82.『霜夜の魔女』
フォルクスシュタートの空は晴天に変わっていた。
雲はみんな西へと流れて、清々しい陽光が私たちを照らしている。
『ルールは?』
前にアンナさん、その後ろを私が飛んでいた。
計器は細かく確認しておく。久しぶりの飛行だろうから、いつトラブルが起こるかわからない。
そのついでに地上を見ると、いくつかの部隊が私たちを見上げていた。誰にも伝えていないから、誰からもどのような指示も来ていないのだろう。ちょっと戸惑っているようだった。
無線の周波数はアンナさんと私にだけ通じるところへと合わせている。大衆ゲルマンも評議会共和国も使っていないところだ。横槍は入らない。
『お好きにどうぞ。いつでも仕掛けてきてください』
『――舐めないでくださいッ!』
戦後の世界が平和になるのならば、私が経験する空戦はこれで最後になる。
そんな戦いは、私の攻撃から始まった。
『おや……鋭いですね』
斜め前に居たアンナさんの機体を狙って、躊躇無しに攻撃を行った。
まあ、当然ながら避けられる。たまには一発で決めてみたかった。
『久しぶりのこの機体ですが、やはり重い』
『そうですね……!』
下から上に性能を変えるのは慣れやすいけれど、その逆は違和感がずっと付き纏う。
アンナさんの軌道を追うように私も機体を動かすけれど、操縦桿を少し引きすぎると機体が震え始めて錐揉み回転へと陥りそうな雰囲気を出す。
ちょっと気を抜いたらすぐに墜落してしまいそうだった。
これなら、追うよりも追われながら反撃を狙ったほうがやりやすいかもしれない。
誘うようにわざとアンナさんを追い越すも、彼女も同じ狙いのようで、自然と並び合う形になってしまった。これじゃまるで編隊飛行だ。
『今一度聞きたいんですが……どうして祖国を裏切ったんですか?』
憎み合っている訳ではない。ただ、どちらも己の意志を押し通そうとしているから戦っているだけ。
話しかけちゃいけないっていうこともない。……今すぐに地上に降りて色々と話したい気分なだけっていうのもあるけど。
アンナさんの本心が知りたかった。
なんとなくはわかっているけれど。評議会共和国のためを思ってしたということ、それだけは知っている。
『あなたのためですよ』
『……私?』
『はい』
――なんて思って聞いてみたのに、返ってきたのは想定外の言葉だった。
『私がどれだけあなたのことを愛しているのか、わかっていないようですね』
『わかっていますよ。大事にされているのくらい』
『いいえ、わかっていません』
私の言葉を否定すると、アンナさんは滔々と語り始めた。
『あなたを見守っているだけで十分だったのです』
始まるのは衝撃の告白だ。……薄々感じてはいたけどさ。面と向かって話されるのは、それはそれで恥ずかしいものだよ。
私が感じていた感情の答え合わせみたいなものだ。
『相談者として、あるいは、頼れる大人として、あなたの近くにいるだけで満足でした』
航空学校を卒業してからも、アンナさんとたまに会っていた。
一緒に映画を見に行ったり、買い物に行ったり、下らない相談に乗ってもらったり――
まあ、言っちゃえばデートをしていた。
その時を思い出すと温かい気持ちになれる。彼女はあまり笑わないけれど、時折見せる笑顔はギャップも相まって特にかわいい。普段がクールだから尚更ね。
でも、アンナさんは年上で、上官で、私のことを気にかけてくれているのはわかったけれど、好意を抱かれていることまでは気付けなかった。
私にとっては、友人で、憧れの人だった。
強くて、頼もしくて、かっこよくて――大好きな人。
『ですが……それより先を望んでしまった。添い遂げたいと願ってしまったのです』
……こんなこと話されながら戦えるわけがない!
なんと言っていいのかわからなくて、私は押し黙ってしまった。耳まで顔が熱くなっている気もする。
『戦争は、私の想いを確固たるものへと変革するのに十分な衝撃でした』
私だってそうだ。
だからこそ、アンナさんを無下に扱う奴のことを聞いて、何をしても良いと思った。
ふう、と息を吸う音が聞こえた。
閑話休題――私は戦いにならないのに、アンナさんは再開するつもりみたいだ。
彼女の機体は速度を下げて私の後ろに着いた。
位置は逆になった。今度は私がリードする。
話しながら飛んでいるうちに、この機体の感覚を思い出してきていた。
ギリギリを思い出す。
右へ動いて、一気に機体を回転させて、左に動く。
単純だけど効果的な機動だ。わかっていても着いていくのは難しい。先読みをして間違えれば大きな隙を晒してしまうから、後出しするのが基本だ。
『最初は、愛国心からでした。そうしなければ祖国を救うことは出来ない――トゥハチェフスキー元帥の機転がなければ、おそらく、敗北は現実になっていたでしょう』
『例の将軍みたいなのもいましたしね』
『ええ。……祖国は甘いのですよ。良いところではありますが』
評議会共和国はソビエト連邦ではない。
大粛清の嵐は吹き荒れず、政敵は排除するよりも支持者へと変える方が効率的だと看做されている。
それは間違いなく良い点なんだけれど、古い考えを持つ人がずっと居座るという問題も生んでいた。
……そう、過去形だ。
戦争で全て吹き飛んだ。今後はこれも良い方へと変わっていくと思う。
『次第に、私は、戦争が続くことであなたが居なくなることが怖くなっていきました』
アンナさんの攻撃を紙一重で避け続ける。
