60.ノチナヤ・ヴェージマ
《チェレンコワ大尉!? よかった、南方戦線まで逃げれたってのは本当だったんすね!》
《大尉、よくご無事で。なんだ、南方戦線では新型機の開発に成功していたんですね。連絡不足ですか》
2人は知らない。伝えていなかった。彼らは久しぶりの再会に喜んでいるだけで、全く警戒していない。
――魔法が一番効果を発揮する瞬間だ!
無線に向かって、私は叫んだ。
『……違う! 2人とも、無線を――』
私の無線に覆いかぶせるように、低くて落ち着いた、大きな声がコックピットの中に響いた。
私たちを叱るときのアンナさんの声だった。久しぶりに聞く声だ。
《ええ。お久しぶりですね。さて――『引いて下さい』》
きいん、と耳鳴りのような感覚に襲われる。歯を食いしばってその感覚に耐えた。
一瞬だけ、世界に青いフィルターが掛けられたように色付いて、すぐに消えた。
《なっ、なんだこれ!? 身体が勝手に……!》
《チェレンコワ大尉、何のつもりですかっ!?》
魔法のことを知らない2人には抵抗は出来なかった。
それに加えて、警戒もしていない。アンナさんの魔法は十割の効力で彼らを襲った。
《そうですね……『遮断』》
また再び、同じような違和感が生じた。けど、それは一瞬だけ。
私には魔法は効かない。
魔法をかけられた2人は遠くへと飛び去っていく。私も撤退しようにも、目の前から迫ってきているアンナさんを相手に逃げるのは不可能だろう。
相変わらず、新型はジェット機みたいだ。全翼機で奇妙な形状をしていた。
《これで2人きりですね、エカチェリーナ。やはり効きませんか》
《アンナさん……。どうしてここに!》
《私一人で撤退支援です。隊の他の方々は今も西方の作戦に従事していますから》
ここまで来て戸惑うことも迷うことも躊躇する必要もない。
正面から来るアンナさんに向かって機関砲を発射した。
新型機は機敏に動いて私の攻撃を回避した。……見た目の割によく動く!
《ここまで来ても、まだ抵抗するんですか!? はっきり言います、大衆ゲルマンに勝ちの目はありません!》
《保険ですよ》
説得を行いながらも、空戦は止まらない。アンナさんの機体が私の後ろを取ろうとしてきたから、フラップを全開にして揚力を高める。
そのまま旋回を行えば、半径は最小限に効率的に旋回を行える。速度は奪われるけど、どうせ相手はジェット機だ。大して問題ない。
尾翼も無い新型機が私の真上を通過していった。そして、太陽の方へと昇っていく。逆光でよく見えない。
《もし、大衆ゲルマンが大量に人を殺戮できる兵器の開発に成功してしまったら?》
《そんなことっ……》
上昇しながら、アンナさんはそう話す。
無い、とは言い切れなかった。
私は知っている。
全てを恐怖に陥れる、最も恐れるべき兵器を。もし彼らが最初に開発してしまったら――この世界は、そこで終わりだ。
可能性は低い。資源も実験設備も足りないだろう。だけど、絶対は無い。
《可能性は低いですが、未来は予測不可能です。万全を期さないと》
太陽を背後に、アンナさんは私に向かって緩降下を開始した。
明るくて機影が見えない。一瞬だけ一際明るく光ったような気がしたので、一か八か自分の勘を信じて操縦桿を大きく引いた。
……合っていた。間違っていたら、回避後の軌道の先に大口径の機関砲弾が降り注いでいた。ちょうど今、地上の不幸な一軒家を粉々にしている砲弾が。
『大尉! 聞こえるか大尉! 僚機から連絡を貰った! 今応援を向かわせている、耐えてくれ!』
旋回して、アンナさんの背中に機首を向けてエンジンのスロットルを大きく押し込んだ時、無線から元帥の声が聞こえた。
リョーヴァとミールは無事だったようだ。よかった。そして、元帥に報告をしてくれたらしい。待っていれば親衛装甲師団がすぐにでもこの地域へとやってくるだろう。
だけど、相手は魔法使いだ。果たして地上部隊が役に立つかどうか……無駄な被害を広げるだけかもしれない。
《私の機体を見て下さい。あのレーダーの性能も知っているでしょう?》
答える言葉は決まった。
どうしてこうも決闘めいたことになってしまうのか――私がやりたい訳じゃないのに!
