83.終戦
「アンナさんっ!」
コックピットから飛び降りて、アンナさんに抱きついた。
いい匂いがした。ミラーナ中佐のような落ち着く匂いとはちょっと違うけれど、いい匂い。
目の前の人が本当に存在しているのを確かめるように、私は強く抱きしめた。
アンナさんだ――ずっと会いたかったあの人を、私は救い出した。
「リーナ……」
彼女は私の頭を撫でてくれた。心地良い。
「……少し、苦しいです」
「あっごめんなさい!!」
ばっ、と急いで身体を離した。
それと一緒に理性も取り戻して、これからなにをすれば良いのか、頭が計画を立て始める。
まずは元帥のところに行こう。引き渡すわけじゃない。一番安全な場所がそこだろうからね。
でもどうしようか。
今の居場所もわからない。勝手に無線を切ったせいで、小隊員たちと連絡することも出来ないし……。
と思ったけど、解決方法は単純だ。飛行機に乗って元の基地に戻っちゃえば良い。元帥がいればそれでいいし、もし不在でもそう遠くない場所にいることだろう。
「アンナさん、飛ぶ元気ってまだありますか?」
「第二回戦ですか? 元気ですね、リーナ」
アンナさんは呆れながら言った。
少し切れ長の目が細められて、私を見つめてくる。
「違いますよっ! 元帥のところに向かうだけです……空挺軍の皆さんに頼んでも、地上だと相当距離がありますからね」
「なるほど。それなら、リーナの新型機に乗ってみたいです。良いですか?」
「もちろんです! 気をつけてくださいね、Mik-3と比べたらLav-7の完成度は凄いですから!」
そうして、私がMik-3、アンナさんがLav-7に乗って基地へと向かうことになった。
道中は特にトラブルは無かった。進軍する党の軍隊を見かけたけれど、私たちの機体には評議会共和国のラウンデルがしっかりと描かれている。特に問題はない。
唯一心配だったのが、ちょっと燃料が心許なかったことだけれど、ギリギリ保ってくれた。
滑走路に着陸して、格納庫に機体を駐機した。
帰って来た私たちを見て一番驚いたのは、当然、特殊任務航空小隊の戦友たちだ。
「お、帰ってきたかリーナ! ……ってチェレンコワ大尉!?」
「お久しぶりです、チェレンコワ大尉。我が国に戻ってきてくれて良かった」
私の機体から降りたアンナさんを見て、リョーヴァは素っ頓狂な声を上げた。
ミールは想像できていたのか、丁寧にアンナさんに声を掛けていた。
「レフ。ミロスラフ。ご心配をおかけしました」
騒いでいる2人と、そんな彼らに向かってぺこりと頭を下げるアンナさんの近くに中佐たちも寄ってきた。
2人と違って、中佐たちはアンナさんとは初対面だ。紹介したいところではあるけれど、今は元帥と話すことを優先しないといけない。
「ほー、アンタが少佐のよく言ってた『アンナさん』かぁ。……少佐の好みがわかってきたな」
「初めまして、チェレンコワさん。私たちは第33航空連隊でエカチェリーナちゃん少佐と同僚だったのよ。自己紹介をしたいところだけれど、今はもっと大事な事があるわね。また後で会いましょう」
ミラーナ中佐のその言葉はアンナさんにとって渡りに船だったようで、感謝を述べて私の手を取った。
「お心遣い感謝いたします、中佐。リーナ、向かいましょうか」
「そうですね。皆さん、アンナさんはまた後で紹介しますね! 終戦ですから騒いでもいいですけど、程々にお願いします!」
みんなに手を振って、私たちは基地の司令部の建物へと向かった。
◇
戦争が終わったというのに、元帥は忙しいみたいだった。
だけど、私たちの用事を優先してくれる。ありがたいね。
「久しぶりだな、チェレンコワ大尉」
「トゥハチェフスキー男爵。お元気でしたか?」
どうやら顔見知りだったらしい。
どことなくピリつく雰囲気を出しながら、2人は挨拶を交わした。
「はは、やめてくれよ。今では俺もお前もどっちも同志。革命万歳だな、侯爵令嬢様?」
声は穏やかで弾んでいたけれど、顔は全く笑っていなかった。
アンナさんの元帥への呼び方は、虎の尾を踏むようなものだったらしい。
私が間に入らないと……!
