◆第166話◆ 『明日へと繋ぐ物語』
次回は第三章幕間となるので、今回の話が第三章最終話という捉え方もあります。
今回は第三章の一つの結末。それを楽しんでもらえればな、と思います。
ドライヤーで風を当てると、琥珀の雪色の髪がふわりと舞う。髪が長いというのは、男子からすると少し不思議な感覚だ。鬱陶しくないのだろうかといつも疑問に思ってしまう。
「サラサラだな。髪に指を通しても引っかからんのすごすぎだろ」
琥珀の髪を触りながら、庵は感動と衝撃の両方を感じていた。まずはずっと触りたいと思っていた琥珀の髪を合法的に触れられる感動。別に髪フェチというわけではないが、美少女の髪は誰だって触りたいものだ。そして衝撃なのは、琥珀のサラサラで一切の癖がない直毛。
「縮毛矯正してますからね。まぁでも、元から髪質は良かった方です」
「しゅくもーきょうせい? なんだそれ」
「美容院で頼めるんですけど、髪がサラサラになる施術です。あれ結構高いんですよね―」
縮毛矯正とは癖毛などを薬品とアイロンで強制的に直毛にする、少々値が張るものだ。庵は美容関連に詳しくないので初耳だったが、髪がサラサラになると聞いて少し気になる。ちょうど、庵は癖毛よりの髪質なのだ。
「なんかそれ気になるな。俺も縮毛矯正みたいなのしたら似合うと思う?」
「庵くんが、ですか......庵くん結構癖毛ですからね」
琥珀に聞いてみると、難しそうな顔をされてしまう。庵が縮毛矯正をしたあとのヘアスタイルを想像しているようだ。
「......似合わないことはないと思いますけど、庵くんはちょっと短髪なので、ワックスとかでセットしないと少し違和感あるかもですね」
「あぁー、セットか。めんどくさいな」
庵はいつも夜ふかしをして朝に弱いので、朝は時間が許す限りギリギリまで寝ていたい。よって、髪をセットしている時間は庵には設けられないのだ。彼女が居るのなら、髪のセットくらいするべきだとは思っているが。
「セットが嫌なら、髪をもうちょっと伸ばしてから縮毛矯正してみるのもいいと思いますよ。庵くん丸顔よりなので、マッシュとか似合うと思いますっ」
「マッシュは嫌だ! 俺は量産型になりたくない」
「えぇ......」
最近流行りのマッシュ。学校でも街なかでも頻繁に見かける定番のヘアスタイルであるが、逆張り気質な庵は、量産型マッシュに抵抗感を強く感じていて、”俺はあいつらとは絶対に一緒にならない”という無駄なプライドがあった。琥珀も、まさかそこまで嫌がられるとは思わず、少し苦笑いしている。
「でも、私も今の庵くんのヘアスタイルが見慣れてますからね。変えたくないなら、変えなくてもいいと思います」
「......そうだな。あんま下手なことしたら失敗しそうだしな。今のままでも別いっか」
「でもでも、イメチェンした庵くんを少し見たい気もしますね」
「あー......星宮がそういうなら、ちょっと考えるかも」
男というのは単純なもので、琥珀の言葉一つでコロコロと考えが変わってしまう。だが、イメチェンは悪いことではないので前向きに検討していきたいところだ。もしかしなくても、言ったら琥珀も手伝ってくれることだろう。
「――ドライヤーありがとうございました。もう大丈夫ですよ」
「そっか。おっけ」
そうして琥珀のドライヤーが終わる。雑談しながらのドライヤーはほんとにあっという間で、いつの間にか琥珀の髪から湿り気が消えていた。琥珀との会話はそれだけ夢中になれる。やっぱり、庵にとって琥珀は時間さえも忘れてしまう天使のような存在なのだ。
「――」
ふと、ここで庵は思考が停止した。何か、きっかけがあったわけではない。それは突然ふと感じた違和感。琥珀と楽しく雑談を続けているうちに、庵はだんだんと忘れかけていたのだ。
琥珀が、今日までにどれだけの苦しみを味わっていたかということを。
