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TS飛行士は空を飛ぶ  作者: そら
シュヴァルツ・オクトーバー
40/96

36.六日目 / ひとやすみ

 狭い宿舎が妙に広く感じられる。

 ストーブの前の小さなソファーにじっと座っていた。――時計の針は午前2時を指している。

 ……もう寝ないと。


 ここの宿舎はイゾルゴロドの宿舎に似ていた。

 初めて少佐たちと出会った時は驚いた。だって、似たようなソファーの上で絡み合ってたんだから。

 ……あれ以降もたまに遭遇することはあったけど。何回か遭遇するうちに、私の方でも雰囲気がわかるようになったのは嫌な慣れだった。

 外は極寒の深夜、宿舎はよく温まっていた。だけど、私の身体は冷え切っている。

 布団に潜ったら暖まるかな。

 そうだといいな。



 朝は憂鬱なものだ。

 それは平和な時でも、戦争の時でも同じ。

 でも、いつもならすぐに元気は出る。今朝は違った。

 ベッドから這い出て、着替えて、顔を洗って、久しぶりに朝ご飯を一人で作った。

 軽く食べて、外に出て、自転車に乗って病院に行く。


 この国の公共施設は基本的にコンクリ作りで無機質なものだ。時に威圧感を与えるけれど、機能美が現れていて私は嫌いじゃなかった。

 灰色の壁と、白のペンキ。

 今日のそれは、監獄に見えた。


 ノックをして扉を開くと、ミラーナ少佐はちょうど朝ご飯を食べていた。スープにパンの、簡素な病院食だった。

 私を見て柔らかに微笑んで、ミラーナ少佐は言う。


「おはよう、エカチェリーナちゃん少尉。昨日は夜中まで任務だったのかしら? リーリャも来なくて寂しかったわ」


 口の中がからからに乾いていた。手は震えていて、きっと声もそうなる。

 視線は忙しなく動いて、病室の詳細な景色が見えてしまう。

 清潔なシーツ。銀色のベッドフレーム。黒縁の時計に、鉄製のエンドテーブル。

 少佐の膝の上にはトレーがあって、朝食はパンにスープ、ちょっと薄い軍用の供給品のコーヒー。それに牛乳と白いドレッシングの掛かったサラダ。

 例によって空軍は、病院でもその食べ物の量は多かった。


 一秒にも満たない観察を経て(当然それは私にとっては無限のような時間だった)口を開いた。


「……リーリヤ少佐は、帰って来ていません」

「――え?」


 少佐の掌から離れたパンが、床に転がった。

 彼女の手は震えていた。

 握り拳を作って、一瞬振り上げそうになって、瞳を伏せると膝の上の辺りに拳を置いた。

 努めて冷静に、彼女は声を振り絞った。


「報告を」

「行方不明です。昨日の任務の際に――」


 脚色せずに事実だけを伝えた。

 リーリヤ少佐はそうする方が好きだと思ったから。


「……そう。敵のエース、『黒騎士』と」

「あの……その、私が――」

「ごめんなさい少尉。一人にしてくれないかしら。少しだけ」

「…………わかりました」

「朝早くから来てくれてありがとう。今日も頑張ってね。応援してるわよ」


 少佐は、能面のように固く凍った笑顔で私を見つめて、見送ってくれた。

 扉の前で一礼をする時にも、笑顔は崩れていなかった。全く表情は変わっていなかった。







 病院を出ると、偶然リョーヴァと出会った。基地の本部の方から来たから、なにか用事を済ませてきたんだろう。


「あれ、リーナじゃねえか。見舞いか?」

「……あ、知ってるんだ。ミラーナ少佐のこと」


 病院の前は人通りの多い場所だった。だからそこを通るなんて珍しくない。

 それなのに、見舞いだなんて思われるということは、噂でも広まっているのだろう。


「そりゃな。エース部隊のパイロットが撃墜されて保護されたんだから、みんな知ってるぜ」

「へえ、それじゃリーリヤ少佐のことは?」

「リーリヤ少佐って、あのミラーナ少佐と仲良かった人か。……なんかあったのか?」


 話すことは長くなりそうだったから、病院の入口の階段に腰掛けた。雪はしっかり除雪されていたけれど、普段の軍服では冷たい地面だった。

 リョーヴァも私の隣に腰掛けて、話し出すのを待っていた。

 どこから話せば良いのか。……というか、話しちゃっていいのだろうか。

 少しだけ考えて、今のこの心を楽にしたい気持ちが勝った。「ちょっと、まだ混乱しているからぐちゃぐちゃだけど」。そう断りを入れてから、私は話し始めた。


 リョーヴァは静かに聞いてくれた。


「そうか。……俺から掛けられる言葉はねえな。ただ、幸運が続いてたんだろうな」


