幕間:最大限の革命を
アンナ・イヴァノヴナ・チェレンコワは鏡台の前で化粧を直していた。
下着だけを身に付けていた。黒く、薄い生地で、白い肌が薄っすらと布の上から見えていた。
机の上には綴じられたファイルが置かれており、彼女の後ろのベッドでは醜い大男が期待を胸に鼻息を荒くしている。
「何を企んでいるのか知らないが、チェレンコワ大尉を我が物に出来るなら安い物だ。さ、さあ……来い大尉!」
「はい」
「クク、従順じゃないか。貴族の娘、しかも魔法使いを抱けるなんてな。革命万歳だ」
男の身体は大きかった。軍人らしくよく鍛えられていて、アンナの白く細い身体とは対象的だった。
もし反抗されても、彼女では決してこの男に勝てないだろう。
その上、権力も持っていた。大将を相手に無礼を働くのは、軍人であればその結末がどうなるかなんて想像に難くない。
この夜は、彼の夢を実現する夜になる――はずだった。
「その通りですね」
アンナはゆっくりと鏡台の引き出しを引いた。愚かな男は避妊具を取り出すのだろうと思った。
しかし、取り出したのは黒い鉄の塊。
振り向くと同時に、醜男の頭に自然な仕草でその先を向け、引き金を引いた。
乾いた音と共に、赤黒い塗料が部屋を汚す。
「――革命万歳」
今夜はアンナのような士官の殆どは年末のパーティーに呼ばれていて、そのパーティーのために一時的に借り受けていた宿舎には、彼女以外に誰も居なかった。
早く帰ってきたアンナは、この機会を逃さずに将軍に渡りを付けた。一も二もなく返事はすぐに来た。
「身体を対価に、情報が欲しい」――党に忠実で、革命的な将校なら。そうでなくとも、常識を持っていれば絶対に引っ掛かることのない、大きすぎる釣り針だった。
この冷たい脂肪の塊は、そんな釣り針に掛かった大きなゴミだった。
「党は甘いですね。そこが良い所でもありますが」
アンナは独り言ちた。
白い肌に、生ぬるい肉片が微かに付いた。眉を顰めながら、濡れた布巾で綺麗にした。匂いは残るかもしれないが、今夜は大丈夫だ。
パーティーに着ていった礼装を再び身に纏いながら、アンナは書類を鞄に入れ、拳銃を腰に提げた。
部屋の扉を開けて、足早に宿舎を出た。一時間程度なら問題はないだろうが、それ以上時間が経つと不審に思われる。
「リーナの手を煩わせる訳には行きませんからね」
先ほど党本部で出会ったエースの顔を思い浮かべながら――そして、彼女が語ってくれた心優しい言葉を胸の内で繰り返しながら――誰かに向けた言い訳のように言った。
大晦日の深夜の首都を、アンナは歩いていた。新年のパレードのために、首都の大通りの街灯には様々なものが描かれた垂れ幕が掛かっていた。
その中の一つにアンナは目を留めて、そっと呟いた。
「……『最大限の革命を』」
アンナの好きな標語だった。
貴族の血を引いて生まれながら、彼女は革命的価値観に共感していた。それは自身の生来の価値観と、貴族故に幼い頃から触れ続けていた、人の悪意に対する反動からだった。
アンナは魔法使いだ。
人の心を操る魔法を得意とする、典型的な『信頼に値しない魔法使い』だった。
幼い彼女はそれを隠し続けていたが、その特異な魔法の才能から、有名な物語の冒険者たちを裏切る『魔女』に親しみを覚えていった。
アンナと同じ、人々から疎まれる魔法使いだったから。
ある日、擦り切れた本を図書館で見つけた。
その中に書かれていた物語では、件の魔女は最後には冒険者たちを助けていた。
魔女の裏切りは、全てを救うための裏切りだったのだ。
アンナは、その無私の精神に心を揺り動かされた。
大義のために自身を犠牲とする生き方に、憧れた。
「祖国と党のためならば、命も惜しくはありませんが。……リーナと離れることになるのは、寂しいですね」
エカチェリーナとの出会いは、彼女に大きな変革を与えた。
最初は、よくわからなかった。少し生意気な、腕だけは良い子ども。そんな印象だった。
聞く所によれば学校の成績も優れているという。とはいえ、最近担当士官として任命された飛行士養成課程、その第1期生にはぴったりな経歴だった。
期待はせずに、手紙だけを送った。候補者の中で誕生日が一番遅いのは彼女だったから、入学の日は一応、彼女の誕生日に合わせておいた。
アンナは内心驚いていた。まさか本当に来るなんて。
少なくとも一年間は家族の元から離れて、現役軍人の彼女から見ても厳しい訓練を行っていくのだ。前途有望な若い女子が来るなんて思ってもみなかった。
それからの一年は、短くとも濃密な一年だった。
エカチェリーナの人となりを知り、妹のように思い、もっと親しくなりたいと感じ……気が付けば、大事な人になっていた。
