1-1 僕には前世が無い
なぜ人は自己紹介を名前から始めるのか──それは名が最も重要な情報だからだ。「重要な情報から」が定石である自己紹介において、名前は不動の一番打者に違いない。僕だって、始めに名乗らない奴は非常識だなと感じる。
そんなことは百も承知で、僕自身は自己紹介をこう始める。
「僕には前世がありません。......あ、ちなみに名前は不死原真って言います」と。
断っておくが僕はアンチ輪廻転生思想ではない。ここでの前世が無いとは、前世のデータが存在しないということで、そういう僕みたいな人間は「新人」と呼ばれる。
この世界で前世が無いことは、人権を与えられていないに等しい。人に会えばバカにされるか哀れまれるかの二択だし、適性が不明なためバイトは門前払いが当たり前。
前世の無い「新人」であることの前では、僕の名前などついでの情報というわけだ。
さて、突然だがそんな哀れな僕は今、人生最大のピンチを迎えている。場所は商店街。目の前には殺る気満々の猿のバケモノ。すぐ後ろには倒れた女。構図だけで言えば姫を守る騎士だが、その実は吹けば飛ぶような非力な高校生だ。女を見捨てて逃げるほど腐っちゃ無いが、新人の僕が人外に対抗できる可能性もまた無い。まもなく僕の血は、あの長く鋭い爪を赤く彩るだろう。
──どこで僕は選択を間違えてしまったのか。それを考察するには、半日ほど時を遡らなければならない。
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パーカーを着てこなきゃ良かった、と思った。前後の間隔が狭い行列は、こんなにも蒸し暑くストレスが溜まるものなのか。行列の出来るような店には行かない僕には初めての経験だった。
「次の方、どうぞー。」
白衣を着た若い女性に呼ばれ、ようやく僕は大部屋に作られた長蛇の列から解放された。軽い会釈とともに、《転生届》と書かれた書類を窓口に差し出す。
『転生届』。これを提出しておけば死後に生まれ変わり、前世の能力を潜在的に秘めた新たな人生が始まる。転生後は天使管轄のシヤクショ──僕が今いるところだ──で前世データを確認できるので、自分の潜在能力や適性がわかる。
勘違いしがちだが、第二の人生を送れるということではない。前世の記憶は残らず性格も一変するので、生まれるのは全くの赤の他人と言っていい。
ぶっちゃけ自分自身にメリットは無いが、満17歳になった人類はシヤクショで転生を申請することを義務付けられている。これも社会貢献の一環ということだろう。
ちなみに、僕みたいな「新人」は、この前世データが存在しない。つまり転生ではない、無から生まれた魂だ。
新人であることに散々苦しめられてきたが、僕が輪廻の始祖になると思えば悪い気はしない。無理やり楽観的思考をしていることは否定しないが、そう考えることでいくらか気分は紛れた。
「すいません、不死原さん」
「は、はい!」
完全に油断していて声が裏返りそうになったので、軽く咳払いをしてごまかす。
書き損じがあったのかと思い聞いてみたところ、女性は首を横に降った。
「いえ、書類は問題無いですが...何度PCに入力してもエラーが出てしまうんです。
経験上こんなことは初めてで、ちょっとどうしたらよいか......」
言葉の意味が飲み込めず呆然とする僕の前でオロオロする女性。その後、別の職員がベテラン風を吹かせて代わる代わる加勢に来たが、PCとにらめっこするだけして皆去っていく。
結局、30分経っても僕が開放されることは無かった。
......前言撤回。どうやら僕には前世も来世も無いようだ。
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深夜まで粘ったものの最後まで僕の書類は受理されず、ご連絡をお待ちくださいという宣告とともに部屋から追い出された。打つ手のない僕はシヤクショを出て、入り口脇の赤いベンチに座り込む。5月の夜は思っていたよりも冷たい。晴れ渡る夜空をしばらく見たところで、僕の心は全く晴れなかった。
転生により輪廻が繋がっていくこの世界で、僕だけは前にも先にも誰もいない。悲しいとは毛頭思わないが、寂しいとは思う。僕の家族は健在だが、どうしてか天涯孤独という言葉が頭に浮かんだ。
「死んでも何も残らない、か。何のために......僕は生まれて来たんだろうな」
「児童向けアニメの主題歌みたいなことを言うのね」
「うわぁ!」
想定外の近さから返答が来て文字通り心臓が止まりそうになる。いつの間にか傘を持ったジャージ女子が隣に座っていた。ベージュがかったピンク色のロングな髪が僕の目を引く。整った顔立ちだが目は気の強そうな女だ。同い年くらいだろうか。
「お、驚かすな!」
「あなたが勝手に驚いただけでしょう。そんなことより、今この辺りは危険よ。ハローワーク前の浮浪者みたいな振る舞いはやめて、健全な高校生は早くお家に帰ることね」
「どこにいるかなんて別に僕の勝手だろ。僕は今センチメンタルなんだ、放っておいてくれ」
少しつっけんどんな言い方になってしまうのは、僕がまだまだ子供だからか。
「そう言えばさっき言ってたわね、何のために生まれて来たんだろうって」
「プライバシーの侵害だ」
「私、そういう悲劇のヒロイン気取りの言葉大嫌いだわ。意味を見出す努力もせずに嘆いているのを見るとイライラさせられる」
この売り言葉には僕も少しカチンと来た。
「お前に──」
「お前に僕の何がわかるんだ、でしょう。みんなそう言い返すわ。不幸なワタシ可哀想って思っている証拠よ。何もかも環境のせい。自分の力で境遇を引っくり返してやろうっていう気持ちが無いのよ」
なんて不躾な女だ。悪口には百戦錬磨の僕でもここまでズバズバ言われると泣けてくるぞ。
「それじゃ、さようなら。あなた名前は?」
「......不死原だ」
「不死原君、死にたく無ければ早く帰りなさい。意味を見出せないまま人生を終えたく無いでしょう」
そう言って女は立てかけていた傘を掴むと、スッと夜の闇に消えていった。彼女が居た場所に残ったのはかすかな温もりだけ......というわけでもなく、黒い多色ボールペンが残っていた。
「落としていくなんて意外とドジな奴だな」
ペンをつまんでグニャグニャさせながら考える。さて、今の僕には二つの選択肢がある。名前も知らない生意気な女にボールペンを届けるか否か。──あんな口の悪い奴に届けるのは正直気分がノらない。が、このまま帰れば罪悪感で一週間は寝覚めが悪くなりそうなのも事実。
届けよう、そう決心して僕はベンチから立ち上がった。
──もし神様がいるなら、この二者択一は君の人生を決定的に分かつ選択だよ不死原君、と教えて欲しかったものだ。日常のどこに人生の岐路があるかなど、選んでいる当人には知る由も無いのだから。
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