2−5 猫をかぶった猫をぶった
USBから、ドクンドクンと首に液体が流れ込むのを感じる。どうして容器をUSBにしたのだろう、なんていう能天気な考察は、すぐに中断された。
「うっ!」
思わず心臓を──もちろん比喩であり実際は胸だ──抑えた。身体中が熱い。目が痛いほど充血し、まるで体内を煮沸した熱湯が駆け巡っているようだ。"体の中から力が湧いてくる"、そんな漫画でしか見ないような状態を、僕は現在進行形で体験していた。
手で大地を掴み、フラフラしながらゆっくり立ち上がる。そして鏡に映った自分の姿を見て、仰天した。僕の自慢の黒髪が、頭頂部を中心に数センチ白く変化しているのだ。例えるなら、黒い苺に白いへたが乗っかってるような、そんな感じ。
対峙する尾割千莉、いや、猫又は、明らかに動揺していた。手も握れないレベルで生命の灯火が消えかかっていた相手が、RPGで回復魔法をかけられたかのように、復活したのだ。無理もあるまい。
僕は、自分を奮い立たせるため、あるいは虚勢を張るために、口に笑みを浮かべて言った。
「かかってこいよ、猫ちゃん」
──猫又が地を蹴った。超低空かつ超高速で迫ってくる、のが見える。しかし......
「うおっ、危ねえ!」
右爪による上段攻撃を間一髪でしゃがんで避けた。すぐ真上で壁に深い爪痕がガリガリと刻まれる音がする。僕は壁を蹴り、前周りするようにして猫又の脇を抜け、距離をとった。
......意外とギリギリなんだが。
さっきよりは格段に動きが終える──が、余裕で見えるかと言われるとそうでもなく、集中してないと追い切れない。又多日は、僕が意識を乗っ取られないよう、薬の濃度を薄くしてあると言っていた。もう少し濃くしてくれて良かったと思うのは我が儘か。
猫又が間髪入れず攻撃をしてくる。右腕の攻撃は左へ、左腕の攻撃は右へスウェーバックして、なんとか避けているが──
「ぐっ!」
僕は猫又の右回し蹴りを受け、Y軸方向にふっとばされた。天地が引っ繰り返り、地に手をつき両足で着地する。左腕でガードしたためダメージはほぼ無いが、テクニカルに混ぜられる蹴りを避けることは至難の業であり、このままでは一方的にダメージが蓄積し続けるだけのジリ貧だ、と思った。
攻撃しなければ。
──そう思った矢先、椅子が回転しながら飛んできた。右足で蹴り飛ばす。椅子の死角から僕の目めがけて真っ直ぐ爪が迫って来る。
僕はさながらマトリックスのように上体を反らして避け、その勢いを殺さずに左足を振り上げた。ガン、と確かな手応え。よしっ。
「がっ!」
猫又が仰け反った。僕は好奇を逃すまいと距離を詰め、上半身をこれでもかと捻り、渾身の右ハイキックで奴を蹴り飛ばした。猫又は音楽室全体が揺れるくらいの衝撃とともに壁に叩きつけられ、ズルズルと崩れ落ちる。僕を見上げるその目は、憎しみという言葉では形容しきれない程、深い闇に満ちていた。
「猫又、もうやめろ。僕はお前の動きは見切った」
「フーッ、フーッ」
荒々しく呼吸する猫又が、再び走り出した。なるほど、こいつは僕を殺すためだけに作られた化け物というわけだ。尾割千莉に偽りの前世を植え付け、猫又という怪物を作った存在がいる。そいつこそ、吐き気を催す邪悪というヤツであり、真の敵だ。
......戦いの中でそんな余計なことを考えていた、バチが当たったのかもしれない。全撃が一撃必殺の猫又の猛攻をさばいている途中、突然、右腕がシートベルトのロック機能を喰らったかのように止まった。──目を右下に落とすと、戦いの中で少しずつ解けていた包帯を、猫又が口で掴んでいた。
あ、これやばい
そう思う間もなく、猫又が左に首を振り、僕は身体ごと右に持ってかれた。体勢が崩れる。すかさず下から飛んで来る左フックを、死ぬ気で体を回転させて避けるが──
ザシュッ
「ぐあっ!」
間に合わず、奴の鋭い爪が僕の脇腹を切り裂いた。歯を食いしばって素早く包帯を手刀で切り、僕はすかさず離れ、体勢を整える。致命傷では無いことは分かるが、呼吸は荒れ、血が止まらない。
くそっ、油断した。僕はバカか。
──落ち着け。次で終わらせてやる。
ボロボロの猫又が雄叫びとともに突っ込んで来る。今まで、初撃は毎回右腕だった。獣に癖は変えられないだろう、僕は奴の右腕に全集中力を投じた。──予想は完全的中。僕の頭に向かって右ストレートが放たれた。
ここだ!