 彼は天を仰ぎながら、話し終えた私に言った。銀色の猫耳がへにょんと横に倒れてしまっている。悪いことをしたかもしれない。

 このままだと、適当な慰めの言葉を掛けられてすぐにどっかに行ってしまいそうだった。……今は、もう少しだけ話していたい。

 引き止めるために、私からも質問をすることにした。


「リョーヴァは知り合いが堕とされたことはある?」

「お前らが親衛連隊(ウチ)に入ることになった出来事、覚えてるか?」

「うん。リヒトホーフェン卿に半壊させられたって」

「あの時、俺も空に居たんだ」


 リョーヴァはまだ空を見上げていた。

 空には、戦闘機の編隊が飛んでいた。私たちの国の機体だ。これから友軍の支援か、警戒飛行にでも向かうんだろう。

 そして、全員無事に帰ってこれるかどうかはわからない。全員帰ってこないかもしれない。


「衝撃だった。頼れる先輩たちが、ウソみたいに堕ちてくんだ。信じられるか? 敵は1機、こっちは連隊」

「やっぱり単機だったんだ」

「ああ。やっぱり、ってことは他のエースもなのか?」

「うん。……というか、彼らの家族だけはね」

「化け物揃いって訳か。最悪だな」


 「話は戻すが」と目の前の彼は言った。銀色の瞳は、今度は地面を見ていた。

 冬だ。蟻もいないし、草も生えていない。冷たいアスファルトの黒色だけがある。


「それからもちょくちょく知り合いがやられることはある。生きてたり、死んでたり、捕虜になったり……やられた後は人によるが」

「そっか……そうだよね」


 どう答えていいかわからなくて、私が当たり障りのない返答をすると、リョーヴァは私の目を見据えてきた。

 力強い銀色の瞳だった。揺れる感情――恐怖や後悔、そういったものを乗り越えた、強い瞳。


「だからな、リーナ。こう言ったら悪いが――『よくあること』、だ。慣れろとは言わねえよ。人死にに慣れたら人間じゃねえ」


 「うん」「わかってる」「その通りだね」――首肯しようとしたけれど、出来なかった。

 言葉は喉で止まって、外に出ることはない。

 ……頭ではわかっていても、認めたくない。


 私が幸運だったってだけなんて、認めたくない。

 運なんてクソ喰らえ。私たちは実力で生き残ってきたんだ。


「俺だって、ミールだって、当然リーナだって、いつ死ぬかわからないだろ? 戦争ってそういうものだし、軍人ってそういう仕事だ」


 リョーヴァの言葉は正論だった。

 けど、正論ほど傷心に寄り添わない言葉もない。

 ……そういえば、前世でもよく言われてたな。「女の子の愚痴には同情だけしとけ」って。ちょっと深刻の度合いは違うけど、なるほど、結構ムカつく。

 まあ、ここでリョーヴァに当たり散らすのも良いだろう。リョーヴァはたぶん驚くだろうけど、優しく受け止めてくれる。

 ……そんな役割押し付けたくないから、ぐっと我慢するけど。


「……で、問題はそれよりも今後のことだろ。リーナ一人で分隊の仕事できるわけないだろ? どうすんだ?」

「そうだね。どうしよう」

「よかったら、ウチの分隊に来るか? 第1親衛分隊だ」

「助かるけど。……いいの?」

「俺から言っとくよ。分隊長も真面目だけど良い人だからな、拾ってくれる」

「ありがと」

「気にすんな」


 過去を振り返っても、できるのは後悔だけ。それよりもこの先どうするか考える方が重要だ。悲しむのは戦後の特権だからね。

 リョーヴァが立ち上がったので、私も立ち上がった。これで話は終わりらしい。……名残惜しいな。


「今日はゆっくり休んどけ。俺は任務があるから無理だけど、ミールなんかは暇かもしれねえし、人と話すのも大事だ」


 私の精神は結構揺れ動く方だった。ある程度は一定しているけれど、時と場合で大きく動く。面倒くさいタイプだった。

 これまでは少佐たちだったり、戦争の前はアンナさんだったり、ヴォルシノフに居た時はノーラだったりお母さんだったり――頼れる人はそれなりにいた。

 けど今日からは一人で飲み込んで、解決していかないといけない。


 ……前世の自分からは考えられないくらい、「面倒くさい女」になっちゃった。


「そうだね。今日はゆっくりするよ」

「そうしとけ。なにより心だぜリーナ。心を強く持とうぜ。絶望しなけりゃ、俺達はこの狂った戦争を生き延びられる」


 そう言いながらリョーヴァは右手に握り拳を作って、私の胸に向かって突き出してきた。

 ……ふにゅん、と柔らかいものに触れた。


「あ」

「……どこ触ってんの。そういうつもりで優しくしてくれたの?」

「……いや違うんだ。ごめん……!」

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