表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

台風、歯の痛み、僕のことを知る女

作者: kei+

 唐突に歯が痛み始めたのは、ちょうど台風が列島を直撃した日のことだった。

 その年はどちらかといえば冷夏で、海面温度が低いのか台風の発生も少ない傾向にあり、九月半ばになっても台風はひとつとして上陸していなかった。専門家も、もう今年は台風が来ないまま秋を迎える可能性が高いだろう、観測至上はじめての現象だと息まいていたし、誰もがその情報を信じきっていた。

南洋で台風の卵が発生したときも、おそらくそれまで通り大陸側に逸れていくのではないかという見方が大勢で、どの天気予報でもそう予報していた。週間天気予報には晴れのマークをずらりと揃え、紫外線が強いので日焼け対策には充分注意するようにと伝えた。

 実際その通り、台風は緩やかに発達しながら北西の方向に進んでいた。大陸側の国では台風上陸への警戒感を強めていた。

そのころ僕は、付き合っている女の子と久しぶりに食事をしていた。さっぱりした和食が食べたいという彼女を説得し、僕は友人からパスタが美味しいと聞いていたイタリアン・レストランに向かった。

 はっきり言って、僕はそれほどパスタが好きなわけではない。少し気取った雰囲気があるし、満足感にも欠ける。しかし、その日はどうしてもパスタが食べたかった。それまで生きてきた時間のなかで、まさしく最もパスタへの欲求が高まった日だったと断言できる。

 古い洋風の民家を模した店の雰囲気は悪くなかった。少し迷ったあとで僕はボンゴレを、彼女はカルボナーラを注文した。味も良かった。パスタの良し悪しを判断できるほど味覚に自身はないが、確かに噂どおり美味しかったと思う。

 おそらく、その美味しさがいけなかったのだろう。

 僕は彼女の話に曖昧に頷きながら、食べることに対して神経をおろそかにしていると、パスタを絡めて口に運んだフォークを誤って強く噛んでしまった。噛んだとわかった瞬間にまずいと思ったが、もはや手遅れだった。

 すぐに店の化粧室に駆け込み鏡で確認してみたのだが、見事に僕の前歯は三分の一ほどかけてしまっていた。特に痛みはなかった。しかし、生まれてから一度も虫歯になったことがなく、歯が丈夫なことだけが自慢だった僕は、大きなショックを受けた。

 その日は食事を終えるとすぐに彼女を家に送り、家に帰ってそのまま寝た。歯が欠けてしまったという事実を受け入れられなかった。今になって思えば、すぐさま歯医者に行っておけばよかったと思うのだが、そのときの僕はすっかり動揺してしまっていて、冷静な判断ができなかったのだった。

 次の日の朝、ようやく落ち着きを取り戻した僕は、舌の先で前歯の欠けた部分を舐めながら、欠け落ちた歯の欠片はどこに行ってしまったのだろう、と考えた。

 歯が折れたならば、必ず折れて分離した欠片が存在しているはずだし、口の中に異物として残っていなければならない。だが、フォークを噛んだ直後にはすでに、口の中には欠片のようなものは残っていなかった。食べようとしていたパスタは皿に戻したので、口の中は極めてクリアだったにもかかわらず。もちろんパスタの皿のほうも探してみたのだが、やはり見当たらなかったのだ。

 そうこうしているうちに、つけっぱなしにしていたテレビでちょうど天気予報が始まった。

 いつになく深刻な顔をした人気の女性キャスターが、台風が進行方向を列島側に変えながら北上していることを真っ先に報じた。その台風の方向転換は、現在の気象学の見地からするとほとんど事故に近いようなものなのだ、と机上の資料を見ながら説明していた。どんなに気をつけていても車に撥ねられる危険性はあることを引き合いに出した上で、結局はそれが今の気象予測の限界なのだと大袈裟に嘆いてみせた。

 しかし、その時の僕にとっては台風の進路などさして重要なことではなかった。目下の問題は欠け落ちた歯であり、人前で笑うことが許されない状況を打開することだった。

 僕は歯が欠けてからというもの、歯医者に行くタイミングを計っていた。早く行ったほうがよいと頭ではわかっていたが、優柔不断な性格のせいでなかなか踏ん切りがつかない上、間の悪いことに仕事も忙しかった。それで、ついつい歯医者を先延ばしにしてしまったのだった。