「......星宮」
「はい?」
「俺の勘違いだったらあれだけどさ......なんか、思ったよりも平然としてるよな」
そう。琥珀があまりにも、今まで通りの自然体過ぎるのだ。あれだけの出来事があったというのに、夕方以降、琥珀の口から北条のほの字さえ出てこない。嫌なことだから早く忘れたくて口には出さない、という考えの元かもしれかいが、琥珀に限ってそんなことはしなそうだ。
「......」
庵の言葉に、琥珀が沈黙する。やはり、ここまで北条の話題が一つも出なかったのは意図的だったのか。
「――庵くん」
「お、おう」
「さっきからずっと言おうと思ってたお願い事なんですけど、今言っていいですか?」
お願い事。その響きに庵はごくりと息を飲み、縦に頷いた。
「――私の、話を聞いてくれませんか? ずっと大変だった、から、聞いて、慰めてほしいんです」
「え?」
そう言う琥珀の瞳から、涙が溢れ落ちる。唖然とする庵を横目に、琥珀は涙を拭いながら、直ぐ側のベッドに腰を下ろした。
***
「ほし、みや」
かすれた声で、胸の中の彼女の名を呼ぶ。琥珀の表情は隠れて見えないが、泣いていることだけは確かだった。庵の胸元を掴みながら、何度も小さな身体を震わせ、嗚咽を溢しながら口を開く。
「――ずっと、ずっと辛くてっ、なんで私ばっかりこんな酷い目に合うんだろうって、なって、ほんとに毎日毎日頭がおかしくなりそうだったんですっ」
「中学校の友達もみんな居なくなって、私居場所がなくてっ、私何も悪くなかったのにっ。暴力とか、暴言とか沢山浴びせられてっ、ほんとに嫌だったんですっ。なっ、なのにっ、誰も私を助けてくれてぇっ」
「高校入っても、またいじめられるしっ、毎日ストレスばっかで精神的に辛いしっ、それなのに私も沢山の人に迷惑もかけちゃってぇ! も、もう、私って生きてる価値あるのかなとか思うようになってっ」
「何回も、自殺とか考えて、でもそんな度胸私には無くてっ、でも生きてても何も良いことないからほんと消えたかったんですっ」
「でも私がし、死んだらっ、ママとか庵くんに迷惑かけちゃうしっ、それだけは嫌だから、ずっと頑張って生きようって思ってたけど、それでも毎日がずっと限界でっ! ずっと、いつも部屋で一人で泣いててぇ!」
琥珀は庵の胸に顔を押しつけ、わんわんと赤子のように泣き叫んでいた。そんな琥珀から出てくる言葉は、今まで誰にも言わず、ずっと一人で抱え続けてきたものの全て。一体どれほどのモノを抱えていたのか、決壊したダムのように止めどなく、琥珀のこれまでが漏れ出してくる。
体を震わせながら咽び泣く琥珀の姿は、本当に小さかった。その姿はあまりにも幼くて、心細くて、か弱くて。こんな小さな存在が、ずっと地獄のような苦しみに耐え続けていたのだと思うと、かけるべき言葉すら何も見つからない。庵は琥珀の言葉を、ただ頷いて、聞いてあげることしかできなかった。
――どれだけ怖かったのか、どれだけ辛かったのか、どれだけ泣いたのか。
――どれだけ隠してきたのか。
何故、もっと早く気づけてあげれなかったのか、庵は自分の不甲斐なさに強く歯ぎしりをした。
「......ごめん。ほんとに、ごめん。もっと早く助けてあげれなくて」
「天馬くんはっ、悪くないですっ。天馬くんがいてくれたから、私っ、私ぃっ」
「っ!」
感情が掻き乱れたのが原因か、庵の呼び方がまた元に戻っている。琥珀の体の震えが止まらない。嗚咽も止まらない。ずっとずっと抱えていたものは、いつの間にか大きくなりすぎていた。
そんな巨大のものを庵だけで受け止めるなんて、どうしたらいいか分からなくて――、
「――星宮っ」
庵は、泣き喚く琥珀を、力強く抱きしめた。
そうしようとして、したわけではない。衝動に突き動かされるまま、体が無意識のうちに動き、いつの間にか琥珀の背中に手を回していた。
