◆第82話◆ 『全ての始まりを、もう一度』
――ヒーロー。そんな風に言われたのは、初めてだった。
そんな潤んだ瞳で見つめないでほしい。庵はヒーローなんて呼ばれる資格はない。星宮を傷つけ、泣かせたクズ。ただのクズなのだから。
必死に星宮の言葉を否定しようと、言葉を考える。
「あれは......北条の力があってからこそ助けられたんだ。だから、本当のヒーローは俺じゃなくて北条だ」
「そうだとしても、あの場で私を助けてくれたのは天馬くんなんです。過程がどうあれ、私は天馬くんに助けられたことに変わりないんです」
「......買いかぶりすぎだぞ」
庵が苦々しくそう反論すれば、星宮は無言で首を横に振る。その様子から、もうどれだけ星宮の言葉を否定しようとしても否定しきれないと庵は察した。
星宮は本気で庵のことをヒーローだと思っている。
「これで分かりましたか天馬くん。私が、ここまでして天馬くんを助けようとする理由が」
「......」
助けようとする理由は分かった。ここまで回りくどい真似をして助ようとする理由には、しっかりとした背景があったことをよく理解できた。だが、それを認めるわけにはいかない。認めてしまえば、それは星宮の言葉を肯定するということになるのだから。
星宮の差し出す手は取れない。これは罠なのだと自分に言い聞かせ、揺れる心にストップをかける。言葉に惑わされてはならないのだと。
「俺は......クズだ。それにもういろいろと疲れて、何も考えたくない」
「疲れたのなら休みましょう。私がいつまでも付き合います。それに、天馬くんはとても優しい人ですよ。客観的に見たら、天馬くんはとても輝いて見えるんです」
疲れたのなら休む。休んだところで、この壊れた心は癒えていくのだろうか。とてもじゃないがそうは思えない。この荒みきった心はもう、修復不可能だ。
――それなのに今、壊れた心が弱々しく震えている。まるで星宮の言葉に呼応するように。それが気持ち悪くて仕方がない。
「......マジで、なんでそこまで俺を惑わせるんだよ」
庵はその場にしゃかみこみ、荒々しく髪を掻きむしる。
明らかに星宮に気持ちを揺さぶられていた。別に戦っているわけではないが、圧されていることは確か。いつの間にか立場が逆転している。
「クソがクソがっ」
どうすればいいか分からない。揺れる心。乱される感情。一体何に従って行動すればいいのやら。
心の足場が不安定になる庵。その揺らぎに乗じて、星宮は更に追撃をかける。
「大丈夫です。直ぐには無理かもしれませんけど、天馬くんはきっと立ち直れます。私が保証しますし、手助けもします」
「......っ」
「だから、とりあえず前を向いてください。マイナス思考はよくないです。天馬くんが自分を責める気持ちは分かりますけど、とにかく前を向きましょう」
「......無理だ」
「無理じゃないです。天馬くんならきっと大丈夫なんです」
星宮の言葉が重い。勝手な事を言わないでほしい。そう、庵は頭を悩ませる。
もう立ち直れないのだと、ついさっきまで分かっていたのに、こんなにもあっさりも考えが揺れてしまうなんて。揺れてはいけない。
疲れた。もう何もかもが嫌だ。立ち直れやしない。
「......無理だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ!」
「天馬くん?」
大切な母を失って、大切な女子を殴って振って、大切な後輩にもボロクソ言われて、大切な父にも傷つけられて――。
こんなとこから、立ち直る? 無理だ。絶対に無理だ。
こんな言葉の誘惑に乗ったところで、何も変わるわけがない。何も変わらないのだから、立ち直る意味なんてない。そもそも、こんなどん底からなんで立ち直らせようとするのか。意味が分からない。どん底からリスタートするくらいなら、もう諦めさせてくれ。
様々な感情が渦巻く。星宮の宝石級の可愛さが、庵だけを見ている。鼓動が早く、息が荒い。手汗が吹き出し、それを握りしめる。
結局、何を答えにしたいんだ。
「あああああっ!!」
「えっ。ちょっと、天馬くん!」
天馬庵は、公園から逃走した。暗い夜空の下、その姿を眩ましていく。
***
――走った。ひたすらに走った。
「はぁっ。はぁっ」
どこか目的地があるわけでもなく、ただ無我夢中で足を動かす。慌ただしい足取りで、何度も転びそうになりながら足を動かした。
「はぁっ。はぁっ」
何故か涙が溢れそうになる。胸の中がごわごわとして仕方がない。いろいろな感情がさっきからしっちゃかめっちゃになってて、頭がおかしくなりそうだ。
「母さんっ。もう俺、どうすればいいんだよっ!」
がらがらな声で静寂を切り裂くように叫ぶ。その叫びはきっと届くことはないけれど、もう藁にもすがる思いだった。天国から答えを教えてほしい。
鼻を何度も啜りながら、夜空の星を見上げる。今日は星の数がやけに少なく、そのせいで辺りが暗い。視界が悪く、さっきからいろいろとぶつかってばっかりだ。
「ああっ。クソっ。クソっ」
ワケが分からず、走って、走って、走る。気づけば開けた地帯に足を踏み入れていた。舗装されている地面を、乱暴に踏みしめる。
「俺は、立ち直れないんだよっ」
走って、走って、走って――、
「――あぁ?」
不意に、違和感に気がついた。
必死すぎてさっきまで聞こえていなかったが、何やら近くでずっと『音』が流れているようだ。その『音』は、今まで聞こえなかったのが不思議な程の轟音。
その『音』の正体とは、けたたましい警告音で――、
