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ランタンに願いを込めて

作者: 中川ネウ

プロローグ 


 わたるは夜空に浮かぶ無数のランタンを見上げて、右手をうんと高く上げた。まだ小さなその右手は、ゆっくりと昇っていくランタンには届きそうもない。

 それでも航は背伸びをして、なんとか近づこうとするが、右手が触れたのはカラッとした冷たい空気だけだった。


さわれるわけないよ。もうあんな高いところにあるんだから。それに、航はまだ美里みさとよりも小さいんだし」


 美里は背伸びをする航を見てくすりと笑った。


「そんなことないもん。僕だって、美里なんかすぐに抜かしちゃうよ」

「さぁいつになるのかなー」


 この日、八歳の小学生二人、村上むらかみ航と高浜たかはま美里はスカイランタンを見に来ていた。二人のレジャーシートのすぐ後ろではそれぞれの両親が二人を暖かく見守っている。

 各々の願いのこもったランタンが夜空に浮かぶ様子は、まるで穏やかな海をふわふわと泳ぐクラゲのようであった。そのクラゲは町を鮮やかなオレンジ色で照らしている。

 ランタンに手を伸ばす航とは対照的に、美里は夜空に広がる光景をじっくりと眺めていた。写真を焼くみたいに、目から入った情景を心に刻んでいく。


「……ねぇ、美里と航は大人になっても遊んだりするのかな」


 まだ背伸びをしていた航はうまく聞き取れなかったのか「え?」と聞き返す。


「ううん、なんでもない」


 振り返ってやっと座った航はもう一度聞き返したが、美里は「もう言わなーい」とイタズラ顔を浮かべた。


「なんだよ、変なの」

「ただの独り言だよ」


 美里自身もどうしてそんなことを言ったのかよくわからなかった。

 綺麗な夜空を見て、自然と口からこぼれていた。


「ふーん。あっ、見て見て、あのランタンすっごい大きいよ」

「ほんとだ、一番大きいかも」

「あのランタンにはどんなお願いが込められてるんだろう」

「たくさんの願い事が込められてるんじゃない? きっとあのランタンを上げた人は欲張りさんだよ」

「僕も上げるなら一番大きいのがいいな」

「航は欲張りさんだなぁ」

「いいでしょ? だって、欲しいものがいっぱいあるんだもん」

「航はまず『大きくなりますように』ってお願いしなきゃだね」

「だから、美里なんかすぐに抜かすってば」


 航は口を尖らせる。

 美里はそれを見てニコリと笑った。


「じゃあ航は大きなランタンに何をお願いするの?」

「えーっとね、車のラジコンでしょ、それにレゴブロックも欲しいし、怪獣の人形だって欲しいな」

「もう、航は子供なんだから」

「美里だって子供だろ?」

「美里は航よりも大人ですよーだ。ほら、おもちゃじゃなくてさ、やりたいこととか、叶えたい夢とかはないの?」


 航は首を傾げて「うーんそうだなぁ……」と困り顔をする。

 数分経ったところで「夢はまだないけど」と前置きをして、


「大きくなっても、美里と一緒に遊びたいかな」


 と、にっこりと無邪気に笑って言った。


「……なんで?」

「だって、これまでもずっと一緒に遊んできたし、美里は少しむかつくけど一緒にいて楽しいから」

「そ、そっか」


 航は美里の頬が赤くなっていることに気づかない。


「美里は何をお願いするの?」

「えっと……そうね、美里は大きくなったら航なんかとは会いませんようにってお願いする」

「え、なんでだよ」

「私、自分よりも背の大きな人がタイプなの」

「だからぁ」


 二人はお互いにくすくすと笑い合う。