「ちょ、ちょっと。喧嘩はやめてください。怒りますよ?」
物理的に2人の間に立って、喧嘩を仲裁する。
まあ、物理的な戦いになったら絶対に勝てないだろうけど……そういうことはしないだろうからね。
「なあに、貴族なり……元貴族なりの挨拶みたいなもんさ」
「……ええ、そうなんですよ。だから私は貴族が嫌いなんです」
貴族の間では、こんな嫌味のぶつけ合いが挨拶だったらしい。みんな心が強いのか、短気なだけなのかなんとも言えないね。
眉間に皺を寄せて、少し真面目な表情を作りながら2人に宣言した。
「……次やったら本気で怒りますからね。それより元帥、アンナさんの処遇ですが」
「選択肢は二つある」
「聞きます」
話がすぐに切り替えられるのは軍隊の良いところだ。みんなメリハリがしっかりしている。
元帥は指を二本立てて、提案を語っていった。
「一つ、外国に移住する。夜見なんかはちょうど良いだろう。あそこの国民は外国人に無駄な詮索をしない。その分、親密な付き合いも無いがな。だが、隠れ蓑には最適だ」
悪くない。だけど、良くもない。
第一にお金をどうするのかという問題がある。それが無くなっても、素性の知れない外国人なんて――それも本国の政府から良い顔をされていない外国人なんて腫れ物扱いされること間違い無しだ。今後を孤独に生きていくことになってしまう。
そんなの、死んでないだけで生きていない。
「もう片方は、公式には戦死したことにするものだ。今後、戸籍を新たにして新生活だな。ただ、顔の知られている場所には近付けない」
次の提案は評議会共和国に留まっていられるものだった。だけど、知り合いに会うことは不可能になり、アンナさんなら、首都周辺に近付くことはできなくなるだろう。
ほぼ流刑だ。シベリア送りって言っても良い。
……どっちも、悪くない。というか、現実的な方法だ。アンナさんは生き延びて(どうなるかは不明とはいえ)今後も人生を楽しめる。ただ、幾ばくかの名誉を無くすだけだ。
祖国の裏切り者に対する処遇としては破格のものだろう。
「もっと良いのは?」
「無いな」
「……アンナさんは?」
「リーナの言う通りに。命の恩人の言うことには逆らいませんよ」
はあ、と大きくため息を吐く。
私が聞きたいのはそんな聞き分けの良いことでもないし、こんな、『現実的』な提案でもない。
わかってないな――何のために私がここまでネームバリューを高めたのか、忘れてしまっているのかもしれない。
人差し指、中指を立てて薬指を立てた。
そして、顔の横に手を持ってくる。
「じゃあ、第三の選択です」
一歩引いて、元帥とアンナさんを視界の中に入れた。
双方と視線を合わせてから、私の提案を言う。
「全員説得して、忘れて貰いましょう。……元帥、言ってましたよね? 『一生に一度くらいなら、法律を覆しても許されるだろう』って」
「リーナ……それは……」
「くく……面白いやつだな、相変わらず」
アンナさんは目を真ん丸にして驚いて、元帥は漏れる笑いを必死に抑えていた。
好きだろうな、こういうの。元帥の性格もなんとなくわかってきたよ。
「ああ。了解だ。俺からお偉いさんたちに伝えておくよ。『白聖女』からの一生に一度のお願いだ、ってな」
「……信じてもらえるんですか? 私は、その……『魔女』です」
魔女と呼ばれた彼女は控えめに、少し怯えるような声で元帥に尋ねた。
珍しい。でも、アンナさんも人だ。ようやく訪れる平和を前にして、気持ちも弛緩してきたのかもしれない。
「……ははは! 『魔女』なんてお伽話より、今を生きる『白聖女』の言葉のほうが信じられるに決まっているだろう? 侯爵令嬢様は世間知らずだな!」
そんな彼女の心配を、元帥は笑い飛ばした。
「なっ……」
「それに、戦場でのことなんて大げさに語られるのが世の常だ。寝返ったことさえ公にならなければ、その二つ名に同情されても非難されることはないだろうよ」
元帥は居住まいを正して、私とアンナさんと視線を交わした。
頼れる瞳だった。任せておけば、悪いようにはならないだろう。
「プロパガンダと人心掌握は評議会共和国の十八番だ。任せとけ。ジュガシヴィリとアレクサンドラにも手伝わせてやるか……!」
◇
やる気を出した元帥から、邪魔だから出ていけと言外に匂わされたので、私たちは近くの部屋で雑談することにした。
戦友たちへの紹介はまだいいだろう。なんせ――これからずっと平和なんだから!