 やがて数日のうちに、あのキャスターが言ったとおり台風はやってきた。

 北上する間に勢力を増し、列島に到達する時点ではすでに近年稀にみる規模にまで成長していた。天気図には列島を覆い隠すばかりの大きさで等圧線の円がいくつも描かれ、学校は軒なみ休校となり、公共の交通機関は早々と欠航を決めた。

 進路予測では、昼過ぎには列島の南西から上陸し、向きを北東に変えながら列島をなめるように移動するとされていた。僕の住んでいる地域でも朝方から厚い雲が空を塞ぎ、湿った生ぬるい風が吹き込んでいた。さすがに大型の台風が来るとあって誰もが出足を控えているのか、その日の仕事はさほど忙しくならなかった。僕は夕方までに早々と切り上げてショッピングモールに立ち寄り、水や食料やろうそくなどをたっぷりと買い込んだ。

 夕闇が迫ってくると、いよいよ風が強まってきた。僕は自宅でシャワーと食事を済ませ、いつ停電してもいいよう準備を整えて待った。

 テレビは延々と台風情報を繰り返していた。すでに暴風域に入った地域の映像が映し出される。信号機が斜めに傾ぎ、電線は切れ、風にあおられて鞭のように何度も路面を叩いている。川の水があふれ出し、マンホールのふたを躍らせていた。確かにひどい台風のようだった。翌日の仕事は天候の行方次第で出勤させるかどうかが決まることになっていたが、この分だとさすがに自宅待機になるだろう……明日の朝もゆっくりできると思うと、連日の仕事の疲れがどっと染み出してきて、僕はゆるやかな眠りに引き込まれていった。

 頭からつま先まで一気に引き裂かれるような痛みで目を覚ましたのは、辺りがすっかり闇に覆われた真夜中のことだった。

 しきりに雷鳴がとどろいているのが聞こえたから、寝ぼけ頭ながら本気で自分が雷に打たれたのだと錯覚した。しかし、実際の痛みの源は顔の周辺であり、さらには口であり、前歯であることを認識すると、僕の身に何が起こっているのかようやく理解することができた。つまり、折れた前歯の部分が今さらながら痛み出したのであった。

あまりの痛みの激しさにすっかり目が覚めてしまったので、とりあえず風邪薬として持っていたアスピリンが歯痛に効果があることを思い出し、めったに開けない引き出しを探って何錠か取り出し、奥歯で噛み砕いてから水で流し込んだ。それから目をつむってソファーに横たわり、痛みがひくのを待った。

 そうしてしばらくすると、薬の効き目なのか、それともただ単に痛みに慣れてしまっただけなのか、わずかに痛みが和らいできたように感じられた。しかしながら結局こうして待っていても事態の根本は改善されないのだと思い当たり、電話帳を開いて近所の歯医者に電話をかけることにした。しかし、つながらない。よく考えれば深夜なのだ、普通の歯医者が開いているわけないじゃないかと気づき、少し離れてはいるが深夜まで開いているところに電話をかけてみた。しかし、やはりつながらない。時計に目をやるとまだ十二時にもなっていなかった。記憶の限りでは、大手の歯医者は朝方三時くらいまで営業しているはずだ。僕は軽く混乱した。

 電話を握り締めて呆然とし、そこでようやく台風が直撃しようとしていたことに気づく。慌ててテレビの電源を入れる。赤い暴風域の円がじきに僕の住んでいる辺りを呑み込もうとしていた。カーテンを開けてみれば、窓の外では強まった雨風が木の枝を激しく揺らせている。夕方、テレビで見た光景へと確実に近づいていた。

 なんてこった、僕は行き場のない状況に置かれてしまったのだ……状況を把握してしまうと、今度は諦めと絶望が同時に襲ってきた。一晩中、この激痛と闘い続けなければならないのか。想像するだけで暗い気持ちになった。

 とにかく僕にできることは、電話帳に掲載されている歯医者に片っ端から電話をかけていくことだけだった。最初は近い場所にこだわっていたが、もうその辺りに開いている歯医者がないと知ると、今度はすがりつくような気持ちで隣町の歯医者をひとつひとつ潰していった。

 何軒の歯医者に電話しただろう……もはや最後の望みと祈るような思いで番号を押した最後の歯医者で、ようやく受話器から人の声が響いた。

「はい、ラッキー歯科でございます」

 深夜にはまったくそぐわぬ、よく通る女の声が耳を刺した。ただでさえ歯の痛みで具合の悪いのだ、思わず受話器からのけぞってしまう。それでも僕は、とにかく人に繋がったことが嬉しくて仕方がなかった。