こうして琥珀を抱きしめたのは、朝比奈のイジメから救ったとき以来だろうか。あのときも琥珀は泣いていて、庵の胸に顔を埋めていた。だが今の抱擁は、違う。前よりも密接で、濃厚で、本当の愛がそこにあった。
「今まで、大変だったよな。辛かったよな。よく、耐えたな。本当に、”琥珀”はすごいやつだよ」
「――ッ。そう、なんですっ。す、すごく、すごくっ、大変だったんですっ!」
「そうだよな。誰よりも、大変だったよな......っ」
庵は、琥珀の味わった苦しみを理解することはできない。琥珀が味わった苦しみを理解したなんて思い込むなど、おこがましいにも程がある。どれだけ大変だったかなんて、そんなの本人にしか分からないことだろう。
でも、琥珀が苦しんだという”事実”については理解してあげられる。理解して、琥珀の苦しみを吐き出す受け皿になってあげられる。庵は琥珀の背中を優しく撫でながら、受け皿としての役目をまっとうした。
「もう、大丈夫だから。北条は捕まったし、誰も琥珀を傷つけるやつなんていないから」
「――っ。うぁっ。いおり、くん」
「もし居ても、俺がなんとかする。俺だけじゃ無理でも、琥珀の周りには、沢山友達がいるからっ! これからは絶対、琥珀を守るからっ!」
北条からはまったく守れなかったくせに、何を無責任なことをと思われるかもしれない。だが、もう覚悟は決めている。過去は変えられない。琥珀がこんなにも傷ついたという事実は、どれだけ上書きを重ねようとも一生残り続けるのだ。だから、庵はここから再び戦い続ける。言動よりも、行動で今までの情けなかった部分を挽回していかなければならない。
――天馬庵が、星宮琥珀の彼氏で在り続けるために。
「わ、私って、いっ、生きてていいんですか? いない、方が、もう、なんかっ、私のためにもみんなのためになるかなって」
「意味分からんこと言うなよっ! 生きてていいに決まってる。琥珀が居てくれなきゃ、俺が生きてけなくなるわ......」
また、琥珀の泣き声が大きくなる。やはり自分よりも他人を優先する性格は変わらないらしく、琥珀の気持ちはまたそこで揺れだした。
「私なんか、みんなに迷惑かけるだけの、いらない存在ですよっ。だから、だからっ、みんな巻き込んでっ、悲しませてっ!」
「みんななんて知るかよっ! 一番苦しいのは琥珀だろ!? 琥珀はもっと、自分を大切にしろっ。周りなんて気にするな! 琥珀は、自分のことだけ考えてればそれでいいからっ」
「私のことなんてどうでもいいですっ。私がどうなろうと、み、みんな気にしないと思うし、誰も私のことなんか――」
「っ。そんなの、ふざけんなよっ!」
琥珀のあまりにも身勝手な発言に、庵は思わず声を荒げた。琥珀に本気で怒声を上げるなど、初めてのこと。琥珀もさすがに驚いたのか、庵の胸の中で目を見開き、喉元まで出かかっていた次の言葉を引っ込めた。
「......ふざけんなよ」
一度、冷静になり、庵はもう一度先程の言葉を言い直す。静寂に包まれる琥珀の部屋。天井に付いたエアコンの音が、やけに大きく聞こえる。
「さっきは俺に迷惑かけたくないとか言ってたのに、急に私はいないほうがいいとか言い出すの支離滅裂すぎだろ......」
「で、でもっ」
「でもじゃないって。私がどうなろうとみんな気にしないとか本気で言ってんのか? そんなの、ありえないから」
「――」
冷静に説得をしようと試みるも、反応の悪さからして納得はいっていないのだろう。しかし、そんなのは当たり前の話だ。綺麗事ならいくらでも言えるし、それで琥珀が納得するならここまで思い悩んでいない。
今からどれだけ言葉を交わし続けても、解決する前に朝が来てしまう。
琥珀を納得させるためには、言葉だけでは駄目なのだ。
――だから。
「......顔、上げろよ」
