46.ロッター・ヘルツォグ
マレーヴィチさんが基地に来るようになってから4日目。ようやく、エンブレムも形になってきた。
一人で描くのは難しかったようで、ちょっとだけ時間が掛かってる。私たちの出撃もあるからあんまり時間が取れないっていうのもあるけども。
でも私一人分にこれだ。すごく力を入れてくれている。
私たちは、マレーヴィチさんが描くのを見ながら格納庫の片隅で軽食を摂っていた。合衆国の支援物資のビスケットみたいなやつ。高カロリーらしい。
結構甘くて、けど小麦粉の美味しさを失わせていないので、支援物資の中では珍しく、これは割と好評だ。だけど、口の中がすっごいパサパサするのが玉に瑕。
こんなの食べて太るんじゃないの? って思うけど、パイロットってずっと寒い高空にいるから案外プラマイゼロ……ちょっとプラス寄りになるのだ。
……でも、気になるから控えめにしておくけどね。太るのは嫌だ。
「そういえばこっちにラケータ降ってこないね」
パサパサになった口に緑茶を流し込みながら(紛れもない緑茶だ。太平連盟から民間の支援物資で流れてきた!)私はふと疑問に思ったことを呟いた。
ラケータ――V2ロケットみたいな、弾道ミサイル的兵器。飛距離はちょっと短いけど、山脈に邪魔されないからあっち側から撃つことも簡単だろう。それなのに、何も来ない。
もう一方の飛行爆弾はあんまり高度が取れないから、山脈に邪魔されちゃう。爆撃機に積んで山脈を超えてから撃てば届くけど、飛行爆弾の一番の脅威はその量だ。少数なら、簡単に撃墜できる。だからこっちは脅威になっていない。
「なんでも、パルチザンの活動のおかげらしいよ。鉄道を壊してるから、燃料が前線にまで届かないんだって」
「だから飛行機もあんまり飛んでねえのか。助かるぜ。……早く助けに行かないとな」
「もう暫く力を蓄えないと、攻撃は頓挫しちゃうからね……解放を急く気持ちもわかるけど」
私の疑問に答えてくれたのはミールだった。
へえ、パルチザンがね。軍人でもないのに、命を懸けるなんて……私は彼らに敬意を払おう。
でも、彼らに甘えっきりにはなれない。リョーヴァの言う通り、早く助けないと。
普通の人が命を懸けて戦うなんて異常だ。危険なことは全て軍人に任せればいい。
それが軍隊の存在意義であり、義務なのだから。
そうして雑談することしばらく。
マレーヴィチさんが私たちに手を振って、作業が終わったことを教えてくれた。
「よし、完成だ。精々大事に乗ってくれよ、エース様」
早速私たちは機体に近付いて、機首に描かれたアートを見ることにした。
遠くからだと大雑把な形しかわからなかったものが、近付いていくと段々とその細部までわかるようになる。……すぐ消えちゃうだろうに、細部まで凝ってるの?
「うお……」
「これは……」
2人がちょっと衝撃を受けている一方で、私は素直に受け入れられていた。なるほど確かに写実的ではないけれど、これはこれでかわいらしい。
デフォルメが利いた聖女の絵が、私の機首に描かれていた。その周りには細微に描かれた雪の結晶が舞っていて、これほどのものを描けるのなら、この人は十分に絵描きでも活躍できそうな気もする。
昔ながらの絵柄を否定する、革命的な絵だ。つまり――
「前衛的ですね。ありがとうございます、マレーヴィチさん」
「報酬のためだ、気にすんな」
「それで……その報酬はおいくらで?」
「戦争に勝ってくれたら十分だ……と言いたいところだが、俺にも生活があるからな。コレだ」
マレーヴィチさんは手をパーの形にしながら言った。
五本指だから5万円くらいか。ちょっと高めに感じるけど、でも、これほどにいい絵にしては安い。エース割引かな?
「こんな素晴らしい絵にしては安いじゃないですか! その倍でも喜んで払いますよ!」
「多分安い方に勘違いしてるだろ。桁が一つ足りてねえな」
「50万円!?」
急に目の前の絵が超高級品に見えてきた!
……5万ルーブリはちょっと……払えなくはないけど……。
「昔、チェレンコワのお嬢様が奢ってくれたドレスの半額だ。安いもんだろ?」
「もう半額には……」
「……今回だけだぞ。その代わり、そっちのデカい兄ちゃんと猫の兄ちゃんの分も描かせてくれよ」
肩を落としながら私が懇願すると、マレーヴィチさんはすこし呆れながらも半額にしてくれた。2万5千ルーブリ。日本円の感覚で言うと、だいたい25万円くらい。
私を半額にしてくれる代わりに、リョーヴァとミールの機体にも描く約束をしてほしいとのこと。そうすれば総額は私一人に描くより高くなるからね。
アーティスト気質だから忘れがちだけど、お店を経営している商売人なのだ。しっかりしている。
ちらりと2人の方を見て、視線に気持ちを込めた。……承諾して!
