一話 絶望の少年
齢15歳。生まれて初めて、僕は村の鐘の音を聞いた。それはとても無機質なものだった。
「逃げろ!!」「急げ!!」と叫ぶ声が途端に大人たちから沸き起こる。
神に祈る者、家族を連れて家を飛び出す者。村の通りは人で溢れ返り、誰かが転ぼうとお構いなしだ。
普段温厚な村人たちの誰の顔にも笑顔はなかった。絶望という言葉がこれほどになく似合う。
何があったの、と聞こうとして父の方を見ると、先ほどまで部屋の椅子に腰かけて本を読んでいた父はかろうじて聞き取れる声量で、呟いた。「とうとう来てしまった。」と。
「来たって何が?」と聞いた僕を見つめる父の目には涙が滲んでいた。どんなときでも笑顔を絶やさなかった父が、このときだけは笑っていなかった。長身の父が片膝をついて僕に目線を合わせた。
「イオ、勇者様が魔王に負けた。この村はまもなく滅ぶ。」
スケールが大きすぎて頭がこんがらがる僕を横目に父は、これを、と言って懐から赤い宝石が埋め込まれたペンダントを取り出して、僕の手のひらに包ませて言葉を続ける。
「これが必ずお前を守ってくれる。村の南にある酩酊の森に行け。あそこなら魔族は侵攻できない。」
「でも、お父さんはどうするの?」
「お父さんにはしないといけないことがあるんだよ。さあ、行くんだ。」
でも、と言いかけた僕に父はにっこりと笑って見せて、さっきより少し穏やかな声でもう一度同じ言葉を繰り返した。
「さあ、行くんだ。」
この父の姿を見て、きっともう二度と父には会えないのだと理解した。そして、僕はいかなければならないということも。
父の手を両手で強く握って、そして南へと駆け出した。
村は文字通りの地獄絵図だった。仲がいいはずの村人たちが笑顔で殺しあっている。
何の音かもわからない轟音が鳴り響き、通りは血で赤く染まっていた。誰もが正気を失っていた。
殺しあっている人々も、散らばっている屍もすべて僕を止める理由にはならない。父との約束のほうが何倍も大事だ。
顔が熱い。身体中の血が沸騰していて、全身が酸素を求めている。ときどきペンダントを握る右手の感覚も消えそうになった。でも足だけは止めなかった。
何度もつまずいて、転びそうになってなお足を動かし続けた。足以外はまるで屍も同じで、生きた心地がしていなかった。村の関所を抜けて、山を越えて、ひたすらに走り続けた。
酩酊の森に足を踏み入れて、僕は意識を失った。
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「ん、ここは…」
目を開けると小川のそばに横たわっていた。深い霧に包まれていて、少し先ですら霞んで見える。
森で倒れたところまでは覚えている。というよりも『脳裏にこびり付いて離れない』に近い。思い出して、吐き気が浮かんで咄嗟に川に顔を近づけて吐いてしまった。
「大丈夫か」
後ろから急に聞こえた低い声にびくっと体を震わせる。
振り返ると霧の中から大男のシルエットがこちらへと歩いてきた。手には巨大な槍を持っているらしい。
警戒をして麻衣から短剣を取り出し、大男に向けた。
「まてまて、敵意は無いんだ。あそこは魔族の攻撃が届くところだからここまで運んできた。
戦う意思はない。」
そういいながら大男は槍を地面に突き刺した。その地響きがこちらにまで伝わってきてよろけてしまった。
「そうそう。これ、お前さんが眠っていた近くに落ちていたから一応拾っておいたんだが、お前さんのか?ああ、霧で見えないよな。ここに置いておくから勝手に取っていってくれ。もしお前さんのじゃないなら川にでも捨てておいてくれ」
霧に赤い光が乱反射する。多分、父が渡してくれたペンダントだろう。
「警戒されてるようだし、俺は立ち去る。またな。」
大男が槍を地面から軽々と抜き、再び地面が揺れた。シルエットは再び霧の中に溶けて消え、赤い灯だけがその場に残った。
まだ少し警戒しながらも赤い光を手にすると、確かにそれは父のペンダントだった。そして地面には深い傷だけが残っていた。