「ですが、振られてしまいました。これで未練は無いですね」
アンナは自身に言い聞かせるように、冬の夜空に向けて囁いた。
結ばれたいとは願わなかった。
近くに居て、見守っているだけで十分だった。時々相談相手になり、時々二人で出掛けるような関係に満足していた。
平和な世の中で出世を重ね、いつかエカチェリーナが同じ階級となった時に対等な立場で話すことが、アンナのささやかで、新しく生まれた夢だった。
航空学校の成績は優秀だったから、そう遠くない未来に夢が叶いそうだと思って、アンナは満ち足りた気分になっていた。
だが、戦争は全てを狂わせた。
逃亡への誘いは、彼女なりの精一杯の愛の告白でもあった。今後の一生を、共に過ごそう。そんな、一世一代の大勝負。
答えは否だった。
平和な時ならきっと、そんな告白も受けてくれていたのだろう。だが、戦争という状況下では、エカチェリーナは決して振り向いてはくれない。
その結果が報われないであろうことはアンナも知っていた。エカチェリーナが守るべき全ては、この国に存在しているのだから。
だとしても、この想いを、願うだけで終わらせることは出来なかった。
「母なる国よ、さようなら。次は、裏切り者の汚名と共に、貴女の元に戻ります」
大多数の人民と異なり、彼女にとって大衆ゲルマンとの戦争は青天の霹靂だった。
自身にも血が流れるあの国の同胞である指導者が、圧倒的に強い評議会共和国との戦争を選ぶほどに愚かだとは考えられなかった。
それ以前にも、かの国による他国への宣戦を聞くたびに心は傷つき、出来ることは無いのかと大衆ゲルマンの唯一の親戚――リヒトホーフェン卿とは頻りに連絡を取り合っていた。
アンナはよく理解していた。
敵の立場から敬愛する祖国を守ることが出来るのは、自分だけだということを。
憧れていた裏切りの魔女と同じ立場だ。
無私の奉公で、全てを救おう。
大義のため、平和のため。
祖国のため、党のため。
そして――愛する人のために。
「……革命万歳」
決意した魔女は、霜夜の少し欠けた月の下で一人呟き、添い遂げたいと願った人に掛けていた魔法を解いた。
◇
約束していた場所は裏路地だった。
アンナが足を踏み入れると、黒い装束に赤いマントを身に着けた男が現れた。
「来たか、アンナ嬢。用事は済んだか?」
「ええ。無事に。お待たせしました、叔父様」
「結構。頼んでおいた書類はあるかね?」
革の鞄から取り出した書類をアンナは手渡した。
跳ねた血が、乾いて染みとなっていた。
「多少汚れていますが、内容に問題はありません」
「ふむ、素晴らしい。成功すれば、首都が西帝の二の舞いとなることは無いだろう。……約束はできないが」
「可能性が浮上しただけで十二分です。確実になればなお良いのですが」
リヒトホーフェン卿との間に交わした約束は単純だった。
ひとつ、首都を破壊しないようにリヒトホーフェン卿から上層部へと提言すること。
ふたつ、和平の実現へ向けて活動を開始すること。
「申し訳ないが、これ以上は難しい」
「残念です」
「上層部は戦争を解っていない。鼻持ちならない俗物共が、上に行けばこうなる」
アンナの提示した条件は、リヒトホーフェン卿にとって悪いものではなかった。むしろ、彼自身が求めているものとほぼ一致していた。
元よりそのつもりだった上、それをすれば大変に貴重な戦力――魔法使いのエースパイロットが手に入るのだ。
その事を語るつもりは彼にはなかったが。勘違いしているなら、それを利用すれば良い。
「私が言える立場ではないのは承知しているが――戦争は外交などではない。人によって引き起こされる災害だ。避けられる物だ」
「貴方たちが攻めてこなければ、その言葉の信憑性が担保されたのですが」
リヒトホーフェン卿は平和を求めていた。これ以上の戦争は、父なる国にとって出血を強いるだけのものになるからだ。
「ハハ……全くだ。だが、我が娘たちにとってはそれが日常なのが、私の人生における最大の悲劇だ」
「エリカもハンナも、戦争孤児ですからね。彼女たちは貴方に多大な恩を感じているようですが」
「戦乱の折に幼子を助けるなど、人として当然のこと。感謝には値しない」
そして、エリカとハンナが幸せに暮らすためにも、平和が欲しかった。
「……娘たちにそれを理解して貰うためにも、早く終わらせてしまおう。それが双方の為になる」
「ええ。終わらせましょう」
最大限の革命は、完遂することによってのみ成し遂げられる。妥協は許されない。
アンナ・イヴァノヴナ・チェレンコワは、祖国を裏切る魔女となった。