◆第109話◆ 『地獄からは逃れられない』
――地獄に落とす。
狂気的な笑みとともに放たれたその発言は、抽象的には欠けていた。しかしその発言の重みはしっかりとのしかかり、恐怖を与える。普段とのギャップも含めたせいか、今の北条には言葉では表せないほどの恐ろしいオーラが放たれていた。
「地獄って......私が北条くんに何をしたって言うんですか!? もし私が北条くんの気に障るようなことを知らないうちにしていたのなら教えてくださいっ。少なくとも、私には心当たりがありません」
まさか、理由もなく星宮を地獄に落とすなんて言っているはずがないだろう。そもそも星宮は北条とまったく話さないのに、一体いつ北条の導火線に火を付けてしまったというのか。分からず、星宮は北条に問いかけるが――、
「それは自分で考えなさいよ。少し考えれば、きっと心当たりがあるはずよ」
「は......朝比奈さんは知っているんですか」
「北条くんから聞いた。まぁ、色々とビックリさせられたわ」
どうやら朝比奈は北条の導火線に火がついている理由を知っているらしい。しかし星宮はやっぱり分からなかった。『北条』に何かした覚えは本当にないのだ。
「俺から視線逸らすなよ。悲しいじゃんか」
「きゃっ!」
少し朝比奈と話していただけなのに、それを不満に思った北条が星宮に抱きついた。しかも上から圧迫されて抱きしめられている状態。重いし、苦しいし、好きでもない異性とこんな事するなんてモラル的にありえない。
「ははは、星宮は怒った顔も可愛いな。泣いた顔も怯えてる顔も、昔からずっと変わらないよ」
「っ。私から離れてくださいっ!。ほんと、ありえないですっ」
「あはは、やっぱりこういうのは彼氏の天馬じゃないとダメ? でも星宮の体柔らかいなぁ。良い匂いするし、なんか安心する」
「なんで、天馬くんのこと......!」
「星宮の大切な彼氏なんだろ。秘密にしてるのかは知らんけど、俺は星宮のことは何でも知ってるから。隠し事は無駄だよ」
星宮を抱きしめながら、耳元で衝撃の事実を口にした北条。しかし今はそれどころではない。この男と一刻も早く離れたい。
「とにかく、どけて、くださいっ!」
「やだ」
星宮を抱きしめたまま離そうとしない北条。星宮の力では、このガタイの良い男をどかすなんて不可能だ。なら頭を使うしかない。
「ほんとに、もうっ!」
「ッ。うぐぉ!?」
一瞬にして白目を剥き、下半身を抑えだした北条。何が起きたかというと、星宮が全力で北条の股間を蹴り上げたのだ。こんなことは星宮だってしたくなかったが、背に腹は代えられない。一瞬の隙をついて、星宮は立ち上がる。
「ちょっと北条くんっ、何してんのよ。星宮が逃げちゃうじゃない!」
「いや、お前一度男になって股間蹴られてみろよ......あぁ、やばい。死ぬ」
「馬鹿言ってないで、早く立って!」
どうやら星宮の蹴りは相当のクリティカルヒットだったらしい。
「早く、逃げないとっ!」
苦しむ北条など見向きもせず、星宮は来た道を戻って廃屋からの脱出を図る。スマホは置いてきてしまったが仕方ない。今一番大事なのは、己の体だ。
――しかし、あと一歩というところで、星宮は北条の恐ろしさを再認識させられることになる。
「は。なんで玄関が開かないんですかっ。なんでっ、なんでっ」
鍵は開いているのに、何故か玄関のドアがスライドしない。おそらく扉がスライドできないように、外側から何か物を置いて物理的に不可能にしているのだろう。うんうんと全力で扉を引っ張ってはみるが、ピクリとも動いてくれなかった。
「誰がこんな事......!」
最初この玄関の扉を使ったときは、普通に開いていた。そしてまず一番にこの廃屋へ入ったのは朝比奈であり、その次に星宮が続いたのだ。引き返すような真似はしていなかったので、朝比奈が玄関の扉を封じたのはありえない。そして北条もずっとリビングで星宮を待ち伏せしていたはずなので、可能性から除外される。