「ようやく、一区切りですね」
「そうですね。リーナ、その……」
コーヒーを一口含んだ。アンナさんにも淹れたのに、彼女は一口も飲んでいない。
インスタントコーヒーは偉大な発明だ。合衆国の支援物資で腐る程来ているのに、たまに品切れしている。戦争が終わったので、これからは輸入しないとならない。ここの会社は大儲けだね。
「……その」
アンナさんは何やら口ごもっている。
この場面で何を言いたいのかを察せないほど鈍感じゃない。
「はい、なんですか」
「改めて、ありがとうございます」
そう言いながら、机に額が付きそうになるほど深々と頭を下げたアンナさん。
そのまま、アンナさんは小さく声を出した。
「それから……ごめんなさい」
「気にしないでください。アンナさんは悪いことは……してなくはないですけど。悲劇のヒロインにでもなってしまったようなものですよ」
何が悪かったと言えば、運が悪かった。
例の将軍に目を付けられたこと。アンナさんが真面目だったこと。大衆ゲルマンの偉い人と親しかったこと。
これがどれか一つでも違えば、恐らく、ずっと私たちと共に戦ってくれたのだろう。個々の要素は問題がなくても、全てが揃ったせいで最悪な方向への道が舗装されてしまった。
アンナさんは顔を上げて、眩しいものを見つめるように私を見てきた。
「私が……そうですか。なら、リーナは喜劇の主人公ですね」
「そうですかね?」
「はい。仲間に囲まれて、大事なものを失わずにいられて、ずっと笑顔を忘れていません」
結果としてそうなっただけなんだけどね――アンナさんの言葉を簡単に否定することはできるけど、今言う言葉でもない。
それに、私には大好きな言葉がある。
終わり良ければ全て良し。
「『聖女』の物語はバッドエンドですからね。その名前を継いだ『白聖女』の物語はハッピーエンドじゃないと、気が滅入っちゃいますよ」
後味の悪い物語は嫌いだ。
長台詞を喋ったので喉が渇いて、コーヒーを飲んでいると、ふと、疑問が頭をよぎった。
アンナさんが最初から全てを思い描いていたとは思えない。いや、不可能ではないだろうけれど、一人でやるには無理がある。
「そういえば、アンナさんの計画って一人じゃ難しかったですよね。協力者とかいたんですか?」
「はい。多大な犠牲を出さずに戦争の終結を望んでいる方でした」
「へえ……」
「誰なんですか」。そう聞こうとした時、場違いな甘い香りが漂った。
初めての香りだった。五感すべてを魅了する――甘美な、魔性の香り。
魔法を掛けられた時の感覚に似ている。
「……魔法、使いました?」
「いいえ? どうかしましたか?」
だけど、この違和感の原因は、目の前で可愛らしく首を傾げる魔法使いではない。
アンナさんの二つ名を思い出した――『魔女』。御伽噺の存在だ。
黒竜バシレイアを生み出し、教主クリスタを磔刑に処すことで、明確な人類の敵、裏切り者となった最強の魔法使い。
その姿は老婆とも絶世の美女とも言われているけれど、言い伝えにはたった一つ、共通しているものがある。
赤い髪と、甘い香り。
まさか――
がちゃり。扉が開く。
びっくりして振り向くと、元帥だった。
……なんだよぉ。
「ここに居たか! 早速だが良い知らせだ!」
「おや……。積もる話はまた今度にしましょうか。これからたっぷり時間はありますからね」
……考えすぎか。
アンナさんの言ったことに首肯するように、私も続いて元帥に言った。
「そうですね。元帥、どうしたんですか?」
「大統領と三帝と話を付けてきたぞ!」
「えっ、早くないですか!?」
持ってきた知らせは驚くべきものだった。
本当に良い知らせだ。ていうか、まだ一時間も経ってないんだけど。電信を使うにしても早すぎる。
「実はな……戦後の処理のために既に向かっている道中だったんだ。そして、偶然にもすぐに連絡を取ることのできる場所にいた。アレクサンドラとジュガシヴィリが上手くやってくれたぞ。流石だな『白聖女』! 幸運を引き寄せるだけある!」
最高に機嫌が良さそうな元帥に背中を叩かれて、私は机に突っ込んだ。
◇
戦争は終わって、平和が帰って来る。
一週間くらいお祭り騒ぎは続いたけれど、落ち着いてみれば、同じ日々の繰り返しだ。
そして、ちょっとした新生活も始まる。
晴天の空の下、首都――オクチャブリスカヤの郊外のちょっと大きな一軒家の前に、私たちは来ていた。
飛行場が近い。少し古い家だけど、庭もあって周りは静かで悪くない。
新生活を営むにはぴったりなところだった。
「ここが私たちの新しい家ですよ、アンナさん!」
隣の彼女に微笑みかけた。
アンナさんは空軍を除隊した。そして、私が身許を引き受けることになった。固辞されそうになったけど、なんだか危うい感じもしたから強引に意見を押し通した。
私なら、ということで周りの人も認めてくれた。エースの意見は通りやすい。好き勝手できる空軍万歳!
大国間の思惑が交差する泥沼のような政治劇というのもあったらしいけど――私はほとんど知らない。主戦場じゃないからね。元帥とか大統領から伝え聞いただけだ。
ひとまず、戦争の話はここで一旦おしまい。
さあ、平和を楽しもう!
もうちょっとだけ続くんじゃ