「......嫌ですっ。今、顔は見られたくないですっ」
「............じゃあ、手離すぞ」
庵が琥珀の背中に回した腕を離す。そうして若干後ろに体を引くと、庵の胸に頭をうずめていた琥珀がバランスを崩し、強制的に庵から剥がされた。
「あっ、待ってくだ――」
未だにマリンブルー色の瞳から涙を溢し、目元を赤くする琥珀。急に視界が開けて、さぞびっくりしたことだろう。そんな泣いている顔すら愛おしい彼女の姿が庵の瞳に映って――、
「――ぇ」
庵は琥珀の肩を掴み、迷わず琥珀と唇を重ね――初めてのキスをした。
「――」
時間にして、約1秒もあったか分からない。初めてのキスはレモン味という噂を聞いていたが、実際は少ししょっぱかった。だが、庵は確かに琥珀と唇を重ね、そして今見つめ合っている。琥珀は何が起きたのか理解が追いついていないようで、自身の唇に手を当て、ただ呆然としていた。
「これで、分かっただろ。少なくとも、俺は琥珀のこと大切にして、気にしてるって。だから――」
「やっ、やあぁぁっ!」
「うえぇ!?」
庵が羞恥心を堪えながら良いことを言おうとすると、ようやく理解が追いついたらしい琥珀がそっぽを向いてしまい、枕に顔をうずめて隠れてしまった。その瞬間、唐突に庵は後悔をする。
(え、え!? ヤバい、さすがにあの空気でキスはアウトだったか!? 俺、やらかした!? ちょっと良いこと言った気になって、調子乗りすぎた!?)
琥珀を納得させるどころか、どうやら火に油を注いでしまった様子。庵は慌ててその場で土下座の準備をする。
「ご、ごめんっ。そこまで嫌がるとは思ってなかったんだよっ。俺は、ただ琥珀に納得してもらいたくてっ」
「嫌とかじゃなくてっ、なんで急にするんですか! 事前に言わなくとも、せめてそれっぽい空気作ってからにしてくださいっ」
「え、え?」
「い、今私っ、唇乾燥してますしっ、顔も汚くなっちゃったしっ、コンディションが最悪なんですっ。だから、だからっ、今はダメだったんですっ」
思ったのと違う反応が返ってきて、庵は少々困惑する。どうやら庵は、空気を読めなかったというよりも乙女心を読めなかったようで。
「てことは、俺のキス自体は、嫌じゃなかった......?」
「それは、そうですけど......っ、いえ、やっぱり嫌でしたっ! 庵くんの、バカぁ!」
「ご、ごめんっ! 本当にごめん、琥珀!」
先程までのしんみりとした空気はどこへやら。庵のキス一つで先程までの話は吹き飛び、ある意味琥珀の心を軽くしてあげることに成功したのかもしれない。とはいえ、琥珀はだいぶご立腹となってしまったが。
「か、顔を洗ってきます。庵くんは、ちょっと反省しててくださいっ」
「す、すみませんでしたぁ」
松葉杖を手に、ベッドから下りた琥珀。フラフラとした足取りの琥珀を見送りながら、庵はベッドの上で綺麗な土下座を決めておいた。
***
「ごめんなさい。本当にごめんなさい、星宮さん」
「だから、もう許してますよっ。私はもう寝ますっ」
「怒ってるじゃん。ごめんって......」
顔を洗って戻ってきた琥珀は、庵を無視したまま直ぐにベッドに入り、毛布の中に隠れてしまった。さっきまで庵の胸でわんわん泣いていたのに、今は指一本で触れたら殴られそうだ(それはありえないが)。庵は何度も何度も琥珀の側で謝罪をするが、琥珀は毛布の中に隠れたまま。雪色の髪の毛が、一部ぴょこんとだけはみ出している。
「――なんか、変な漫画の見すぎなんじゃないですか? 普通、あの空気で、き、キスとかしませんからっ」
「ぐさぁ!?」
珍しく棘のある琥珀の一言は庵の急所をえぐり、大ダメージを与えた。確かに、琥珀の言う通り、庵は色々な漫画、アニメを嗜んでいる。その影響のせいで、”俺のキスで目を覚まさせてやる”的なイタいロマンチックシーンが思いついてしまったのかもしれない。
