくわかっている。
「複雑でありながら、簡単に変わるほどに単純で、矛盾したものが当然のように隣り合って暮らしている」
指が一本ずつ撫でられていく。
手の甲から動いていって、親指、人差し指、中指。
そして、薬指は特に入念に。ゆっくりと、確認するように。
最後の小指は、指の先で先から奥まで触れられた。アンナさんの爪は伸びていなくて、整えられていた。
嬉しさと恥ずかしさが混ざりあって、愛情へと変わっていく。
どくんどくん。体中に血が巡っているのがよくわかっちゃった。
「感情はたくさん混ざりあったものなんです。人生のほんの一部を一言で語ることは出来ても、その全てを一言で説明することはできませんよね?」
私の人生は、戦争だけを切り抜けば『英雄』になる。だけど、その前後には平凡な人生がある。普通の学生時代、好きなものに打ち込んだ航空学校時代、教え子たちを導いている今。
全部違う。一言で表現するなんていうのは無理だ。
「それと同じで、たくさんの積み重なりから生まれてくる表層をすくい取ったものが、一言で表せる感情の言葉なんですよ」
アンナさんは、私の心配を、言葉で全部解決してくれた。
恋とか、愛とか、私にはまだわからない。だけど、アンナさんへの感情はたくさん持っている。
なら、それでいいのかもしれない。
『好き』であるのは確かなんだから。ずっと一緒がいい。
「そう……なんですか? 私、変じゃないですか?」
「変なんかじゃないですよ」
顔を上げて、アンナさんと目を合わせた。
笑っていた。かわいらしい、でも、どこかかっこいい。私の大好きな表情。
「それじゃあ、アンナさんは今どんな気持ちですか?」
「愛です」
「えへ……」
「ですが、更に言うなら――」
「わわっ」
突然、うなじと膝裏に腕を通されて抱きかかえられた。
お姫様抱っこだ。
「――私のモノにしたい。凄く。心の底から、そう思っています。『逃がしませんよ』。寝室に向かいましょうか」
視界が一瞬だけ青く染まる――アンナさんの魔法だ。
心臓が熱くなる。
どくんどくんと鼓動が、更にうるさくなる。
アンナさんから目が離せなくなった。
私の意志ではない。
いや、私の意志もあるせいで、魔法の効果が何十倍にも増幅している。
あつい。
あつい。
はやく、欲しい――
次回最終回
今回の続きはべったーに上げます @reviewdelily