1−3 探偵事務所へようこそ
嫌な夢を、見ていた。
僕は暗い手術室で寝ていて、周りを30人の医者がうずを描くように取り囲んでいる。主治医が「メス」と言うと、1人目がメスを取って2人目に渡して......最後に30人目からメスを受け取った主治医が、僕の胸をパカッと解剖し、心臓を取り出す。
「心臓」と主治医が言うと、また1人目から心臓のバケツリレーが始まる。ドクンドクン拍動している真っ黒な心臓を受け取った主治医は、僕の中に組み込もうとする。「何をするんだバカ」と僕は暴れるが、周りの医者が我先にと集まり僕の体を押さえ込む。
僕は何も出来ずに、自らの体の中に禍々しい心臓が入っていくのが見ていた。──やめろ、やめてくれ
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「うわあ!」
僕は叫んでソファから飛び起きた。嫌悪感と安心感で脳がグチャグチャな中、慌てて手で胸のあたりをポンポン触る。
少しずつ意識が覚醒し、自分が見知らぬオフィスにいることに気づいた。机が横並びにいくつも並び、書類が雪崩を起こしている。睡眠中に異世界転生でもしたのだろうか、なんて冗談を思いつくくらいには冷静だが、どうも記憶が混乱している。
ソファに真っすぐ座り直して、気を失う前のことを思い出そうとしたとき、後ろから声が響いた。
「性別が転換する夢でも見ていたのかい?若いっていいねえ」
「それだったら始めに股間を触ってますよ......って誰ですか」
そこには丸椅子に座った男がいた。薄い青色の髪をポニーテールのように後ろで縛った男。くたびれたワイシャツに緩んだネクタイを装備しており、"没落したサラリーマン"という表現がよく似合う。顔のハリ的に年齢は多分30代だろう。
「俺は又多日吾浪、ちなみに猫は嫌いだね」
「ここはどこですか」
「まあまあ、慌てんなって」又多日とやらは子供を窘めるように言った。「まずは思い出せるところまで思い出してみようか、不死原真くん」
そう言われ、僕は素直に記憶の糸を手繰り寄せていく。──思い出した、商店街で猿の化け物と対峙した僕は、ボールペンを首に注射したのだ。そこからはどうやっても思い出せない。
「そうだ、あの女は無事ですか」
「君は善人だねえ。それとも偽善かい?」まあどうでもいいかと呟き、又多日が「シグレ」と呼ぶと、隣の部屋からジャージ女がピンクの長髪をなびかせて現れた。
「お前シグレって名前だったのか」
「私は天魔退治への協力を条件にここで暮らしているわ。ちなみに、名前は佐々波詩暮よ。」
自己紹介を名前から始めないってことは訳ありの人生を送ってるんだな、と僕は思った。
佐々波は近くのキャスターチェアをゴロゴロ引き寄せて座ると、僕が意識を失ったあと商店街で何があったかを説明した。どうやら僕に別人格が現れたらしい。嘘乙と切り捨てる気は無いが、信じ難い話だ。
「不死原君、あなたは本当に新人なのかしら」
「当たり前だ。僕に前世があるなら、シヤクショに前世データが無いことと矛盾するだろ」
「前世が無いことだって、薬を使っても死んでいないことと矛盾するわよ」
相変わらず高圧的な女だ、と思った。ようするに、僕に前世が有っても無くても、矛盾する確かな事象があるということか。
不毛な議論になることを察知したのだろう、ずっと丸椅子を回転して遊んでいた又多日が横から口を挟んだ。
「そういうガキの政治討論みたいな議論ごっこはウザいから止めてくれ」
「これは大事な議論よ」佐々波がムッとして言った。
「議論ってのは相手の主張を理解して初めて成立すんだよ、詩暮。お前が真くんの前世通知書を見てない時点で議論にはならねえ」
これ以上は負け戦だと悟った佐々波が、椅子を回転させて又多日に背を向ける。見た目はただの駄目サラリーマンだが、この男意外にも頭がキレるらしい。
「又多日さん、あの猿の化け物は何なんですか」
「あれは天魔っって言うんだが、んー......動物が突然変異したものって言ったら納得するかい?」
「納得します」僕は即答した。
へえ、と又多日がニヤリと笑う。佐々波は驚いた顔をして言った。「なんで納得するのよ。どうみても秘密を隠してるじゃない」
──正直言うと、怖かった。僕が暮らす日常が「表」だとしたら、この二人も天魔も例の薬も全て、「裏」の存在だ。これ以上踏み込めば、僕は表に帰って来れない気がした。知らぬが仏、全く先人というのは確信を突くのが上手い。
「あなたは新人じゃないかもしれない」と佐々波が切り出した。「いえ、あなたには間違いなく前世があるわ。自分の秘密を知りたくは無いわけ?」
「危険な目にあってまで知りたいとは思わないね」
僕はそう言ってソファから立ち上がり、ドアへ向かう。ノブに手をかけたとき、又多日は言った。
「真くん、君は内心では新人でありたいわけだ。新人であることは君の唯一のアイデンティティだ。そりゃ失うのは怖いだろう」
「・・・」
──この男は僕の心を読んでいるかのように話す。ウザいと感じてしまっているのは、又多日の言葉が的を射ているからだろう。
「そのドアを開ければ、君は表の世界に帰れる。退屈ながらも安穏な日常にね」僕はドアノブを掴んだまま背中で聞く。
「だがな、君の前世が君を逃さない。抗えないから運命なんだ。──必ずここに戻ってくるよ、君は」
僕は逃げるようにドアを開けると、部屋の空気を外に出さないよう急いで閉めた。急いで外階段を駆け降りる。
夜道に出て、ふと振り返ると、「又多日探偵事務所」という文字が月光に照らされて輝いていた。
──死んでも戻ってきてやるものか。僕はそう決意すると、事務所に背を向け走り出した。