(俺のばかぁ。ああいうロマンチックなキスはイケメンがやるから成立するのであって、俺みたいな陰キャフェイスがやったらただのホラーなんだよ。なんでそれに気づけなかった俺。ちょっと調子乗りすぎたのかぁ......っ)
心のなかでどれだけ反省しても、過去は変えられない。庵は先程のキスシーンを思い出しながら、ため息をついた。何気なく、己の唇に指を当てる。
「......」
琥珀には怒られたが、庵は確かに琥珀とキスをした。その事実はこれから先、庵にとって一生の宝物となるだろう。これは、普通のキスではない。宝石級美少女とのキスなのだ。
(......冷静になれ、俺。過程はどうあれ、俺はあの琥珀とキスをしたんだ。そう、あの琥珀とだぞ)
「......何ニヤニヤしてるんですか」
「!?」
いつの間にか毛布からひょっこりと顔を出していた琥珀が、赤い顔でジト―っと庵を見ている。直ぐに表情を引き締めるが、そうすると余計琥珀の目が細まった。
「庵くん、ちょっとジッとしていてください」
「え? あ、あぁ分かった」
急にそう言われ、膝に手を置き姿勢良く椅子に座り直す庵。そうすると、琥珀は急に上半身をベッドから起こし、指を伸ばしてきた。
「うぉっ」
「私のファーストキス、返してもらいます」
琥珀の指が優しく庵の唇をなぞり、そして遠ざかっていく。どうやら琥珀はファーストキスを物理的に奪ったらしい。勿論、奪ったファーストキスを自分の唇に戻す、なんてことはするはずもなく、そのまま琥珀は毛布の中に戻ってしまった。
「......あざといかよ」
庵は琥珀にファーストキスを奪われたショックで立ち直れなく――なっているわけもなく、琥珀に唇を指で触られ、正直興奮していた。そんな自分が情けないと、庵は思う。
「――庵くん」
「今度はどうした」
再び名前を呼ばれた。
「呼んだだけです。なんですか」
「なんですかってなんだよ......」
顔面をベッドに押しつけ、もごもごとした声で小学生みたいなことを言い出す琥珀。見ているだけで可愛いので何も腹立つ要素はない。
「......庵くん」
「次はどうした」
今度は、顔だけ庵の方を向いてくれた。
「私、別に怒ってないですから。そんなに落ち込まないでくださいよ。ちょっと、さっきから情緒不安定なだけなんで、明日には治ってますから。多分......」
「あぁ、なるほどな。ならよかったよ」
庵を落ち込ませていないか不安になっていたらしく、わざわざ励ましてくれる。確かに、昨日今日と激動の日が続き、そんな日の最後に”庵のキス”とかいう事件が起きれば、さすがの琥珀も冷静にはいられないだろう。庵は琥珀の言葉に安堵し、椅子の背もたれに大きく背中を預けた。
「あっ、あと、今日はありがとうございました。まだちゃんとお礼を言えてなかったので、今言わせてください。庵くんが居てくれきゃ私、今頃どうなっていたか分かりません。本当に、ありがとうございます」
琥珀が今回の北条の騒動について、庵に感謝を伝える。先程の不機嫌気味な声音とはあからさまに変化して、本当に感謝しているんだなというのがよく伝わる、気持ちのこもった感謝だった。
「どういたしまして。......でも、もっと早く助けられなくてごめんな」
「なんで庵くんが謝るんですか。庵くんは、私の――命の恩人なんです」
瞬間、琥珀が庵の腕を掴んだ。小さく、冷たい琥珀の手は、力強く庵の腕を掴み――、
「しんみりとした空気は終わりです。それじゃあ、寝れるまで、手、繋いでてください」
「えっ。ちょ、まっ」
急にそんなことを言い出すので、庵は慌てて手汗を上着で拭う。その後、ほのかな熱気を纏う琥珀の小さな手を握り、疲れないように握った手をベッドの上に置いた。
「私が寝たら、手離していいですよ」