「……首都の有名な服屋の店主に頼むわけだしな。たけえけど……」
「そんな高額の買い物なんてしたことないんだけど……。でも、お金は余ってるしね。良いよ」
「よし、交渉成立だ。大事に飛べよ、『白聖女』」
2人の返事を聞いて、マレーヴィチさんは私と握手を交わした。それから、ちょっと用事があると言って格納庫から出て行った。
街に戻るんだろう。
「……まあ、機体の方が何十倍も高いんだけどね。さてと、リョーヴァ、ミール。ブリーフィングしよっか」
私たちもそろそろ任務を始めよう。
◇
『D地点通過。次はEに向かうよ』
今日の任務は防衛網の穴埋めだった。
機体の不調で、ある連隊が動けなくなってしまったらしい。……きな臭いね。
『了解。敵影無し』
『こっちも……いや……居る!』
嫌な予感はしていた。あまりにも不自然な穴だったから。
そんな予感に限って、よく的中する。
『方位250! 攻撃機だ! 低空飛行で侵入してる!』
『ミール、何機だ!?』
『……確実にわかるのは少なくとも20。感覚で言えば、その倍はありそう』
珍しく焦っているミールが教えてくれた方向を見ると、木々を覆い尽くさんばかりに大衆ゲルマンの攻撃機が地上を這っていた。
数は……数え切れない。ここまで多いと、いくらエース部隊といえども、私たちだけで対抗することは難しい。地上部隊とも連携しないと、焼け石に水だ。
『……さすがに、私たちだけじゃ難しいね。元帥に連絡するよ』
最近、通信の技術はちょっとずつ進歩している。でも、総司令部と連絡するような時にはやっぱりモールス信号めいた電信が必要だった。
第33航空連隊においては必須の技能だったので、これを扱うのには慣れている。話すのとそう変わらない速度で送ることが出来た。
『よし、送った』
『さすが元偵察機乗りだね。打つのが早い』
『リーナ、どうする? 数は減らせるだろうが、護衛の戦闘機部隊がどこにいるかわかんねえ以上下手に仕掛けられないぜ』
リョーヴァの言う通り、敵部隊はあの数だ。遠くを飛んでいるのか、高い場所を飛んでいるのか、あるいは同じように低空から侵入しているのか。どこにいるかはわからないけれど、護衛部隊も大規模であることは簡単に想定できた。
付かず離れず、周辺の警戒を続けながらあの部隊の偵察を行うのが最善だろう。
『そうだね。現状維持で行こ――』
私が返事をした瞬間、ミールが叫んだ。
『リーナ、上!』
声に反応して、頭で考えるよりも先に操縦桿を操った。
複雑な機動を行って、敵の攻撃を回避する。
……その間に、敵が見えた。単機だった。
『……ああもう最悪。あんな大編隊を相手に、護衛が単機なんてあり得る?』
上空からの攻撃を回避された敵機は、速度を保ったまま水平に距離を取っていた。あっという間に離れていって、その機影は米粒よりも小さく見える。
だけど、その特徴的な色は、いくら遠くにいてもよく目立っていた。
『そりゃ見つからない訳だ。……クソ、もう二度と戦場で相見えたくなかったぜ』
『ぼくだけが初めてか。あれは?』
真っ赤な機体。彼らしか乗ることの許されていない、ジェット機。
パイロットは容易に想像できる。親衛連隊を単機で半壊させた、リョーヴァのトラウマ。
あの敵機を操るのは――
『大衆ゲルマンのトップエース。『赤公爵』リヒトホーフェン卿。逃げられるかなぁ』
『無理だろうな。最近アイツら相手に調子に乗りすぎちまったな。立場が逆転だ』
『やるしかないね。君たちがそんなに怖がるなんて、興味湧いてきちゃった』
ミールが好奇心と闘争心を覗かせた時に、総司令部から返信が来た。
元帥はどうやら、私たちに無理をしてほしくないらしい。
『元帥から返事が来たよ。撤退許可。どうする?』
『ぼくたち以外に彼の相手できそうなパイロット、いるかな?』
『親衛連隊の連隊長くらいだな。……あいつに堕とされたが』
リヒトホーフェン卿ほどにもなれば、下手な連隊を向かわせたところで何の意味もない。時間稼ぎができるのは、現状では私たちの他にはいなさそうだ。
やってやろう。
『だよねぇ。挨拶は任せて』
通信機の出力を増加させた。
ジジジ、と特徴的なノイズと共に、敵の無線に割り込む――
《お久しぶりです、リヒトホーフェン卿》
《やはり、カレーニナ大尉の編隊だったか》
予想通り、聞こえてきたのは冷徹な強者の声だった。
今年もよろしくお願いします