 美里は少し恥ずかしがりながら航を見て、航は屈託のない笑顔で美里を見た。

 まだ寒さが残る三月。

 この二人のいる空間にだけは、そんな寒さも吹き飛ばしてしまうくらいの暖かい、そしてちょっぴり甘酸っぱい時間が流れていた。


「あ!」


 口笛か、もしくは窓の隙間から入る冬の風の音みたいな、少しか細い音が公園内に鳴った。そしてすぐに強烈な破裂音が響く。

 オレンジ色の町をさらにカラフルに彩ったのは、あられが砕けるみたいな音を残して消えていった、大輪の花火だった。


「きれい……!」

「すっごいね、花火」

「うん、すっごいね、ほんとに」


 二人はそのままずっと花火を眺めていた。

 次々に花火は打ち上げられ、花火の光によってランタンの色も変化していく。

 一秒ごとに様変わりする夜空の光景は、まだ幼い二人の心を踊らせた。


「また一緒に見に来ようね」


 二人のうちのどちらかが呟いたが、花火の音と歓声でその声は掻き消されてしまった。

 誰にも届かぬまま、そっと、自分の心の中に溶けていったのだった。 


1


 航は押入れから埃の被った段ボールを取り出した。

 ダンボールの側面にはマジックで『たいせつ』と下手くそな筆跡で書かれている。『た』と『せ』が異様に大きく、全体のバランスがまるでとれていない。


「うわ、懐かし」


 段ボールを開けると、中には一見ガラクタとも思えるおもちゃの数々。

 しかし航にはそれらが光を放っているかのように輝いて見えた。

 走らせすぎてタイヤが変形している車のラジコン。時間が経って色が淡く濁ったレゴブロック。戦わせていたら腕とツノが取れてしまった怪獣の人形。

 どれもこれも、思い出がたくさん詰まったものばかりだった。

 そんな中、一つだけ記憶にないものが目につく。

 『三月二十七日』に赤い丸印がついた卓上カレンダーだった。

 2014年、ちょうど十年前のもの。航が当時小学二年生の年だ。

 十年前のことを思い出そうとするが、ほとんど記憶が残っていない。

 航はカレンダーを不思議がりながらも、他のおもちゃと一緒にダンボールへと戻した。

 昔のことを思い出している場合ではなかった。来週にはこの家を出て、東京へと引っ越さなければならない。今はそのための片付けをしていた。

 航が他の荷物を押入れから出していると、部屋のドアをノックする音が鳴った。


「航、今日お母さん仕事でいないから、夜ご飯一人で勝手に食べてて」

「うん、わかった」

「……あ、でも冷蔵庫に今何もないかも」


 航の母親が「しまった」と口に漏らす。


「コンビニで何か買って食べるよ」

「……そうね。そうだ、美里ちゃんのお店で何か食べるのは? コンビニよりもずっと美味しいし、栄養もちゃんと取れるじゃない。それにもう美里ちゃんとしばらく会えなくなるんだし、挨拶も兼ねて行ってきたら?」

「確かに、それもいいかも」

「じゃあ決まりね。下にお小遣い置いておくから。それと、片付け早く終わらせるのよ? もう来週には東京に行かなきゃいけないんだから」

「わかってるよ」


 母親は足早に下に降りていった。階段を降りる音が聞こえてくる。

 航の家庭は共働きのため、航が一人でご飯を食べることも珍しくなかった。

 そのため一人で食べることには慣れている。

 近所にある美里の家は定食屋で、航も時々食べに行っていた。

 どのメニューを頼んでも味は確かなものだ。

 時刻は午後四時半。

 部屋の散らかり具合を見ると、まだまだやらなければいけないことが残っている。美里の家に行くためにも、なるべく早く作業を終わらせたいところだ。

 