「いや、毛布で顔隠れてるから寝ても寝たか分からんって。いびきがでかいとかなら分かるけどさ」
「女の子にとんでもないこと言いますね。寝息がうるさいとか言われたことないですよ、私」
「まぁ、確かにめっちゃ静かそうだな。で、ならどうやって俺は琥珀が寝たかどうか判断すればいいんだ? 寝たかな~ってタイミングで毛布めくっていいか?」
「だめですっ。庵くんに、寝顔は見られたくありません」
「さっき泣き顔見たばっかだぞ」
「うるさいですっ。あ、あれは泣いてなんかいません。ちょっと感情がグラグラってしただけです」
「いや、誰がどう見ても泣いてたって。まだ俺の服の胸辺り、琥珀の涙で濡れて――」
「ちょっと黙ってくださいっ庵くん。寝たいのに、寝れないですっ」
「あー、分かったよ。黙ればいいんだろ、黙れば」
「――」
「――」
「――そんな急に静かにならないでください。なんか気まずいです」
「黙れって言ったの琥珀じゃん。どっちだよ」
「少しなら、喋ってもいいですよ。変な話じゃないかぎり」
「いいのかよ......でも、そうはいっても、あんま良い話題出てこんなぁ」
「じゃあ、文化祭の話とか、どうですか?」
「あー文化祭か。あれ、今年あんのかな。予定だと今週だったけど、北条のせいで延期になったしなぁ」
「.......きっと、ありますよ」
「だといいけどな」
「庵くんのクラスは、文化祭の出し物、何するんですか?」
「射的だったっけ。なんか割り箸の輪ゴム銃で、的に当てたら景品ゲットみたいな感じ」
「へぇー。いいですねっ。私も、してみたいです」
「あんま出来の良いものじゃなさそうだったけどな。琥珀のクラスは何すんの?」
「迷路だったと思います。段ボールだけで作るみたいですよ」
「迷路かー。俺方向音痴だからそういうの苦手なんだよな」
「じゃあ、庵くんが私のクラスに遊びに来た時は私が案内してあげますね」
「マジで? 琥珀様々だな」
「お安い御用です」
「......」
「......」
「......琥珀は、文化祭誰と回んの?」
「......一応、秋ちゃんと回るつもりです」
「そっ、か。俺も、暁と回るつもりなんだよな」
「そう、なんですね」
「......」
「......」
「......琥珀」
「はい」
「時間が合ったら、俺琥珀とも文化祭回りたい」
「......付き合ってるって、バレちゃいますよ?」
「ま、まあ、そうだけど、さ」
「――」
「や、やっぱ、俺――」
「じゃあ、こっそりタイミングを見計らって、一緒に回りましょ。せっかくの文化祭ですしね」
「っ。あ、ああ!」
「私、お化け屋敷に行きたいです。絶対、どこかのクラスがやってますよね」
「お化け屋敷はクラス出し物の定番だからな」
「あ、あとはチョコバナナも食べたいですね」
「なんでチョコバナナ?」
「......文化祭といえばチョコバナナじゃないですか。知らないんですか?」
「いや、そんな”文化祭といえば”は知らんなぁ」
「庵くんも食べたほうがいいですよ、チョコバナナ」
「あったらな」
「あ、あとはりんご飴、とか」
「いや、それは夏祭りじゃね」
「......そうですね。りんご飴は、祭りです。じゃあ、花火は?」
「......祭りだな」
「......正解です」
「なんだこれ」
「......知りません」
「......」
「............文化祭、楽しみですね」
「あぁ、そうだな」
「すごく楽しみです」
「そうだな」
「文化祭も楽しみですけど、夏祭りも楽しみです」
「それはちょっと気早くないか?」
「......そうですね。早い、ですね」
「うん」
「......はい」
「......」
「......楽しみ、です」
「......」
「......」
「......」
「――」
「――おやすみ。また、明日」