「あの、あの、歯が痛くて、それで今からすぐにそちらに向かいたいのですが」

 僕は気が急いてどもりながらも、なんとか自分状態と名前を告げた。そして、おおまかな歯医者の所在地を聞き出した。その隣町自体は結婚した妹が住んでいることもあって、ある程度は地理に明るかった。その歯医者は表通りから少し引っ込んだところに位置しているようだったが、通ったことのある道だったので想像ができた。

「はい、診察ですね。何時ごろにいらっしゃるご予定でしょうか」

 今すぐに家を出るつもりで、はっきり何時に着くかはわからないが、おそらく一時間もかからないのではないか、と告げた。

「かしこまりました。ではお待ちしております。気をつけていらっしゃいませ」

 そこで電話は切れた。極めて事務的な対応ではあったが、むしろこの緊急時にこれだけ整った対応をされたことのほうが驚きだった。

 だがなにはともあれ、歯医者のあてはついた。僕は地下のガレージに降りて車のエンジンをかけた。エンジンをふかして外に出ると、ゴミ置き場に設置されているはずのブリキの看板がまるで新聞紙のように軽々と飛ばされて、フロントガラスのすれすれを横切っていった。

 

 歯医者に着く頃には風だけではなく雨も激しさを増してきており、ワイパーを動かしているというのに視界はほとんど奪われてしまう状態だった。真夜中であり、その上この天候ということで僕以外に車を走らせている人間はおらず、あまり運転に気を使う必要はなかった。歯の痛みをこらえながら、ほとんどノンストップで駆け抜ける。

 時間的にはまだ大きな暴風域に入っていないはずだったが、これ以上にひどくなると思うと背筋に冷たいものが走った。

 その歯医者は住宅街の一角に立つマンションの一階に入っていた。すでに寝静まった真っ暗闇の街並みにこうこうと明かりをつけて営業している歯医者というのも、なかなか不気味なものだった。

 駐車場には、当前といえば当前だが車は一台もとまっていなかった。僕のような緊急を要する者を除けば、普通の患者はわざわざこんな日を選んで歯をみてもらいには来ないだろう。もしかすると、あまりにも患者が来なくて経営に困っているのではなかろうか。ここにきて歯科医の腕にやや心配が過ぎった。とはいえ、何はともあれ途方もない歯痛がやむと思えば、もはや治療さえしてもらえばいいという気持ちにもなる。

 駐車場から建物の入り口まで屋根のない部分は五メートルもなかったが、上着は思ったより濡れてしまった。肩に乗った水滴を払いながら歯医者に入ると、受付に座って女が机上の書き物から顔を上げて会釈をした。二十台半ばといった感じで、どこか軽薄そうな印象を受けた。待合室を見渡したところ患者はおらず、がらんとした中でテレビの台風情報だけが音を響かせている。

 僕は受付に近づき、さきほど連絡した者だと名乗った。それから、初診の人に書いてもらっているという問診表を差し出され、名前や住所といった事項を記入する。顔を下に向けると、血のめぐりのせいか余計に痛みが意識された。痛みと格闘しながら記入し終え、紙を受付の女に戻す。

 女は紙面に目を通しながらパソコンに入力していくが、やがてその手が止まった。そして、おもむろに僕の顔を眺めて言う。

「馬渡さん?」

 馬渡というのは僕の名前だったので、頷く。あまりにも親しげな口ぶりだったから、どうして彼女が僕の名前を知っているのかと訝った。が、何のことはない。今まさに問診表に書いて渡したばかりなのだ。痛みのせいで思考が鈍っている、と僕は思った。

「先日、前歯が欠けてしまった部分が急に痛み出したんだ。とにかく、早く治療をしてほしいんだけど」

 僕の申し出に、彼女は笑顔のまま首を横に振る。

「……いや、と言ったら?」

 あまりにあっけらかんと言うので、僕は前歯が欠けてまぬけな状態にあることも忘れ、ぽかんと口を開けて彼女を見返すしかなかった。そして、なおも悪戯げな笑みを崩さない女に、馬鹿にされたような気になって徐々に怒りが湧いてきた。