2


「お邪魔しまーす」


 暖簾のれんをくぐると懐かしさを感じる香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。


「いらっしゃーい。……って、航じゃん」

「よっ」


 『高浜屋たかはまや』に入ってすぐ美里が出迎えた。

 航が軽く手を上げると美里もそれに応える。


「好きなとこ座って。今お水持ってく」


 店内はラストオーダーに近いこともあってかそれほど客はいなかった。

 客がたくさん入っている時間帯にしか行ったことがなかったため、新鮮な感じがする。

 時刻は午後九時を過ぎた頃。

 結局航は片付けを終わらせることができず、閉店時間の十時に近づいていたため片付けを切り上げて急ぎ足でやってきていた。


「久しぶりじゃない? うちの店来るの」


 美里が水をテーブルに置く。


「そうかもな。今日母さんが仕事でいなくって」

「自分で作ったらいいじゃん」

「今日はほら、美里への挨拶も兼ねて」

「どうせ、いつもはコンビニで済ませたりしてるんでしょ?」


 美里がジト目を向けてくる。

 その予想はバッチリ的中していた。

 航は何も言えず水をぐびっと一口飲む。


「もう大学生にもなるのにそんなんで大丈夫なの?」

「うるさいな、これからなんだよ」

「幼馴染として、色々と心配だな〜」


 美里は笑いながらポケットから注文票を取り出した。


「で、注文は? 何食べたいの?」

「うーん……おすすめは?」

「おすすめはチキン南蛮定食だけど、本音を言うとあと少しで肉じゃがをなくせそうだから、肉じゃが定食をお勧めしたい」

「選択肢一つに絞られたような……」

「別に、何頼んでもらったって構わないけどね。航の好きにしたらいいと思うよ」

「じゃあ、肉じゃが定食で……」

「毎度あり〜」


 美里はニコッと笑う。してやったりの顔だ。

 航と美里の構図は昔から何も変わっていない。航は基本的に美里の下に敷かれ、美里は常に航の上に立つ。そもそも、しっかり者の美里と若干の抜けがある航とでは、この構図になるのは必然だったのかもしれない。

 五分ほど経ったところで、美里が肉じゃが定食を持ってきた。その後ろでは、美里の母親の姿も見えた。


「航くん、お久しぶり。元気だった?」


 厨房に立っていた美里の母親はエプロンで手を拭いながら笑顔で航に声をかけた。昔からお世話になっている航も席を立って会釈をする。


「お久しぶりです、富美加ふみかさん」

「ありがとね、食べに来てくれて」

「いえ、こちらこそありがとうございます」

「航くん、もうすぐ大学生なのよね。偉いわねほんとに。しかも難関大学に合格するなんて。佐奈江さなえさんもきっとすごく喜んでるわ」

「あはは、ありがとうございます。でも母さんはあんまり反応がなかったっていうか、仕事しか頭にない感じで」

「そんなことないわ。誰だって母親は、子供のことをちゃんと考えてるものよ」

「そうなんですか」


 航としては少し信じがたい話だった。

 普段あまり喜怒哀楽を見せない母親は自分に興味がないものだと勝手に解釈していた。

 しかし話を聞いてみると、もしかしたらそういうことでもないのかもしれない。


「航くん今日はたくさん食べてってね。佐奈江さんにもよろしく伝えておいて」

「はい、ありがとうございます」


 佐奈江が厨房に戻ると同時に「美里ちゃん、お会計頼むよ」と客に呼ばれ美里もレジカウンターへと向かった。

 航はしばらく一人で肉じゃが定食を楽しむことにした。


3


「食べた?」


 航が定食をほとんど食べ終えたところで、美里が航の座るテーブル席の反対側に座った。

 美里が空になったコップを見て、新しく水を注ぐ。


「うん、ありがとう」


 時刻はラストオーダーを過ぎ、店内には航以外の客はもういなかった。

 しんとした店内には航と美里と美里の母親だけ。


「大学、楽しみ?」

「楽しみよりも、不安の方が強いかも」

「まぁそうだよね。こんな田舎から急に東京に行くんだから。航のことだから、道に迷ったり、電車を乗り間違えたりで大変そう」

「それはちょっと自分でも思ってる」

「ふふ、自覚あるんだ?」

「ないと言ったら嘘になる」

「ふーん」

「美里は、このお店の手伝いをするんだっけ」

「うん。お母さん一人じゃ、この店やっていけないから」


 航は言葉に詰まる。

 美里にはとある事情があることを知っていた。


「……偉いよな、美里は。昔から俺よりもずっとしっかり者で、成績だってずっと美里の方が良くて。それなのに富美加さんのことを思って地元に残る決断をして、俺だったら親のことなんて全然考えないのに」


 美里は航が行く大学よりも偏差値の高い大学に合格できる実力を持っていた。

 常に学年トップの成績を収め、模試の判定でもA以外をとったことがない。教師からも合格は確実と言われていたが、結局美里は受験をしなかった。


「私が決めたことだから。別に偉いとか、全然そんなのじゃない。ただ私にとってお母さんの存在が大学に行くことよりも大切だったってだけ」


 母親からは大学に行くことを強く勧められた。金銭面は奨学金を利用すればなんとかやりくりができるし、お店のこともアルバイトを雇うなどやり方は色々あると何度も説得された。