訓練を施してくれた教官だからなのだろうか、私の動きは簡単に読まれてしまっていた。
『万が一にも、あなたが……』
やっぱり強い。私並みか、それ以上か。
リヒトホーフェン卿にも並べるほどかもしれない。
『……考えるだけでも恐ろしい』
声色とは裏腹に、攻撃は鋭くて容赦がなかった。
私が返事する余裕が無くなるくらいに。
けど、繰り返される負荷に晒されるのは、アンナさんでも消耗するようだ。攻撃が緩んできたので、私は精一杯声を出した。
『その割には、ずいぶんとやる気のある戦いしてませんか!?』
『祖国の勝利によって迷いは吹っ切れましたから。すっきりした気分ですよ』
久しぶりに聞く、アンナさんの声だった。
機嫌が良い時の声だ。爽やかで、清々しい。
『評議会共和国は勝利して、私も元気なのに、なんで戦おうと思ったんですか?』
『好奇心ですよ。叔父様、ハンナ嬢、それにエリカを堕としたエースと戦う機会なんて滅多にありませんからね』
機動を繰り返しても、アンナさんは追ってくる。これじゃ駄目だ。
機体を反転させて、地上へと急降下する。
『それだけですか? 私をどうこうしたいんじゃないんですか?』
『愛する人に強要するつもりはありませんでした』
私にはエリカやリヒトホーフェン卿のコブラのように、必殺の技というものは存在しない。
基本を繰り返して、繰り返して、繰り返して、単純な技術の積み重ねで勝利を掴み取る。それが私のやり方だ。
博打は基本的に好まない。一度見せれば、対策される可能性のほうが高いだろうし。
けど、今回は別だ。これで最後。
降下しながら、ゆっくりとエンジンの出力を下げる。アンナさんに気付かれないように。
次第に相対的な速度はアンナさんの方が速くなっていく。ほぼ差はないけれど、上昇した後のエネルギーになると大きな差が生まれる。
『私が負けたらどうするつもりだったんですか!』
操縦桿を一気に引いた。
空戦の過酷な負荷もこれで最後だと思えば、少し気持ちが良いものくらいに感じられる。
アンナさんも着いてくる。私の後ろを飛び続けるが、速度が、エネルギーがたくさんあるのはあっち。
『なにを馬鹿なことを。あなたは負けないでしょう?』
今だ。
絶好の機会が眼前に現れる。
スピードが乗っていたアンナさんは、失速寸前になった私を追い越した。
『――当然です!』
交差する一瞬。
絶対に見逃さない。
機関砲は白い機体のエンジンを突き破り、その働きを停止させる。
『……強くなりましたね。見事です、リーナ』
黒煙が昇り、炎が吹き出た。
『やった!』
燃える機体は、次第に操作系統も壊れていく。
アンナさんはゆっくりと地上へと墜落していく。
『……アンナさん?』
『……残念ですね』
これ以上は危ない。
早くコックピットから出ないといけないのに、アンナさんはなにもしようとしない――!
『早く脱出してください!』
『経年劣化でしょうか。風防が開きません』
『そんなっ!?』
目を凝らして隣の機体のコックピットを覗くと、力いっぱいに風防を押しているのが見えた。
びくともしていない。本当は簡単に開けられるはずなのに。
『こんな時に言うのは卑怯ですが――愛していますよ、エカチェリーナ・ヴォルシノワ。幸せな未来を祈っています』
精一杯もがいてみせたアンナさんは、運命を受け入れたかのように抵抗することを諦めた。
ここまで生き延びてきたのに――最期がこんなことになるなんて、認められない。
『勝手に死なないでくださいっ!』
『どうしろと? 私だってまだまだ生きたいですが……これはどうしようもありません』
『あります……無謀ですが!』
アンナさんの機体から一旦離れる。
フラップを全開にして、揚力を稼ぐ。速度は必要ない。要るのは細かな操作に応えてくれる聞き分けの良い機体だ。
『ふう――大丈夫、できる! 私は『白聖女』ッ! 幸運を引き寄せるエース!』
操縦桿を両手で握って、大きく声を出した。
気合だ、根性だ、最後に来るのはどうしても精神論!
『私に賭ければいつでも勝てるし、私に任せれば空戦は『常勝無敗』!』
風防を撃ち抜いて、壊す。
20mmの機関砲の破壊力は凄い。金属を弾け飛ばし、厚い鉄板を貫く。
掠らせれば、おそらく、きっと、たぶん――絶対は無い。運が良ければ、上手くいく。
『聖女カタリナ、あんたの力を幸運を、私に預けろッ! ――さあ、一か八か!』
こんなの、技術でどうにかなるものではない。
世界の気分次第だ。弾が1ミリ逸れても、気温や気候で空気の機嫌がほんの少し悪いだけでも失敗する。
――でも、私ならできる!
私はこの戦争における最強のエース。幸運も実力も、全部兼ね備えている!
狙いを定めた。
手で持つ兵器は不得手だけど、戦闘機なら的を外すことはない。
『エカチェリーナ……!? 何を考えているのですか!』
『なるべく姿勢を低くして、動かないでくださいね!』
操縦桿のボタンを押し込んだ。
機首が光り、弾が放たれる。
真っすぐに飛んだそれは脱出を阻む障壁を穿ち、強引な衝撃に見舞われた風防は強い風圧も相まって吹き飛んだ。
『どうですか、これが『白聖女』ですよ!』
『本当に……馬鹿な人。でも、ありがとうございます。地上で会いましょう』
『私もすぐに向かいます!』
アンナさんは呆れたように言うと、すぐに戦闘機から飛び降りた。
青空に、白いパラシュートが現れる。
私も急いで滑走路へと戻った。
降りた場所では、アンナさんが既に待っていた。