『……不要です! 相手は魔法使い、数は意味を成しません! 撤退支援のためにこちらへ来たようですので、首都さえ解放すれば勝ちになります! 全力を投入してください!』
『クソ……大尉、死ぬなよ』
『堕ちるのも死ぬのも、二度も経験したくないですよ!』
荒々しく叫んで、操縦桿を両手で握る。アンナさんの位置はずっと把握している。どちらも後ろを取り合おうとしていた。
あの全翼機はよく動く。
まさに犬の喧嘩だ。油断は出来ない。
アンナさんの実力はよく理解しているつもりだ。開戦初期からずっと前線に居て、トップエースだった人。私と同等か、それ以上に強い。
私の返事を待たずに、アンナさんは語り続けた。
《大衆ゲルマンは、戦争のための国家です。ラジオや映写機は兵士のために使われて、バスや自家用車を動かすための燃料は、戦車や装甲車のために費やされます》
内戦で生まれたあの国は、平時というものを知らない。常に戦時中で、最初から総力戦体制なのだ。
一瞬の平和は次の戦争のための準備期間であり、戦争こそが平常というおかしい国家。
《狂った国家は、何をするか予測不可能です。当初と目的は変わりましたが、手段は変わりません。あくまで忠実に、機会を伺わなければ》
スロットルを絞って、失速寸前の状態にまで速度を落とした。
アンナさんはそれに喰らいつこうとするも、低速の機動性では全翼機の強さも発揮できない。
《私は『霜夜の魔女』アンナ・イヴァノヴナ・チェレンコワ。評議会共和国の唯一の魔法使い》
獲った、背後だ。
照準を合わせて、ボタンを押した――
《最後の授業です、リーナ。魔法使いが戦場で恐れられる真の意味を、教えましょう――『加速』》
私が放った弾丸は、アンナさんが発動した魔法によって空を切ることになった。
『加速』と呟いた瞬間に、目の前の新型機の速度は物理法則を超越して、機体が耐え得る最大速度に到達していた。
《信じられない……!》
《これが魔法です》
その速度のままに、今度は大きく旋回して私と相対する状況に変わった。
全翼機はほぼ全てが翼だ。垂直尾翼のように、姿勢を維持するものが着いていない。だからこそ、無理な旋回をしたらあっという間に速度が奪われて、失速をして墜落する可能性すらある。
なのに、アンナさんの魔法の効果なのか、速度は全く失われていない。目で追うのがやっとのスピードで新型機は眼前に迫ってくる。
《アンナさん……あなたは祖国に失望したのですか?》
《いいえ。今も昔も、そして未来も祖国と党を敬愛しています》
――だけど、速いだけだ。
動体視力には自信があるからね。
バレルロールを行いながら、アンナさんが私を狙いにくくなるように機体をランダムに機動させる。そのうちに全翼機は私に迫ってきて、しかし攻撃の機会を得ることは出来ずに背後へと通過していく。
旋回した瞬間を見て、私もアンナさんが旋回する方向へと機首を向けた。未来位置に照準を置いて、機関砲を撃った。
《なら、祖国を信じて戦い抜けばよかったのに!》
《トゥハチェフスキー元帥がここまでの傑物だとは予想ができませんでした》
これくらいは予測されてるだろうな、と思っていたけど、見惚れるほどに美しい機動を行って避けるとは思わなかった。
アンナさんの機体は素早く鋭敏に、しかし優雅な曲線を描いて私の攻撃を回避した。
そういえば、魔女は剣術にも精通していたと聞いたことがある。きっと彼女が振るった剣筋は、同じように優美で風雅に美しかったのだろう。
そんな妄想をしてしまうほどに、アンナさんの飛行機の動きは美しかった。
《リーナ、一度でも考えたことはありませんか? きっと、我が国は滅びるのだ。そう考えたことは》
《……それは……》
《そのことをどう判断するのか、それが英雄と裏切り者を分ける境目だったのでしょうね》
我が国が負けるだなんて、首都の攻撃の日には本当にそう思っていた。
ラケータが降り注ぎ、総司令部と党本部が攻撃によって壊滅し、私たちの基地は包囲されていた。
もう勝てないと思ったけど、最後に空挺軍という希望が訪れて、私たちはそれに縋った。無様に逃げながら。
アンナさんは簡潔に、そのことを要約しながら言ってくる。
《祖国は滅びるかもしれない、だが諦めない》
だとしたら、アンナさんは。
《……祖国は滅びるかもしれない、だが屈従すれば存続させられる》
《ええ、そういうことです》
今となっては道化のような選択になってしまったけど、あの時点では祖国を滅ぼさないためには唯一の選択だった。他の方法では希望なんて見出だせなかった。
首都が落ちれば組織立った抵抗なんて出来ないで、私たちはそのまま瓦解する――はずだった。
《ところで、リーナ》
凄まじい速度を保ったまま、私に機体をぶつけるような勢いで彼女は機関砲を撃ちながら私に向かってくる。
反撃の隙なんかないくらいで、回避に専念するしかなかった。
《なん、ですかっ! あんまり余裕はないんですけど》
《大尉に昇進したようで。おめでとうございます。あっという間に私と同じ階級ですか》
アンナさんは嬉しそうにそう言った。
いや、ありがたいけど、直接そう言ってもらえて私も嬉しいけどさ!
