◆第51話◆ 『宝石級美少女を泣かせてはいけない』
「......なんか、疲れた」
そう小さな声量で呟くのは庵。庵は自室の壁にもたれかかり、ドッと押し寄せる疲労感に溜め息をついていた。
「星宮、今何時?」
「えーと......もう十一時です。ずっと人生ゲームしてましたからね」
どうやら、気づかぬうちに午前中が終わりそうになっているようだ。星宮との土曜日デートは基本的に午前中のみ。もうそろそろ、解散の頃合いだ。
「......」
庵は今日星宮とした人生ゲームを思い返す。やはり一番印象に残っているのは、星宮と結婚して星宮との子供を六人も誕生させてしまったことだ。ゲームとはいえ、もしこの事が現実に起きたらと考えると、恥ずかしくて悶え死にそうになる。
とはいえ、相手は宝石級美少女の星宮。前々から言っていることだが、庵と星宮は釣り合っていない。付き合っていることさえおこがましい事なのに、結婚なんて絶対にあり得てはいけないことだ。星宮と不釣り合いな庵が星宮と結婚すれば、星宮の人生を潰してしまう。
「......ふぅ」
庵は胸の中に秘める想いを殺して、気持ちを切り替えた。平然を装い、星宮に視線を向ける。
「――天馬くん」
「――星宮」
タイミング悪く、二人の声が重なってしまった。「あっ」と溢した星宮は、くすりと少し笑う。庵もちょっとだけ苦笑した。
「俺は別に大した事言おうとしたわけじゃないから、星宮喋って」
「あ、そうですか。私も別に大したこと言おうとしたわけではなかったんですけど......人生ゲーム片付けるの手伝ってくれませんか?」
「もちろん」
庵は腰を上げて、女の子座りをする星宮の横に行く。ミニテーブルの上には大きな人生ゲーム本体と、大量の偽札と、サイコロとコマがある。偽札に関しては数が多く、結構散らばっているので片付けるのに手間がかかりそうだ。
庵はまず面倒臭い偽札からと、手を伸ばすが――、
「あっ」
「ごめんなさいっ」
星宮も同じことを考えていたらしく、同じ場所に伸ばされた手と手が当たってしまった。急いで庵は手を引くも、瞬時に心拍数が大きく上がって何も喋れなくなってしまう。
星宮とは手を握ったこともあるのに、今みたいにちょっと触れただけで胸のドキドキが鳴り止まない。そろそろこれくらいのスキンシップには慣れたいところだが、庵はいつまで経っても慣れる気がしなかった。本当に宝石級美少女恐るべしだ。
***
紆余曲折とあり、もう後少しで片付けが終わりそうといった時。星宮が不思議そうな顔をしていることに庵は気づいた。
「......どした? ボーっとしてるけど」
「多分気のせいじゃないと思うんですけど、なんかちょっと寒いなって思って」
「寒い? ......ああ、確かに。本当だな」
確かに、意識してみればちょっと肌寒い気がする。
「暖房の温度上げようか?」
「いえ、そうじゃなくて、どこか窓とかが開いてるんだと思います。天馬くんの部屋はそこまで広くないのに、暖房も付いててこんなに寒いのはおかしいです」
確信を持っているのか、星宮がはっきりとそう言い切る。窓は開けた覚えはないが、一応確認のために、カーテンを開けて確かめてみた。
「......あっ。本当だ」
確認してみると、窓は5cm程小さく開いていた。手をかざしてみると、冷たいすきま風が入ってきているのがよく分かる。どうりで部屋がなかなか温まらなかったわけだ。
「ごめん星宮、窓開いて――っ!? うおっ!?」
短く謝罪して窓を閉めようとしたとき、外の荒れた風が、窓の隙間から一気に押し寄せた。大きな音を立てて冷風は室内に侵入し、カーテンを大きく揺らす。
