◆第83話◆ 『ゆっくりでいい』
小さな風音だけが響く静かな夜。寂しくもあり、どこかロマンチックさも感じる空間。そこに、ゆっくりとした足音が響いていた。その足音は一つ。
星宮を、庵がおぶっていた。無論、理由もなくおぶっているわけではない。先ほど、星宮が庵を踏み切りから突き飛ばした際に、星宮は足を捻挫していたのだ。よってこのような状況に至っているわけだが、お互い、どこか気まずそうな雰囲気を纏っている。
「......軽いな、星宮って」
「当たり前です。体型管理してますから」
「なんかそれ、前も聞いた」
「......」
「......」
たまに会話が続いて、途切れる。それの繰り返し。その会話が途切れたあとの空白が絶妙に気まずく、何も無い静寂がやけにうるさく聞こえてしまう。
さっきまではお互いに感情が高まりまくっていろいろと饒舌になっていたが、今はだいぶ落ち着いてしまったのだ。落ち着いたとはいっても、お互い胸の中の想いはいっぱいだが。
「......話したいことは沢山ありますけど、今はとりあえず休憩ですね」
「......そだな」
庵は短く頷く。だが、直ぐに星宮がもじもじとしだして――、
「......天馬くんは、さっきの私の話に納得できましたか?」
「休憩するんじゃないのかよ」
「......ごめんなさい。でも、これだけは聞いておきたいんです。納得してないなら、天馬くんに分かってもらうまで、また言い合いすることになっちゃいますし......」
「......」
星宮が悲しそうに言うので、庵も言葉を返し辛くなってしまう。
今は良い感じに落ち着いている二人であるが、それは先ほどの『星宮が庵の命を救った』ことによる効果が大きく関与している。結局、庵が立ち直るかどうかの話は、何一つ進んでいないのだ。
だからこそ星宮の懸念はもっともである。根本的な問題の解決は何もできていないのだから。
「まあ......そうだな」
「......」
慎重に言葉を選んで、意思を伝えようとする。自分の考えも、星宮の考えも尊重して。
「納得は......正直できてない。ぶっちゃけまだ立ち直れないって思ってる」
「......」
「でもさ......星宮の言葉が正しいって思う自分がちょっとはどこかに居る。このことは、ちゃんと認めるよ」
「......そうですか」
問いに対する答えはとても曖昧なもの。でも、これが庵の本音だ。立ち直れないという確固たる考えが、星宮の言葉によって揺らがされた。この事実を庵は認めている。
「......俺って、立ち直れるのかな」
「当たり前ですよ。立ち直れます」
「......どうだろうなぁ」
会話のキャッチボールは自然にできても、それは表面上の話。今の庵の心は相変わらずにボロボロのままだ。そこはまだ、何も変わってはいない。
「俺、星宮と話してると胸痛くなるなぁ」
傷ついた心は、簡単に癒えはしないのだ。
***
――長い帰路を歩き、庵と星宮は天馬家へと到着した。
「おお庵っ、帰ったか!」
帰宅早々、玄関で待ち構えていた恭次が出迎えてくれた。そんな父の喜びも束の間、恭次は庵におぶられている星宮の存在に気づく。
「星宮さん。一体、どうしたんだ」
「えっと......ちょっと足を怪我しちゃって......」
「ああ......そうなのか」
苦笑いしながら答える星宮。恭次は眉を寄せるが、ぶっちゃけ父親の優先順位は星宮よりも子である庵。直ぐに庵に視線を移して、何かを問いかけようとする。
「いお――」
「俺のせいで星宮を捻挫させた。今から手当てするから」
タイミング悪く二人の言葉が重なってしまって、恭次は発言する隙を失った。その事を残念そうに恭次は顔をしかめる。
しかし、庵が星宮をおぶりながら自室への階段を上る最中、一瞬だけ立ち止まって。
「――父さん。いろいろ心配かけてごめん」
その言葉に、数秒の間を開けて、恭次は感慨深そうに胸を撫で下ろした。