《今言うことですか!?》
《いえ……少し感慨深いだけですよ。恐らく、もう時間ですから》
《どういう――》
ジジ、とノイズが聞こえて無線が入ってきた。
味方からの無線だ。
『大尉、作戦完了だ』
《六割の撤退に成功……この短時間で解放とは。党の軍隊は見事に復活しましたか》
元帥の声によって、目の前のアンナさんとその機体だけに囚われていた私の意識が、外の世界の観察が出来るくらいに余裕が生まれた。
いつの間にか太陽の位置は地平線に近付いていて、コックピットに計器と共に据え付けられた時計を見てみると結構な時間が経っていた。
《リーナ、良い判断をしましたね。総司令部を攻撃することで、攻撃部隊を支援に向かわせて時間を稼ぐことが目的でした》
……そういうつもりだったんだ。私にその気はなかったんだけど。
リョーヴァたちと一緒に撤退していたら、アンナさんは私たちを追い越して総司令部に攻撃を加えにいったのかもしれない。
《ですが、積極的な攻勢を行わせることで短時間のうちに解放することを成功させた――ええ、ほぼ博打ですが、勝ったからよしとしましょう》
《褒めてるんですか?》
《はい》
ちょっと考えが足りない、という風にお叱りを受けている気がしなくもないけど、褒められているらしい。
一応素直に喜んでおこう。
アンナさんがどのように動くのか警戒を続けながら、私は飛び続けていた。
攻撃をしようとはしなくなったけど、今もずっと並行して飛んでいる。
なんて声を掛けようか迷っていると、アンナさんから話しかけてきた。
《ふむ……この辺りならば不時着は出来ますよね、リーナ?》
《はい?》
《教えたことを正しく覚えていれば可能です。『凍りつきなさい』》
《えっ……えっ!?》
急にエンジンから嫌な音が聞こえてきた。
急いで計器類でエンジンの温度や回転数を確認すると、その全てが異常を示していた――エンジンが止まった!?
始動するスイッチを何度押しても、エンジンが復活することはない。
アンナさんの魔法だった。こんなの反則でしょ!?
《何これ……こんなのされたら勝てるわけないじゃんっ!!》
《故にこそ、魔法使いは戦場において敵無し――『霜夜の魔女』の二つ名はそうして生まれたのですよ》
幸いにも周辺には数えられるくらいの民家があるだけで、残りはなにもない平原だ。
不時着をするには容易な地形だった――というか、航空学校の訓練でここに来た覚えがある。
《さようなら、愛しい人。次に会うときは、大衆ゲルマンの首都で》
フラップと降着装置を展開して操縦桿を操ることに全神経を注いでいると、アンナさんはあっという間に遥か彼方に飛び去ってしまった。
次に会う時は……。できれば、もう二度とあの人とは戦いたくないけど……。
『大尉、状況はどうだ』
『また引き分けです。……どうやら私は、誰とも決着を付けられない運命のようですよ』
『くく、敗北よりはマシだろう。早く帰って来い、首都に向かうぞ』
『えっと……エンジンだけ動かなくなったので不時着しました』
『……それは負けじゃないのか? すぐに迎えを送る。位置を教えてくれ』
元帥にだいたいの場所を伝えて、コックピットから外に出た。
今年の10月の風はあまり冷たくない。空戦の火照りを冷ましてくれる心地よい風だった。