引けばクリーンヒットは当てられない。死に物狂いで前に出る。迫り来る爪がチッと頬を擦るくらいジャストで回避し、低い姿勢で懐に入った僕は、ダンッと地面を揺らす勢いで左足を踏み込んだ──
「尾割、目を覚ませ!」
右腕を内側にねじり込みながら、猫又の頬を撃ち抜く。猫又は後ろに真っ直ぐ吹っ飛び、壁に激突すると、完全にノびてしまったようで、静寂が音楽室を包み込んだ。
「はぁ、はぁ」
ガクンと膝の力が抜ける。肉体を行使し過ぎたせいなのか、脇腹の傷のせいなのかは分からないが、身体全体が気怠い。アフターケアのために、猫又の方へ膝を擦って近づくと、その手は人間の手に戻っていた。
──よかった。小学生並みの感想であることは自覚してるが、今の気持ちを表現するにはその一言で十分だった。
ガチャリと、突如ドアが開く音がした。まずい、音を聞きつけて教員が見に来たのか?慌てて振り向くと、もう見慣れたジャージ女が立っていた。
「嵐が過ぎ去ったようとはこのことね。お疲れ様、不死原君」
「佐々波......お前のズボンの後ろポケットは穴が空いてるようだぞ」
「最近買ったばかりなんだから空いてないわよ」
「皮肉だ!」
カツカツと足音を立てて佐々波が猫又に近づく。
「まだ息があるようだけど」
「はあ?殺すわけないだろ。そいつは人間──」
「天魔よ」
冷酷な目で彼女は言い放った。そこに情は無い。
「人間が壁に爪痕を残せるでも? 口に気をつけなさい」
「天魔だからって殺していいのかよ」
そう言った瞬間、佐々波が四つん這いになっている僕の顎を靴で持ち上げた。無理やり首が上げられ、息がしにくくなる。怪我人になんてことすんだ。
「奴らの行動目的はただ一つ、人に害を与えることよ。そういうふうに出来てるの。それともなに、これからこの猫が殺すであろう面々を、あなたが蘇生呪文で生き返らせるとでも言うつもりかしら」
「ぐっ.......確かに、僕は無知だ。ほんの最近まで天魔の存在さえ知らなかったさ。ただ、そいつは──多分、悪い奴じゃない」
顎から靴が離れた。「けほっ、けほっ」と咳き込む僕を置いて、佐々波は気を失っている猫又に近づき、肩をガクガクと揺さぶった。
「コイツの本性を見てなさい。目を覚ませば人間を真っ先に殺しにかかるはずよ。」
ピクッと目が動いた後、猫又、いや、尾割の目が薄く開き始める。急に意識が覚醒したようにバッと飛び起きて、目をぱちくりさせて言った。
「ん? ここは? お姉サン誰にゃ?」
尾割が周りを見渡し、そして僕と目が合った。
「わ、不死原くん、その髪どうしたんだにゃ。白いへたが乗ってるみたいにゃ」
佐々波は、無表情で尾割を観察していた。それが目の前の出来事に呆然としてるだけなのか、ポーカーフェイスなのかはわからないが、少なからず動揺しているのは明らかだった。ざまあみろ。
「賭けは僕の勝ちだな......さざな──」
急に腕の力が抜けて、ガツンと強めに床に頭をぶつけた。あれ?体に力が入らない。PCの輝度が下げられたように、視界が暗くなっていく。
「不死原くん?!しっかりするにゃ」
足音が近づいてくる、尾割だろう。地面に耳をくっつけてるため、足音はうるさすぎるほどよく聞こえ、頭にガンガン響いた。
「お姉サン、不死原くんを病院に連れていくのを手伝ってくれにゃ」
「......男子高校生を運ぶのって死ぬほど疲れるのよ。あなたが彼を背負いなさい」
その後、尾割が「わかったにゃ!」と元気に返事したのを最後に、僕の意識はフェードアウトした。──後から聞いた話では、僕が気絶した瞬間、白髪になっていた部分は黒に戻っていったらしい。僕はびっくり人間か。