なら、考えられるのは誰だ。それは、朝比奈でも北条でもない、まだ見ぬ第三の敵――、
「――ごめんね〜っ。ここから逃げたいんだろうけど、逃がすわけにはいかないんだよぉ」
扉越しに聞こえたのは女の声。誰かは分からないが、すごく楽しそうな声に思えた。でも今の状況は星宮にとって何も楽しくない。
「っ。誰ですか! ここから出してください! 今私、男の人に襲われているんです!」
「うんうん、そうだよね、怖いよね。でも大丈夫だよ。だって、北条くんはとっても優しい人だからっ」
「何言って......」
「私、北条くんに玄関で見張りをしとけって命令されてるんだ。誰の邪魔も入らないようにしろって命令と、あなたを逃がすなって命令。だから、私はここをどけれないの」
すごくフレンドリーな話し方でとんでもないことを言ってくれる、扉越しの女。焦ってどうにかなってしまいそうな星宮は、感情が荒ぶるまま、扉に拳を何度も叩きつけた。
「ふざけないでくださいっ! このままじゃ私、本当に大変なことになってしまいますっ。あとでお礼は何でもするので、この家から出してください! 時間がないんです!」
「だーめ。ワタシも心苦しいけど、ここであなたを逃したら次はワタシが大変なことになっちゃうから」
のらりくらりとした口調だが、そこにはどこか硬い意志を感じた。しかしここしか出口が無い以上、この扉を通るしか選択肢はない。星宮は焦る気持ちを抑え、涙目になりながら扉越しの女に粘り強く語りかけた。
「っ。お願いです。本当に、お願いします。私を助けてください。早くしないと、北条くんたちが来ちゃいます」
「むーり。何を言っても無駄だから、さっさと諦めて。あなたに逃げるって選択はないよ」
「お願い、します。怖いんです。今、すごく怖いんです。今助けてもらえなきゃ、私、私っ!」
瞬間、背後におぞましい何かが居ることを察した。星宮は肩を震わせて、涙目のままガクガクと後ろを振り返る。
「――やっぱり見張りを置いておいて正解だったな。危うく逃げられるとこだった」
居た。冷徹な視線を向け、表情を曇らせた北条が立っている。遅れて朝比奈も現れ、状況が元に戻ってしまった。星宮は扉に背中をくっつけて、可能な限り北条から距離を取る。しかし、今の状況では何をしようと袋のネズミだ。
「やってくれるなぁ、星宮。そんな躊躇なく股間蹴り飛ばしてくるとは思わなかった。いやぁ、痛かった痛かった」
「こっちに来ないでくださいっ。変態っ!」
「はは、酷い言われようだな」
肩をすくめながら、一歩ずつ近づき出す北条。再び近づいてくる狂気。玄関の扉が開かない以上、今度こそ逃げ場はない。打つ手がない星宮は、無理も承知で北条の横を通り過ぎ、一度玄関から離れようとする。
「ぅあっ」
もちろん無理だった。北条の腕が星宮の首を掴み、再び玄関の扉に打ち付けられる。硬い衝撃が背中に響いた。
「......なんでっ」
「ん? どうした」
「なんでなんですか! あなたは、私をどうするつもりなんですか! さっきから私を追い詰めるような真似ばっかりして、何が目的なんですか!」
北条の目的は『星宮を地獄に落とす』。それは分かっているのだが、さっきも話したように具体性に欠けていた。星宮を追い詰める理由、それはまた別にあるはずだ。
星宮の問いかけに、北条は満足そうな吐息を溢し、歪んだ笑みを浮かべる。
「あぁ、興奮しすぎて本題を話すのを忘れてたよ。そうだな。そろそろ、話そうか」
「話すって......なんですか」
「俺から、お前にお願いがあるんだよ」
もちろんであるが、碌なお願いではないのは確かだ。一体何を言われるのか。それは星宮が想像していたものを遥かに越えてきて――、
「今の彼氏――天馬と別れて、俺と付き合ってくれ」
「は?」
「俺がお前を不幸せにしてやるよ」
狂気は微笑みながら、とんでもないことを口にした。