 教師たちに受験をしないと伝えた際は強く反対をされた。何度も校長室で母親同行のもと面談が行われ、教師たちはなんとか美里が受験をするよう説得した。

 それでも、美里は地元に残ることを選んだ。


「お父さんが倒れたとき、私思ったの。お母さんのそばには私がついていなきゃって。お母さん、信じられないくらい乱れてたから」


 美里がちょうど中学に進学した時期だった。

 美里の父親が突然脳梗塞で倒れ、植物状態になった。

 元々『高浜屋』の厨房に立っていた父親が倒れたことで店は営業することが困難になり、同時に家計面も苦しくなった。

 度重なる困難に見舞われたことで、母親の情緒は狂ってしまった。

 話すことが好きで家族で一番おしゃべりだった母親は言葉を一言も発さなくなり、食べることが好きだった母親は食欲が消えてほとんど胃に食べ物を入れないという日々が長く続いた。

 植物状態になって三ヶ月後、父親は息を引き取った。

 それから母親は夫の遺骨を手で抱えながら椅子に座ってただ呆然とする日々。

 美里はそんな母親の代わりに家事をこなし、新聞配達をして懸命に母親を支えた。そんな美里の支えもあり、母親は徐々に生気を取り戻していった。

 営業を停止していた店は母親が厨房に立つことでどうにか再開をし、祖父母や航の家の手も借りながらながら一歩一歩前に進んだ。


「今はもう元気に料理作ってるけど、ふとした時に大変だった時のお母さんを思い出すの。もしまたあんなお母さんを見ちゃったら、今度は私がどうかしちゃう気がする。だからお母さんのためってのもあるけど、結局は私自身のために選んだのかもね」


 厨房で片付けをしている母親を見ながら美里は言った。

 その表情はどこか寂しげで、目を離した隙にどこかへ消えていってしまいそうな儚さを感じる。

 航は話を聞きながら中学生の頃の美里を思い出していた。

 地元の同じ中学校に進んだ二人。今までとなんら変わりない生活が続くと思っていたが、それは美里の父親の病気がきっかけで一変した。

 家事に新聞配達、勉強や部活も全てこなしていた美里は周囲に愚痴を漏らすこともなく、あたかもそれが普通であるかのように振る舞っていた。それでも、小さい頃から一緒にいた航の目には、明らかに様子がおかしい美里の姿が映っていた。

 周囲に振り撒く笑顔の裏に見える疲弊。

『普通』な学生生活を送る周囲への嫉妬。

 変わってしまった家族への哀愁。

 航はそんな美里を見て、どう接していいのかわからなかった。今まで通り声をかけてもいいのか、それとも美里の状況を考慮して話しかけない方がいいのか。はたまた憂慮して美里に労いの言葉をかけた方がいいのか。でもそれは美里にとって節介なものではないか。

