89. 悩める青年
昼間であれば真紅の薔薇が咲き乱れる庭園だが、今は夜。
月明かりにぼんやりと浮かび上がる薔薇の花弁が妖艶な雰囲気を醸し出している。
その中に、ルーファスが一人空を見上げて立っていた。
ディアーナの言葉を聞いた時に襲った複雑な感情。
昔の事を気にかけてくれたのが嬉しくもあり、護るべき相手に心配された事が情けない。
ここ最近はディアーナの前で泣いてばかりだったから尚更だ。
そんな複雑な感情を誰にも見せたくなくて外に出たが、ディアーナのものだと分かる足音が近付いてくるのが聞こえ、ルーファスはホッと息を吐いた。
(俺はいつまで経っても子供だ)
自分から飛び出したくせに、ディアーナが追ってきてくれた事が嬉しくて仕方ない。
そして背後からルーファスに腕を回し、そっと抱きしめてきたディアーナの温もりに泣きそうになる。
「嫌だった?」
ディアーナは回した腕に力を込めると、ポツリと呟いた。
「昔話した些細な事を覚えていてくれて嬉しかった。同じくらい護られてばかりだと情けなくなった。…そんな俺を誰にも見せたくなかった」
ルーファスは素直に今の気持ちを吐露する。
「わたくしにも?」
胸に回されているディアーナの手に自らの手を重ねると、首を振る。
「違う。だが情けなくて恥ずかしい。弱くていいって言ってくれたが流石に酷い」
「ルーは自分がどれだけ素敵なのか気づいてないのね」
ディアーナはそれだけ言って黙ってしまう。
背中越しの会話なのでディアーナの顔が見えず、何を考えているのか分からない。
「…ルー、目を閉じて」
「は?」
「いいから!目を閉じて。絶対に開けないでね!」
戸惑いながらもルーファスは言われた通り目を閉じた。
ディアーナはスルリと回していた腕を下ろすと、ルーファスの正面に立つ。
そこからまた暫く無言の時間が続いた。
目を閉じたままではあるが、ディアーナの深呼吸する音が聞こえる。
「ディア…」
ルーファスの言葉はそこで途切れる。
ほんの一瞬。ゴツンと勢いよく触れたディアーナの唇に、思わず目を開いてポカンとディアーナを見つめた。
「そこにっ、わたくしからするのは初めてなんだから!瑠衣果の時もしてないから!ルーが一番最初なんだからね!!何があっても、わたくしの一番はルーなんだからっっ!!!」
顔を真っ赤にしたディアーナはそれだけ言うと離れに向かって駆け出した。
「お料理が冷めちゃうわよ!早く戻ってきてね!!」
足を止めて思い出したように叫ぶディアーナの声も、ルーファスの耳には入らない。
(なんだ今のは)
ルーファスは自らの唇を指で触れた。
キスというより、ぶつかったという表現が正しい。
(初めてって…)
ディアーナの足音が遠ざかるのを聞きながら、ジワジワとディアーナの言葉が染みてくる。
ディアーナは勿論、瑠衣果も自分からした事は無かったと。情けなくても何でも一番はルーファスだと、そう言っていた。
ルーファスは力が抜けたようにその場でしゃがみ込むと、両手で顔を押さえて大きく息を吐き出した。
「……なんだあれ」
勢いよくぶつけられたディアーナの気持ちに、先程までモヤモヤとしていた自分が馬鹿らしくなってしまう。
「………可愛すぎだろ…」
ルーファスはまた大きく溜息をついた。
バタバタと淑女とは思えない足取りで皆が待つダイニングへ戻ったディアーナの様子に、元帥は微笑み、シリルは口を尖らせ、祖母は呆気に取られた。
リアムはディアーナの耳まで真っ赤な様子に、またルーファスが何かしでかしたのかと、青くなって立ち上がる。
「ディアーナ様。大丈夫ですか?」
駆け寄ったリアムを手で制すると「大丈夫です。大丈夫」と真っ赤な顔のままコクコクと勢いよく頷く。
「ディアーナ。パパもして欲しいです」
シリルが口を尖らせて言うのを、ディアーナは真っ赤になったまま「いつもしてるじゃない」と返した。
「それは頬でしょう。パパだって口にして欲しいです」
「……パパ。それは気持ち悪いから嫌よ。赤ちゃんなら良いけど、わたくし17歳よ」
シリルの発言にスンと音を立てて赤みが引いたディアーナは、気持ち悪いものを見るような顔をする。
「ははっ!そりゃそうだ。血は繋がってないとはいえ、父親みたいな相手にしたくないな!」
「…ローラン。今本気で傷ついてるのに、塩を塗るのはやめてもらえますか?」
楽し気に笑う元帥を、恨めしそうな顔でジトリと睨んだシリルが言う。
祖母は何と言っていいのか分からず、複雑な表情だ。
「って…えぇ?ディアーナ様からされたんですか?」
リアムが驚くと、ディアーナはその口を両手で塞ぐ。
「リアム様。それ以上言わないで下さる?」
ディアーナに口を塞がれているリアムは頬を染めて何度も頷く。
「…ディアーナ、リアムの口に触れるな。ディアーナの手が汚れる」
背後から抱き込むようにルーファスの手が伸ばされ、リアムの口を塞ぐディアーナの手を取った。
ディアーナは背後に立つルーファスを見上げると、また耳まで赤くなる。
「サミュエル」と、ルーファスが声を掛けると、サミュエルは笑みをたたえながら頷いた。
途端、ディアーナの両手が一瞬白く光る。
「ちょっ!浄化するって酷くない?俺をバイ菌扱いするなよっ!!俺は何もしてないからなっ!」
「ディアーナが塞ごうとしても避けろ。避けられずディアーナに触れたのが悪い」
「横暴!横暴すぎる!!」
リアムの訴えを無視して、ルーファスはディアーナの耳元に顔を寄せた。
「ありがとう」
そう言って微笑んだルーファスに、ディアーナは花が咲いたような笑顔を見せた。