 そんな僕の様子を見取ってか、彼女のほうが先に口を開いた。

「だって馬渡君はわたしに気づいてくれないんだもの。ほら、まだ分からないの」

 そう言って、彼女は後ろで束ねていた髪をこれ見よがしにほどいてみせた。長い黒髪が肩にかかり、仕事一筋といった風貌からずいぶん女の子らしい印象へと変わった。しかし、それでも僕はこれまでに彼女のような女性と会った記憶がなかった。少なくとも大人になってからは。

 何度か街で出くわした女の子と酒の勢いで寝た経験もあったが、彼女ははっきり言って夜遅くまで酒を飲んでいるような子にはとうてい思えなかった。仮に何かの間違いで酔っ払って街を歩いていたとしても、彼女のような子をホテルに誘うようなことはしない。僕は後腐れのない軽薄そうな女としか寝ないと決めているからだ。

 となれば、残るは小さい頃の顔見知りという可能性だ。だが仮にそうだったとしても、おそらく姿形がまるっきり変わっているから気づくのは容易でないだろう。それは向こうも同じはずだ。なのに、彼女は僕のことをひと目見ただけで僕のことに気づいた。だとすればそれなりに親しい仲にあった人物のはずだ、と僕はすいぶん昔を思い起こしてみる。しかし上手く頭が回らない。きっと、歯の痛みのせいなのだ。

 もうこれ以上考えたとしても埒があかないので、僕は気づいたフリをすることにした。どちらにしても一刻も早く治療をしてもらうには、それしかない。賭けだった。

「ああ、久しぶりだね。本当に。外見の印象がすっかり変わってしまっているから、わからなかったんだ」

 僕は薄い氷の上に足を踏み出すような気持ちで、その一言を切り出した。彼女は相変わらず笑顔のままだった。本当に思い出したのかどうか、まだ判断しかねているところなのかもしれない。僕は言葉を続ける。

「初めて会ったような気がしないとは思っていたんだ。でも、なんというか……すごく魅力的になったね」

「それ、本気で言ってくれているの? 馬渡くん、前はあまりそういう軽口を言うような人じゃなかったよね。でも本気で言ってくれているなら、嬉しいかも」

 馬渡くん、と彼女は言った。つまり彼女にとって僕は対等の立場で話ができる存在である、ということだ。そしてもうひとつ、彼女は過去の僕に対して、どちらかといえば口下手な印象を持っているようだということがわかる。こうして少しずつ会話の中から探り当てていけば、ある程度まで正解に近づけるのではないか。

 ようやく僕が気付いたことを信じてもらえたのか、診察室に招き入れてくれた。僕を椅子に座るよう促した。背もたれを倒しライトをつけてから、彼女は奥の部屋に引っ込んだ。医者を呼びに行ったのだとばかり思い、手元のおぼつかない老いた医者が出てきたら嫌だなと考えていたら、部屋からマスクとゴム手袋をして出てきたのは他でもなく彼女だった。 

「驚いたでしょう。歯科医になる、なんて夢を馬渡くんに話したことはなかったもんね。どうして話さなかったんだろう……今となってはわからないけれど、きっと当時のわたしには何らかの理由があったんだと思うわ」

 彼女はステンレスの器具を取り上げて僕の口を固定しにかかった。口が動かせないようになれば彼女の質問にいちいち答える必要がなくなる。あまりに都合よく返答しているとぼろが出るのではと恐れていただけに、僕は救われたような気持ちになった。

「あのとき唯一わたしが本音で話すことができた男の子は、馬渡くんだけだったわ。というより、学生時代を通じて、と言ったほうがいいかもしれない」

 学生時代、というキーワードに僕は反応する。僕と彼女が知り合ったのは、どうやら学生時代であるらしい。それも、彼女の口ぶりからするとそれほど遠い過去のことでもないようだ。何より歯科医になりたいなどという極現実的な夢は、小学生や中学生には似つかわしくない。残るは高校か、大学か。

 女の手は僕の口内に伸びる。手にしているのは注射器で、おそらく麻酔を打とうとしているのだろう。そんなとき患者に対してべらべらと話しかけるのは危険なのではないかと思うが、なおも彼女はマスク越しに語り続ける。饒舌に。

