2−2 僕には前世がありました
土曜日の真昼、まだ5月なのに容赦無く肌を焦がしてくる太陽にウンザリしながら、僕は歩いていた。道があやふやで何度も行った来たりしながらも、なんとか目的の建物の前に到着する。
『又多日探偵事務所』と書かれた壁面を横目に外階段を上り、ハンカチで額を吹いてから、一呼吸置いてドアノブに手をかける。扉を開けた先には、例の没落サラリーマンが、既にこちらを向いて座っていた。
「又多日さん、助けを借りたいです」
「お洒落な包帯をしてるじゃないか。ま、とりあえず入りな」
僕はドアを抜け、一番冷房が当たってそうな中央付近のソファに腰を下ろした。又多日がゴロゴロと丸椅子を滑らし、近くまで寄って来る。
「真くん、また俺に会えて良かったねえ」
「どういう意味ですか」
「君が命を狙われることはわかってたからね。ここに来れてない世界線の君は殺されているということさ」
──いちいち回りくどい言い方をする男だ。
「で、とりあえず話を聞こうか。その包帯も厨二病ファッションじゃないだろう」
「厨二病は卒業してます」
そう言う奴に限ってしてないのさ、という又多日の言葉はスルーして、僕は尾割千莉について話を始めた。そして、明後日の月曜日に殺すと宣告されてることも。
「うーん、明後日に殺すってのは嘘ってことは無いのか?」又多日が丸椅子をクルクル回転させて言った。
「それは無いです。本気なことを示すために、この深い傷を作ったんでしょうし」
「そうだ、冗談なんかじゃ無い。話を聞く限り尾割千莉は猫の天魔だ。必ず月曜日に君を殺そうとするだろう」
急に真剣な顔になって言った。試すようなことを突然するのはやめて欲しい。
「しかしタダで助けるわけにはいかないね」
「わかってます。どこかの天才外科医みたいな法外な金額は勘弁ですが」
「金は腐るほど持ってるからいらねえ。条件を二つ提示させてもらおう。一つ、真くんが自分の前世と向き合うことだ」
てっきり体で払えとでも言われると思っていたので、予想外な条件に驚きを隠せない。
「気づいてんだろ、真くんには前世がある」又多日は真面目な顔をして話し出した。「しかし、君は新人であることが満たしていた承認欲求の消失を恐れ、頑なに認めて来なかった」
「そんなこと知ってます。でも!仮に前世があったとしても、データを見れないなら、それは新人と変わらない!」語気が強まる。それはきっと、自分が情けないから。
「前世不明の前世持ちなんていう、中途半端でどのグループにも属さない人間になるくらいなら──」
「前世に縛られるな!」
又多日が珍しく声を荒らげ、僕は驚いた。
「誰も彼もが前世の有無に踊らされてやがる。生まれで分類するなんて、人はどこまで退化したんだ。有るなら利用すりゃいいし、無いなら人一倍努力すればいい。それだけだ」
「そう......ですよね」
──とっくにわかっていた。ずっと気づかないフリをしてきた。新人であることを言い訳にして、努力しようとしなかった。
『自分の力で境遇を引っくり返してやろうっていう気持ちが無いのよ』
佐々波の言ったことは何も間違ってない。本当に僕はしょうもない奴だ。
「僕は、どうすればいいですか」
「前世の呪縛から脱することは簡単じゃないはずだ。君は新人として様々な理不尽な扱いを受ける中で、前世の有無が重要であると洗脳されてしまってるからな」
──本当にこの男は賢い。知り合って間もない僕のことを既に理解してしまっている。
「だから」と一呼吸置いた後、又多日は言った。「僕には前世があります、と言ってみよう。さん、ハイ」
「ぼ、僕には前世があります......これって意味あるんですか?」
「意味は無いな。まあ意思表示みたいなものだ。真くんは詩暮と同じで、クソガキの中では聡い。もう自分の前世を否定する気は無いだろう?」
「ええ、まあ」と言うと、「よし」と満足そうな顔をして、又多日は丸椅子を一回転させた。
「それじゃあ契約成立だ。作戦会議といこうか」
「二つ目の条件を忘れてますよ」僕がツッコむ。「ああ、それは君が生きて帰って来たらそのとき言う」と又多日は返した。
「まあ話すことは特に無い。君が月曜日、尾割千莉を倒すだけだ」
「冗談でしょう。彼女の腕を目で追えませんでしたよ、僕」
「対抗できるさ、ヤドリンを使えばね。君も体験してるはずだ」
──"あれ"か。覚えてないけど、僕が猿の化け物を倒したらしいし、可能性はあるかもしれない。
「しかし、君に今すぐヤドリンを渡すことは出来ない。君の前世は危険すぎる。以前に使ってどうなったか覚えているだろ」
「別人格が出て、佐々波を殺そうとしたらしいですね」
「その別人格というのは、君の前世だ」
又多日が僕をビシっと指差して言った。
「ヤドリンは前世の力を引き出す優れものだが、それで前世に体が乗っ取られるというケースは前に無い。それだけ君の前世は強力ということだな」
僕の別人格が何をしでかすか分からない以上、いくら尾割を倒すためとはいえ薬を使うことはためらわれる。
「だが安心したまえ。現在、君専用のヤドリンを作ってるところだ。通常のものより薄くしてあるから効果は弱まるが、体を乗っ取られることは無い......はず」
「いつできるんですか、それ」と聞くと、「うまくいけば月曜日の午後くらいかな」と言った。
「間に合いませんて......」
「大丈夫大丈夫。でき次第、詩暮に届けさせるから」
「平日の昼ですよ。あいつも学校があるでしょう」
「高校は行ってないわ」
突然、背後から高圧的な声が響いた。後ろを向くと、佐々波詩暮が仁王立ちしている。
「言っておくけど、頭はあなたの百倍いいわよ。高校の範囲はすべて学んであるもの」
「お前......またジャージ着てるのか」
「悪い?動きやすい上に体温調節もしやすい、合理的な服装じゃない。JKはジャージを着ちゃいけないって決まりがあるのかしら」
又多日が口を挟んだ。
「詩暮、話は聞いてたな?月曜日、真くんに届け物、頼んだぞ」
「未知が怖くて逃げ出した女々しい男子に届けるのはあまり気が乗らないわ」
──佐々波はけっこう根に持ってそうだ。確かに僕が情けなかったわけで、反論はできない。
「悪かったって。もう腹はくくった」
「ふーん、まあ気が向いたら届けてあげるわ」と言い残して、佐々波はドアから出て行った。
「この作戦うまくいきますかね......」
「いかなかったら、そんときはそんときだ」
──そんときは僕死ぬんですけど。
僕は大きすぎる不安を抱えて、事務所を出た。