 考えているうちに、自然と二人が話す機会は減っていった。

 なんとか助けたいと思う航だったが、しばらくはどうすることもできなかった。

 状況が変わったのは『高浜屋』の営業が再開した時。

 航の家も再開に向けて美里たちに協力することになり、美里と接する機会が増えた。

 ある時「大丈夫か?」と聞くと美里は胸を張って「当たり前じゃん」と笑って見せた。

 どこまでも美里は美里だったのだ。


「私の話はさ、もういいじゃん。問題は航の方でしょ? 料理はできない、電車に乗れない、道に迷う。小学生じゃないんだからさ」

「だから、これからなんだってば。何事も経験だろ? 人間最初はできなくて当たり前なんだよ」

「いっつも屁理屈だけは達者なんだから」


 二人は笑う。

 二人だけの特別な空間がそこにはあった。


「もう東京に向かう準備はできてるの?」

「……あ、それが今日もここに来るまでに色々片付けてたんだけど、中々終わらなくって」

「なんか部屋が散らかってるの想像できる」

「想像の三倍は散らかってるよ」

「何それ悲惨。……明日お店休みだから、私も手伝ってあげようか? 特別に」

「え、まじで」


 航としては猫の手も借りたい状況だった。

 何より物が多すぎるのだ。


「私に心を込めてお願いしたら考えないでもないかも」

「……えー、親愛なる美里さん、どうか僕に力を貸してください」

「棒読みで全然気持ちが伝わってこないなー」

「お願いします、美里さん。本当に力を貸してください」


 航は両手を重ね、テーブルのギリギリまで頭を下げる。


「……まぁ、及第点ね」

「ありがとうございます!」


 航は白い歯を見せて、とびっきりの笑顔を浮かべた。 


4


 美里は航のことが好きだった。

 きっかけはよく覚えていない。いつの間にか自然と航を目で追うようになっていた。特別かっこいいとも思わないし、一緒にいて心がときめくかと言うとそういう訳でもない。

 ちょっぴり間抜けだし、ものすごく頼りないし、怖がりで臆病。好きな理由を五つ挙げろと言われたら、三つ目を答える最中で制限時間の三十秒がきて頭の上の爆弾が爆発する。

 それでも航が好きだった。

 好きな理由なんていらない。これは紛れもない恋なのだから。


『大きくなっても、美里と遊びたいかな』


 美里は航の家に行く道中、ふと十年前のことを思い出した。

 十年前、航とスカイランタンを見に行った日。あの時言われた言葉を今でも覚えている。まだ八歳だった航はランタンに何をお願いするか聞かれ、何気なく言ったのかもしれないけれど、美里にとってそれはすごく嬉しい言葉だった。

 ────この先、果たしてそれは実現するのだろうか。

 お互いが別々の道に進んでいく。航は大学に進み、美里は家業を手伝う。航は東京に行き、美里は地元に残る。進む道も、住む環境も全く異なる。

 そんな状況でまた二人で同じ時間を過ごすことができるのだろうか。

 航が地元に帰ってきたとき、都会に染まって今とは全くの別人になってはいないだろうか。

 二人の思い出が、別の誰かと過ごすことで上塗りされたりしないだろうか。

 可愛い彼女ができて、自分のことなんて忘れてしまわないだろうか。

 考えたって無駄だし、ただの幼馴染である自分にそんなことを考える資格なんてないとわかっている。全部わかっている。

 それでも、考えずにはいられなかった。

 美里は、航のことが好きだった。


5


 航は美里のことが好きだった。

 きっかけは『高浜屋』の営業が再開した時。それまで中々声をかけられなかった航が「大丈夫か?」と聞くと、美里は胸を張って「当たり前じゃん」と笑って見せた。

 大丈夫なわけがなかった。父親が死んだのだ。誰だって辛い。加えて自分のことはそっちのけで母親を支えて、年頃の女の子が嗜むようなものは一切触れない。

 本当は辛いはずなのに、我慢をしてそんな様子を一切見せないその姿に、航は心を惹かれた。同時に、自分が情けなく思えた。美里が大変な思いをしている中、自分はただ日々を過ごしているだけ。そんな自分が嫌で、航は美里を支えられるくらい立派な人間になろうと決めた。

 たくさん勉強をして、いい大学に受かって、そこでたくさん学んで、色んな経験をして、立派になった自分で、美里に気持ちを伝える。

 その一心で、ここまで過ごしてきたのだ。

 航は、美里のことが好きだった。


6


「これは……想像の五倍は悲惨ね」

 

 美里は航の部屋を見てため息をつく。

 部屋は足の踏み場もないほど物が散らかっていた。無数の段ボールに、散らかった衣類、学校や塾から配られたであろうテキストや大量のプリント。

 どうしてこうなるのかと疑問符が浮かぶ。

 片付けをしていたとは到底思えないし、そもそもこんなにも物が溢れる前にその都度不要なものは捨てていけばいいだけの話なのだ。


「だろ?」

「何得意げな顔してるのよ」

「いや、別に……」

「これ、本当に昨日片付けしてたの?」

「最初は順調だったんだけど……。片付けるうちに懐かしいものに目がいっちゃって。つい色々と掘り起こしてたら、こんな有様に」

「航は子供のままね」

「もう十八歳、立派な大人だよ」

「見た目は大人、中身は子供の迷探偵、みたいな?」

「なんだそれ」


 気づけば二人の身長は逆転していた。ちょうど航の肩の位置に美里の頭がくる。美里がよくしていた身長いじりはもうすることができない。少しの寂しさと囂々とした苛立ちがある。