「あっ。人生ゲームがっ」
星宮の声が聞こえて後ろを振り返ると、さっきまでテーブルの上にあった人生ゲームが宙を浮いている。今入った風に吹き飛ばされたのだろう。
落っこちる前にと庵は飛んでいく人生ゲームに手を伸ばそうとする。しかし、星宮も同じように、飛んでいく人生ゲームに手を伸ばそうとしていた。互いの手が空飛ぶ人生ゲームに伸び、掴み取ろうとする。
だが、不運にも庵の足元には片付け忘れていた偽札が落ちていた。その事に庵は気づかず、真っ直ぐに前へと走る。
「あっ。ちょ、まっ」
「きゃっ」
案の定、庵は足元の偽札に足を滑らせ、大きくバランスを崩す。そのせいで、つい反射的に目の前にいた星宮の肩を掴んでしまった。だが、その衝撃に星宮が耐えきれず、星宮までもバランスを崩してしまう。
よって、庵は星宮を巻き添えにして盛大に転んでしまったのだ。
※ ※ ※
「......っ。天馬、くん?」
星宮が感じたのは固い地面の感触。どうやら星宮は仰向けの状態のようだ。何が起きたのか理解できない星宮がゆっくりと目を開ける。そして開けた視界の先、そこには庵の顔だけが見えていて――、
「......あっ。えぇっ。ええ!?」
「ごっ、ごめん星宮!」
素っ頓狂な声を上げて、一気に顔を真っ赤にする星宮。それもそのはず、今庵は、覆い被さるように星宮の体を跨っていたのだから。
「......っ」
何故、こうなったのか。それは、さっき庵が転んでしまったことによって、星宮がまず先に仰向けに倒れてしまい、それを庵が偶然にも星宮を馬乗りにする形で着地してしまったのだ。
仰向けになる星宮の顔の横に両手をつき、息を荒げる。最早襲っているようにしかみえない最悪の体勢。こんなにも至近距離でお互いの顔を見るのは初めてで、庵は思わず息を飲んだ。
「......天馬くん?」
こんな状況なのに、胸のドキドキが収まらない。いや違う。こんな状況だからこそドキドキしてしまうのだ。
無防備に庵の下で顔を赤くする星宮。ただ、恥ずかしくて顔を赤くしているだけなのに、その赤い表情が色っぽく見えてしまう。その様子があまりにも可愛くて、思わず理性を失ってしまいそうになる。原始的な男の欲求が、思考を放棄して星宮に手を出そうとしていた。
「ほし、みや」
でもきっと、ここで庵が理性を失ったら星宮を泣かせることになってしまう。そんなのは庵が一番望まないことだ。
心の中で沢山の思いが渦巻き、庵は動けなくなってしまった。そんな庵の様子を、星宮はマリンブルー色の瞳を儚く揺らしながら、ずっと見続けていて――、
「て、天馬くん? あの、離れ、ないんですか?」
「あっ。その、離れます離れますっ」
星宮が声を震わせながら聞いてくる。さすがに星宮も、庵が不慮の事故で押し倒してしまったことは理解しているだろうが、数秒経っても離れない庵に不安を抱いたのだろう。星宮の言葉に庵はハッとなり、慌てて星宮の上から離れようとする。
――だが、遅かった。いや、もう遅すぎたのだ。
「......?」
何か、別の誰かの視線を感じる。そういえばさっき、物音も聞こえた気がした。その違和感が引っ掛かり、なんとなく視線を部屋の扉に向ける。
そして、庵は言葉を失った。全身の鳥肌が逆立つ。
「――い、庵? その女の子は、誰なの?」
部屋の扉はいつの間にか開いていた。その開いた扉から全身を覗かせるのは、庵の母親である天馬青美。青美は中身がパンパンに詰まったレジ袋をその場に落っことし、庵の部屋の中を凝視している。
母親――青美の視界の先に映るのは、自分の息子が見知らぬ女の子を馬乗りにしている(見知らぬ女の子に馬乗りになっている)様子だった。