「そういえばさ、隣のクラスに高橋君っていう男の子がいたでしょう。あの人がプールの女子更衣室にビデオカメラをしのばせて、盗撮をしていたっていうのは本当の話なの?」

 歯茎にちくりと痛みが走る。そして彼女が薬液を押し込むのと同時に歯の痛みと同等といっていいほどの激痛が襲った。僕は思わず顔をしかめた。高橋について考える余裕なんてない。もうすぐ麻酔が効いて痛みがなくなるから我慢してね、と女は注射針を丁寧にビニールキャップでくるみながら言う。これ以上、治療の過程を見ていると気分が悪くなってしまいそうだった。僕は彼女の話に耳を傾けるふりをして、適当に頷きながら目をつむる。天井のライトが閉じた瞼の裏を赤く染めた。

「たしか、その高橋君が馬渡君と同じクラスだったような気がするのよ。あの人、背も低かったし、容姿も本当に影が薄くて、覗きが噂になってもいったい誰がその高橋なのかわからなかったのよ。でもそういう目立たない人に限って怖い一面を持っていたりするのかもしれないわね。ほら、よくテレビで逮捕された人の印象を昔の知り合いにインタビューしているでしょう。答える人は決まってこういうでしょう。どちらかといえばあまり目立たない子で、だけど他の人と比べて特に変わったところはなかったように思う、って」

 そういえばそうかもしれない、と僕は心の内で相槌をうつ。似たようなインタビューの映像を何度も繰り返して見たような気がした。

麻酔がきいてきたのか痛みが薄らいで、口の周りが痺れ始めていた。おかげでようやくまともな考えができるようになってきた。高橋のことを思い出してみる。高橋ときいてすぐに思い当たるのは大学の同級生だ。だが彼は話好きで顔も広く、クラスでも目立つほうだった。

 高橋……。僕は歯とステンレスの器具が触れ合うような硬質な音を耳にしつつ考えてみる。じっくりと記憶を掘り下げたあげくぼんやり浮かんできたのが、高校の頃に同じクラスにいた高橋の存在だ。しかし彼が高橋という名だったかどうかは明確に思い出せない。おそらく高橋だったような気がする。ならば彼女も高校時代に僕と知り合ったのだろうと推測がついた。

 たしかに僕の思いついた高橋という男は、記憶に残るような男ではなかった。むしろ最も他人から憶えられない類の人種だったといっていい。顔はそれほど醜いということもなく、整っているわけでもなかったと思う。いつも前髪が長くて表情がつかみにくく口数は極端に少ないほうだった、気がする。休み時間はどこにいたのだろうか。確かにいわれてみれば僕は一年間ほど同じクラスにいてまともな会話を交わした憶えがない。

「それでね、高橋君、盗撮した更衣室の映像を編集して売りまわっていたみたいなのよ。どういう経路で売っていたのかは知らないけど、友人がクラスの男の子から借りたDVDを見たことがあるの。その映像にはたしかに着替えをする女の子の姿が映っていたわ。あまり映像がきれいだとはいえないけれど、着替えている子の顔ははっきりとわかったわ。油断しきった姿の女の子たちが」

 その話は僕も耳にしたことがあった。高校三年に進級しようする頃だろうか。誰かはわからないが更衣室にカメラをしこんで盗撮をしているやつがいる、という話がまことしやかに囁かれていた時期があった。もし本当なら一度は見てみたいものだと仲間うちで話した憶えはあるが、誰が撮っているのかまではわからなかった。あまりにも話が漠然としている上、誰が盗撮しているのかちっとも情報が進展しないため、最終的に飽きてしまい、次第に都市伝説化したのではなかったか。実際に映像を目にしたという者もいたようだが、真偽のほどは怪しかった。

「それでね、盗撮されて、そのうえ映像が売られていたという事実はすごく腹立たしいんだけど、問題はそこじゃないの。映像にはわたしと同じクラスの女の子たちがみんな映っていたの。当然よ、ご丁寧にすべてのクラスの着替えを撮影してあるんだから。もちろんわたしはその映像に憤りを感じつつ自分の姿を探したわ。でも、どこにもわたしは映っていないのよ。わたしだけ別に着替えていたというわけでもないのに。最初は映っていなかったことに安堵したんだけど、時間がたつにつれて不安になってきたの。どう考えたっておかしいでしょう、絶対にいるべき場所に自分の姿がないのよ」

 そこで僕は再び目を開ける。もしかすると彼女が冗談を言ってからかっているのではないかと疑ったからだ。彼女の顔は思ったよりもずっと間近にあった。顔の大部分はマスクに隠されていて、視線は僕の口の中に注がれている。表情はわかりづらかったが、とうてい冗談を言っている顔には見えなかった。