「それで、どうしよっか。まずはいる物といらない物の分別作業だよね。私は判断できないから、大まかにどれが必要か教えて」

「いやー、どれも捨てがたいんだよなー」

「そんなこと言ってるからいつまで経っても終わらないんでしょ? ほら、そこに散らばってるプリントなんて絶対にいらないでしょ」

「いやでもあれは俺が英語で初めていい点とったやつで」

「つまりゴミってことね」


 美里は容赦なくプリントをゴミ袋に入れる。


「あっ、ちょ……。まぁ仕方ないか……」


 航は美里に従う。決心がついたのか、航も次々に不要なものをゴミ袋に入れていった。

 ゴミ袋が四袋埋まったところで、美里は新しく段ボールを開けた。必要なものだけを取り出して一つにまとめたほうがいい。

 中にはいくつかおもちゃが入っていた。一見しただけでもだいぶ年季が入っていることがわかる。そんな中でも一つ、目につくものがあった。

 卓上カレンダーだった。


「航、これって」


 わざわざ卓上カレンダーについて聞く必要はない。ただ、『三月二十七日』に赤い丸印がついたこの卓上カレンダーには見覚えがあった。


「ああそれ、わかんないんだよな。他のものは覚えてるんだけど、それだけ思い出せなくって。それ十年前のやつだし」

「そう……」


 美里ははっきりとこのカレンダーを覚えていた。

 これは美里が航に渡したものだった。


「あのさ、航」

「ん?」

「来週にはもう東京行くんだっけ」

「そうだけど、どうして?」

「私さ、このカレンダーのこと知ってるんだよね」

「え、そうなの?」

「だから、東京に行っちゃう前に、このカレンダーのこと思い出させてあげようかなと思って」


 いい誘い文句だと自分で思った。

 元々、美里は航を誘う予定だったのだ。


「一緒に、スカイランタン見に行こうよ」


7


 三月二十七日。時刻は二十時ちょうど。

 たくさんの人々が集まった公園。その中にすっかり大人びた二人の姿があった。


「思い出したよ。あのカレンダーは俺がスカイランタンの日にちを忘れないように美里がくれたんだ」

「忘れるとか、ひどい」

「仕方ないだろ、十年前なんだから」

「もう十年か」


 普段過ごしているうちは何も思わないのに、振り返ってみると雪崩が崩れるみたいに一気に時間の流れを感じる。


「ね、私たちもランタン上げにいこ」


 美里は航の手を引いてイベント用に設営されたテントに向かう。

 そこでランタンとマッチ棒、マジックペンをもらう。


「航はなんてお願いする? 昔みたいに、おもちゃばっかり書かないでよ?」

「書かないよ。何を書くかは秘密」

「えーなんでよ。教えてくれたっていいじゃない」

「そう言う美里はなんて書くの?」

「教えなーい」

「自分も教えないじゃん」


 二人はそれぞれ自分の願いをランタンに書いた。

 七夕にお願いするみたいに、ランタンに願い事を書いて空にあげたら願いが叶う、そんな言い伝えがこの街にはあった。


「それではみなさん、準備はいいですか。3、2、1────」


 係員のアナウンスとともに、一斉にランタンが空へ昇っていった。

 二人のランタンも徐々に空高く昇り、小さくなっていく。


「ねぇ、航」


 美里は空を見上げながら、ポツリとつぶやく。


「私、航のことが好きみたい」


 気持ちを伝えることは決めていた。今まで、散々我慢してきた。父親が倒れて、思い描いていた学生生活は送れなかったし、母親に甘えることも、弱音を吐くことも我慢した。大学だって、本当は行きたい気持ちはあった。それでも、母親を一人にしておく選択肢はなくて、だからまた我慢した。

 でも、今日くらいは。

 好きな人────航の前くらいは、我慢なんてせず、自分の本当の気持ちをちゃんと伝えようと思った。


「あのさ、美里。俺はまだ美里の気持ちに応えられるほど立派な人間じゃないんだ。ドジで間抜けで頼りなくて。全部美里の方がうまくできて、頼り甲斐があって。だから、これから東京に行って、色んなことを学んで、色んなことを経験して、成長してここに戻ってきたい。そしたら今度は、俺から告白させてほしい」

「……東京に行っても、航は航のまま?」

「なんだよその質問。当たり前じゃん。俺は俺のままだよ。ただ、立派な人間になってくる。美里に負けないくらい立派に」


 美里は肘で航を小突いて「航のくせに生意気」と言って笑った。航もにっこり笑う。


「また一緒に見に来よう」

「うん。また、一緒に」


 空に浮かぶランタンは夜をオレンジ色に照らす。

 後ろで花火が咲いた。

 その光に照らされて、二人のランタンに書かれた文字が浮かぶ。


『これからも、二人の時間が続きますように』

『立派な人間になって、二人の時間を迎えに行きます』


                           

                                                                    完

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