【番外編】王妃殿下のプチ家出
ディアーナは頭を抱えていた。
「学園と王妃教育、商会経営と公務…。時間が足りないっ」
ディアーナは学園に籍を置いている。
セウェルスへの帰国から新婚旅行まで学園に通えていないが、課題だけはこなしていた。
王妃教育もまだ終わってはいないし、商会経営に公務もある。
「おかしい。商会経営と公務が増えたとしても昔に比べたら時間はある筈。なんで時間が足りな…」
ハッとしてディアーナは天を仰ぐ。
思い当たるのは一つ。優秀過ぎる能力を遺憾無く発揮してディアーナとの時間を確保する夫。
とにかく離してくれない。アルが呆れて"気持ち悪いよ"と暴言を吐いても、サミュエルに苦言を呈されても離そうとしないのだ。
一緒に過ごす時間は幸せだが、早ければ夕方には政務を終えてくるのでディアーナのやる事が進まない。
王妃としてやるべき事は沢山あるのに私事で支障をきたすわけにはいかないのだ。
ディアーナは「よしっ!」と声を出して立ち上がると、そのままの勢いでルーファスの執務室へ向かった。
「ディアーナ様?っと、王妃殿下。如何しました?」
執務室にはリアムしか居ない。
騎士団の訓練に付き合っていると聞き、これ幸いとリアムに宣言する。
「暫くオルサーク公爵邸の離れに参ります。必要な時は戻りますが、陛下には一人になりたいとお伝え下さい」
リアムがあんぐり口をあけ固まったところで、笑顔を見せてから善は急げとディアーナは執務室を立ち去った。
「で、戻ってきたのか?」
ニコニコ笑顔のディアーナに、元帥が呆れ顔で頭を掻いた。
「はい!暫くお世話になります!!」
「それは構わないが、式を挙げてまだ二ヶ月も経ってないだろう。もう里帰りしたくなったのかい?」
「ルーが居るとやる事が捗らなくて…。皆の期待に応えなくてはなりませんから」
「ああ…大体想像がつくが…」
王族の愛は重い。それは元帥も同様なのでディアーナの言葉から状況は察するに余りある。
だがディアーナが離れに戻ったと知ったルーファスが冷静でいられるか。絶対に無理だろうと元帥は内心溜息をついた。
"僕はルーファスと離婚しても良いと思うよ。見てて気持ち悪いもん。ディアーナが寿命を終えても、ルーファスを連れていくの止めようかなぁ…"
一緒に離れに戻ったアルが耳をペタリと下げて溜息をつく。
「転移魔法陣まで止めたらルーが発狂しますよ。ディアーナが望むから止めますけど、後が怖いですね…」
離れに呼び出されたシリルは困り顔だ。
「転移魔法陣が使えたら意味が無いの。…わたくしルーに弱いのよ…。子犬のような目で見つめられると駄目とは言えなくて…」
"ディアーナはルーファスに甘すぎだよ"
「ディアーナは甘いですね」
アルの言葉が聞こえない筈のシリルがアルと同じ事を言う。
ディアーナ自身も駄目だと分かってるのに、つい許してしまうのだ。返す言葉も見つからず自らの頬を包んで気まずそうに目を逸らした。
「仕方ありません。私も暫くはここに居ましょう。毎日王妃教育はあるのでしょう?馬車の移動時間が勿体ない。ディアーナが使う時だけ開放しましょう」
「ありがとうパパ!」
ディアーナは顔を輝かせた。
騎士団の視察から戻ったルーファスはリアムから伝言を聞いて執務机を叩きつけた。
「それで止めなかったのか?」
「止める間がなかったんだ!ルーファス、お前何してんの?!」
「何もしてない。ディアーナとの時間を作るために最大限努力してるだけだ」
「…お前はそれでいいけど、ディアーナ様の事も考えてる?結婚を早めたから学園もあるし、王妃教育だって終わって無い。だけど王妃だから公務や商会経営もある。その時間は作ってるのか?」
リアムの静かな指摘にルーファスは言葉を詰まらせた。
その様子から浮かれすぎてディアーナの事まで考えていないとリアムは眉を顰める。
「気持ちは分かるけどさ、お前…もう少し落ち着けよ」
「…分かってる…」
「理解する気があるならディアーナ様が満足するまで待ってやれ」
正論過ぎて何も言い返せない代わりに、ルーファスは拳を握りしめた。
ディアーナは集中して取り組む事が出来たお陰で滞っていた課題や書類を全て終わらせる事が出来た。
「はー!ディアーナの知識って本当便利。それだけ勉強させられてたって事だけど…」
積み上げられた課題を見て感嘆の溜息をつく。
瑠衣果の成績では絶対にこなせない自信がある。ディアーナの培った知識が今も活かせる事が出来るのは悔しいがセウェルス前国王夫妻の存在が大きい。
「…夜まで時間をもらえれば王城に居ても無理なく終えられるのだけど…」
"それなら僕がルーファスの邪魔をしようか?あいつが戻って来れないように天災でも起こせばいい?"
「冗談でもやめて。そんな事したら許さないわよ」
"えー!じゃあどうすればいいのさ"
「何もしないでいいよ。これはルーと私の問題だもん」
アルは不満気に鼻息を鳴らすと耳をペタリと垂らした。
ディアーナはひとつ笑うと頬に手を当てる。
「…ルーに会いたいな」
"は?何言ってるの?まだ一日も経ってないのに?!"
「日数の問題じゃないと思うけど…」
プクリと頬を膨らませたディアーナは窓の外を見つめ、固まった。
窓の外にはオルサーク家が誇る薔薇が広がっている。
その中の人影が空を見上げていた。
ディアーナは勢い良く立ち上がると、外に出て人影があった場所に走った。
月明かりに照らされた黒髪が闇の中で艶やかに光る。
空を見上げる表情は何かが抜け落ちたように色が無い。
ディアーナがやって来た事にも気付かないのか、動かない背中にそっと寄り添うとその背中が揺れた。
「リアムにも言われた。俺を優先してディアーナの事を慮ってやらなかった。だから…」
「離れまで来たけど、入って来れなかったの?」
ルーファスの頭が僅かに動く。
拗ねているかのか、申し訳ないと思っているのか。その様子が可愛くてディアーナは背中に顔を寄せて小さく笑った。
「この時間まで貰えれば全部終わるみたい」
そう言ってディアーナはルーファスの正面にまわり、その身体を抱きしめた。
「わたくしが終わるまで待っていてくれる?」
目を閉じルーファスの心音を聞きながら、答えを待つ。
「待つよ。…待つから帰ってきて」
掠れ、泣きそうな声にディアーナは顔を上げ、背を伸ばしてルーファスの唇に自らのそれを合わせた。
「うん、一緒に帰る」
"あーあ、一日もたなかったよ。まあ良いけどさ"
「おや、ルーファスが迎えに来たようですね。魔法陣を開放しておきますか」
窓から二人の様子を眺めていたアルの頭上から、シリルの穏やかな声が響く。
アルの声が届かない筈のシリルは「ディアーナもルーからは離れられないですから」と、アルの呟きに答えるようにしてその場を離れていく。
その姿を見送ったアルはぶるりと身震いした。
"あいつ怖い。やっぱり嫌い"
アルの呟きは今度こそ誰にも届かなかった。