***
庵の自室にて。
「ちょっと冷たいけど、我慢だな」
「んっ」
捻挫の応急措置をググった庵は、調べた通りに患部を氷で冷やしていく。あとはテーピングをすれば応急措置は完了らしい。
どこか背徳感を感じるが、星宮の足をめちゃくちゃ触らせてもらった。こんな精神状態でもやはりドキドキはする。思春期の男の子なので。
「ふぅ......わざわざありがとうございます天馬くん」
「まあ、ほぼほぼ俺のせいで怪我したんだし、これくらいして当たり前だろ」
「それが私にとっては当たり前じゃないんですよねー」
考え方は人それぞれ。星宮はどこか嬉しそうに、庵の手によって施されたテーピング部分を見つめる。些細なことかもしれないけれど、この些細な優しさが星宮にとって温かいのだ。
「......まあ、それでさ星宮」
「はい?」
不意に庵が星宮の名前を呼ぶ。そこには、真面目な顔つきの庵が居て――、
「この前は、殴ってごめん。めちゃくちゃ怖がらせたよな。本当に、ごめん」
「あぁ......」
星宮は納得する。庵は、星宮を傷つけたことを特に気にかけているのだ。もしかしたら、そこを一番気に病ませているといっても過言ではないかもしれない。
ここで下手に「大丈夫ですよー」なんて返したら、余計庵の心をモヤモヤさせる可能性がある。だから返答はとても慎重に行わなければならない。星宮は数秒の思考の末、口を開いた。
「もうしないって約束できるなら、いいですよ。許しちゃいます」
約束という形にすれば、庵に責任感が生まれて多少は心のモヤモヤを晴らせるはず。そう星宮は考えついた。
「約束、か」
「はい。約束です」
そう言って、星宮は庵に小指を向ける。
突きつけられた指を見て、庵はふと思う。こんな簡単に許されてもいいのか、という疑問を。だが、それを言い出したらまた前の話に逆戻りだ。そんなこと、きっと星宮は望んでいない。
情けないが、今は星宮の優しさに甘えるべきなのだろう。
「はい天馬くん。指切りです」
「ああ......分かった」
二人の指が絡んで、指切りが行われる。庵は真面目な顔つきで、星宮は少し楽しそうな様子で。
「もう星宮を絶対に傷つけたりしない、約束する」
「はい。嘘ついたら針千本ですよ」
「それは怖いな」
そんな冗談に、庵が少しだけ笑みを顔に浮かべた。いつぶりに庵は笑ったのだろうか。笑ったということを本人は自覚していないだろうが、星宮だけがその変化に気づく。少なくとも、庵の笑みを見るのはとっても久しぶりで――、
「......良かった」
心の底から、そう言葉が漏れていた。うっすらとした笑みでも、それさ笑みには代わりないのだから。
「あと星宮、もう一つ俺の話なんだけどさ」
「はい?」
再び真面目そうな雰囲気に庵が戻ったので、星宮もシャンと背筋を正す。言いにくそうに庵は重々しく口を開く。
「俺は、自分が立ち直れないって思ってる。こうやって今星宮と話してるのも、無理矢理自分にカツを入れて話してるだけだからさ」
「......」
「でも」
庵が顔を上げる。二人の視線が交わった。
「立ち直る努力はしてみる」
「っ」
「時間はかかるかもしれないけど、こんだけ星宮に言われたんだから、努力はしてみるよ」
星宮の胸がじわりと温かくなる。何せ、その言葉をずっと待っていたのだから。
星宮は庵が今すぐ立ち直ることなんて望んでいない。それが不可能であることを、星宮は身をもって知っているからだ。まずは立ち直るためのスタートラインに立つ。そこまで持ってくることが、とても重要。
珍しく感情が溢れそうになる星宮だが、なんとか堪えて、小さく微笑む程度に抑える。でも、しっかりと言葉は伝えた。
「はい。それでいいんです。急に立ち直るなんて、無理な話ですよ。頑張っていきましょうね」
ゆっくりと立ち直っていこう。誰も、急かさないから。
だいぶ元気になったように見えますけど、虚勢です。まだボロボロです