だが、彼女の話が冗談でなく真実だと仮定するなら、むしろそちらのほうが奇妙だった。実際に彼女が更衣室の中で着替えをしていたとして、その始終を記録した映像に映っていなかったとするなら考えられる現実的な可能性はひとつしかない。映像を編集をした人間が彼女を消したのだ。なぜ。彼女は容姿も美しいほうだし、いやらしい目的で撮られた映像から除外すべき対象になるとは思えない。

 そこで僕ははたと我に帰る。どうして僕は彼女の話を真に受けてしまっているのか。そもそも名前すら思い出せないでいるのだ。彼女が僕のことをさも知っているかのように話すから、僕と彼女は知り合いなのだという前提で考えていたが、そうではない可能性だって充分にある。僕が忘れているのではなく、彼女が勘違いをしているのだ。そのほうがいたって真っ当な考えだ。

 しかし。

 高橋の話はどう説明すればいいのか。さきほどまで薄っすらとしか思い出せなかった高橋という男は、今ではその存在が確かだったと思えつつある。それに、僕は高校時代の彼女のことを知っているような気がしていた。予感のような曖昧なインスピレーションでしかないが、初めて対面したという気がしない。結局、事実を見極めるには、どちらかを選ばなければならないのだ。自分の記憶か、彼女の話か。自らの記憶に自信をもてないでいる自分へ苛立ちをおぼえる。

 僕はいくつか質問したいことがあった。しかし僕の口は拘束されていて、動かすことができない。意思表示ができないことがこれほどもどかしいとは思ってもみなかった。

 治療に集中しはじめたためか、それから彼女は口を開かなかった。さっきまであれだけ饒舌に話していたのに、何でもいいから手がかりをくれ、と僕は念じるが届かない。すぐ目の前に彼女の顔がある。肌のうぶ毛も、ファンデーションのわずかな乱れでさえも確認できる近さなのだ。なのに、僕は彼女とのただならぬ距離を感じる。まるで背中合わせで立っているのに、地球を一周しなければ接触できないような、そんな現実離れした距離感。

 

 治療が終わったのはそれから一時間ほど経ったころだった。麻酔が効いて睡魔が襲ってきたのに、眠ってしまうといけないような気がして眠れなかった。ようやく口の器具を外されて自由になったが、麻酔はまだ効き続けていた。言葉を発しようとしたがうまく形にならない。下手をすると舌を深く噛んでしまいそうだった。何度か試みたが、情けなくなってやめた。

 僕は待合室に戻されると、果てしない疲れを感じた。ソファーに体を埋めて中空を眺めた。だから、僕は自分の名前を呼ばれたことにも気づかなかったのだ。

馬渡さん、と僕の隣で肩を叩いたのは、先ほどまで治療をしていた彼女とは別の女の子だった。そもそも医者が受付を兼ねるというのが変な話だから、雇っている子が時間に遅れてやってきたのかもしれない。なにしろ外は嵐なのだ。

 僕はその女の子に差し出された領収書を受け取り、そこに書かれている金額を手渡した。治療してくれた先生は、とでも訊こうと思ったが、口の痺れ具合からして上手く話せるとは思えない。結局、僕はそのまま立ち去ることにした。どうしても気になるのなら、いずれ歯のケアだとか理由をつけてまた訪れればいい。

 外に出ると雨風はずいぶんおさまっていた。時間的にはまだ台風のさなかにいるはずなのだが、もしかすると台風の目の中にいるのかもしれない。ならばまたひどくならないうちに家に帰ろうと思い立ち、急いで車を出す。

 夜道に車を走らせながら、僕はあの歯医者でのことを思い出す。どうして僕は、彼女のことを知らないとはっきり伝えなかったのか。オレンジ色の街灯が車内を断続的に照らし出す。違う、と僕は思いつく。伝えなかったのではなく、伝えることができなかったのだ。もしくは、伝えるべきではなかったというべきか。

 もし口を拘束されて麻酔を打たれる前に、僕の記憶には君が存在していないのだと伝えていたなら。目の前の信号が赤く点滅している。夜間は自動的に点滅信号へ切り替わるのだ。思い切りアクセルを踏んでみる。タイヤが路面の水を跳ねる音が激しくなる。次の交差点で車が横切るともしれないのに、どうして僕はアクセルを踏んでいるのだろう。

 結局、何事もなく交差点を通り過ぎる。そして交差点を通り過ぎてスピードを緩めはじめたときには、僕は自分が正しい選択をしたのだという確信を抱いている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