「っ。ここはっ!?」
警告音に被さるように、更なる轟音が庵の耳に届く。その次に聞こえた轟音の方角に、咄嗟に視線を向けた。眩しい二つのライトが庵を照らし、辺りを不気味に照らす。その正体に気づいたとき、庵は顔色を大きく変えた。
だってこの場所は、天馬庵と星宮琥珀の全ての始まりの場所で――、
「......は?」
――猛スピードで走る電車が、轟音を掻き鳴らして、踏み切りに棒立ちの庵に迫りくる。
「おい、待てって。嘘だろ!!!」
いつの間にか、庵は踏み切りに辿り着いていたのだ。暗くてよく見えないが、足元がゴツゴツとしている。そんなことに気づいても、もう遅い。遅すぎた。
そもそも、どうして線路内に気づかず侵入してしまった。まさか、星宮の命を救ったあの日から、まだ踏み切りが修理されてなかったとでも言うのか。
「あっ、あああ!?」
残された時間は僅か。死が近づく。どう足掻こうとも、もう避けることは不可能。
「ああああああああああああああッ!!!」
さっきまでの逡巡は全て吹っ飛び、叫び声を上げた。電車に止まってくれるような気配は少しもない。電車は庵にとって、直撃すれば一瞬で命を散らす殺戮マシンと化した。無機質な機械音がどんどんと庵に近づき、そのちっぽけな命を狩り取らんとする。
そんなことをしたって意味はないのに、反射的に顔辺りを腕でガードして、目を閉じた。大きな光が庵を包み込み、重なる轟音は鼓膜を破りそう。
来るべき衝撃は、あと一秒もすれば――、
「――バカっ!!」
「うあっ」
刹那、鈴の音色のような声が轟音を遮った。その瞬間に庵の体は何者かに押され、踏み切りの外へと吹っ飛んでいく。硬い地面に音を立てて、顔面から着地した。砂ぼこりが大きく舞う。
***
「ごほっ。げほっ。はぁ......はぁ......どう、なってんだ」
来るべき衝撃がくる前に、体は吹き飛ばされた。つまり命は助かったのだろうか。理解が追いつかないが、命が助かったというその部分は安心してもいいのだろうか。まさか今、天国に居るなんて展開はないと思うが。
混乱する庵は、体を起き上がらせて辺りを見渡す。まず遠ざかっていく電車の音が聞こえた。そして庵の視界に一番最初に入ったのは――、
「......はっ」
直ぐ隣に、誰かが横たわっている。足を押さえながら顔を苦しそうに歪めていて、とてもじゃないけど無事とはいえない状態で。
その正体に気づいて、大きく目を見開いた。背筋が凍って、鼓動が一気に早くなる。考えるよりも早く足が動く。
「星宮っ!!!」
庵を間一髪で助けたのは、星宮だった。
しかし、庵は無事でも星宮は無事ではない様子。右足を負傷しているのか、立ち上がれそうにない。そんな状態の星宮に駆け寄り、庵はしゃがみこんだ。
「っ。大丈夫か!? どこか、怪我は?」
「......天馬くん。大丈夫でしたか?」
「俺はどうでもいいだろっ。星宮は、大丈夫なのかよ!」
自分が怪我している状況でも庵の心配を優先する星宮。その優しさが意味分からず、庵は震えた声を荒げる。それでも、星宮は庵の心配だけをしていて。
「天馬くんが無事で、よかったです」
マリンブルー色の瞳が笑った。その眩しさに庵は顔をひきつらせ、言葉を失う。胸の中から何か込み上げてくるものがあり、それが全身に伝播した。
「なんで......俺の、心配ばっか」
拳を強く握りしめる。強がりはもう、限界だった。そんな綺麗で、切なくて、儚い瞳に見つめられてしまったら、耐えられない。耐えられるわけがないじゃないか。視界が狭まるほどに目を細めて、涙を溢した。
たくさんの思いを抱えて、拳を握りしめる。二人の視線が交わった。
今、頭の中は星宮でいっぱいだ。星宮しか考えられない。星宮の温かさが身に染みて、それが優しく、庵の中にあるどす黒い何かを解いていく。
小さな感情だったはずのものが膨れあがって、庵の心を飲み込んだ。そう、小さく息を吸った瞬間。
「俺の......っ」
――庵の中の何かが、決壊する。
「......ごめんっ」
「天馬くん」
「ごめんっ。ごめんっ。ごめん星宮。俺のせいで、本当に、ごめん!」
顔をぐしゃぐしゃにして、ただひたすらに謝った。何から謝っていいのか分からないけれど、とにかく謝った。溢れる気持ちはうまいように言葉に変換できないけれど、心から謝罪する。何度も何度も、ごめんと。
「ごめんっ。ごめんっ、ごめんなざいっ」
そんな庵に対して、星宮も少しだけ瞳を潤ましていて――、
「謝らないでください天馬くん。天馬くんだって、辛かったんですから」
「俺は、でもっ。星宮を傷つけて......!」
「私はこう見えて強い女の子なんですよ? だから、傷ついてなんかいません。へっちゃらなんですから」
今もなお負傷中なのに、こんな強がりをしてくるなんて。言う通り、星宮はとても強い女の子だ。きっと今、庵以上に様々な感情で溢れかえっているだろうに、それでも冷静を保てているのだから。
「星.....宮!」
雪色のセミロングヘアを靡かせて、満足そうに頬を可愛らしく赤らめながら。
「――今度は、私が天馬くんの命を救っちゃいましたね」
全ての始まりの場所で再び、物語は大きく動いた。
『宝石級美少女の命を救ったら付き合うことになりました』
ということで第二章、一つの山場を越えました。とても長かったですが、ここまで読み進めてくださった読者の皆様、本当にありがとうございます。
第二章はあともう少し続きますが、決して蛇足というわけではないので、残りの分も楽しんでもらえると嬉しいです。