164. ディアーナは慟哭する
ポタリポタリと血が滴りディアーナの着衣を赤く染める。
「ディアーナ」
ディアーナの名を呼ぶ声が掠れているのに涙が溢れる。
「…怪我はないか?」
何を言っているのだとディアーナは口を動かそうとするが上手くいかない。
ディアーナの肩に触れる手はいつもと同じように優しく、見つめる赤の瞳も優しい。
違うのはディアーナを貫く筈だった剣がルーファスを胸を貫いていること。
「…しまった、褒美が貰えないな」
何度か咳込んで血を吐くルーファスは茫然としたままのディアーナに微笑んでから、そばに居るラグナに視線を移した。
ラグナの黒の鱗が一枚一枚宙に舞って消えている。
「すまない。約束を果たせそうにない」
ラグナは赤の瞳を細めてから口を開く。
『構わない。良くやった』
その声は慈愛に満ちたもので、ルーファスはフッと息を吐くと嬉しそうに笑う。
ディアーナは二人のやり取りをただ茫然と眺めているだけだ。
ルーファスの胸に刺さったそれを引き抜くとルーファスは死ぬ。
そのままにしていても同じようにルーファスが死んでしまう。
ルーファスを貫いた剣は神の力。
ディアーナが魔法を使っても傷を塞ぐ事は出来ない。
目の前に起こった事実を受け容れる事が出来ずにディアーナは混乱する。
「ディアーナ。落ち着いて」
そう言ったルーファスの力が抜けて崩れ落ちるのを、ディアーナは反射的に受け止めた。
リアムとクラースも駆け寄ってルーファスの体を支えた。
二人とも蒼白でルーファスの名を叫んでいる。
「リアム、クラース。大叔父上に全て託すと伝えてくれ」
「なっ…何言ってるんだ!馬鹿かお前はっ!!逃げだすなんて許さないからなっ」
リアムが怒鳴りつけると、ルーファスは口元だけ笑った。
「ディアーナ。共に生きると誓ったのに守れなくてごめん」
ディアーナの肩に頭を置いたルーファスはまた血を吐く。
ルーファスの身体に腕を回したディアーナはパクパクと口を動かして何か言おうとするがやはり上手くいかない。
「ルー。何て事を…」
ディアーナの背中越しにシリルの声がした。
ディアーナから姿は見えないが、シリルも対処しようが無いのかその声は絶望感に満ちている。
「師匠。ディアーナを頼みます…」
ルーファスはもう一度血を吐いた。
それはディアーナの腕を赤く染め上げていく。
ルーファスがもう一度ディアーナを見てから微笑む。
「愛しているよ」
その言葉を最後にルーファスの目がゆっくりと閉じられ、ルーファスの身体から力が抜けて行く。
「ルー?」
干上がる喉からようやく名前だけを絞り出すが、ルーファスの反応は無い。
「や…」
ディアーナの胸の辺りに動かなくなったアルとルーファスの頭が置かれている。
漆黒の髪を抱きしめたディアーナは声にならない悲鳴をあげた。
「お姉様っ!」
アナスタシアの悲痛な叫びはディアーナの耳に届かず、ディアーナはただルーファスの頭を抱いて空に向かって口を開ける。
「ディアーナ様?!」
初めにディアーナの異変に気付いたのはリアムだった。
元々透き通るように白い肌は益々その透明度を増し、大きく見開かれた紫の瞳は青に変化する。
クラースもリアムの声でディアーナの異変に気付き、ルーファスを支えている腕と反対の手をディアーナへ伸ばすが、何故か届かない。
やがてディアーナの身体から銀色の光が溢れ、目を開けていられない程に辺りを包み込んだ。
「ディアーナ様!」
「お姉様っっ!!」
眩しさに目を閉じた一同が再度目を見開くと、空にあったものだけでなく、ルーファスとそしてディアーナの姿が消えていた。
◇ ◇ ◇ ◇
ディアーナは謁見の間で玉座に座るルーファスを見つめた。
遠くから聞こえる武器の交わる音、魔法が放たれる音、人の断末魔。
震え上がるような音を聞いても、不思議な事にディアーナの心は凪いでいる。
同じようにセウェルスが目前に迫っているにも関わらずルーファスの表情は穏やかだ。
「もうすぐここに其方の妹がやってくる」
アナスタシア達が此方に向かっている。
リアムが裏切り王城の道を漏洩した事で、もうすぐセウェルスの刃もここに届くだろう。
「わたくしに何の力もなく申し訳ございません」
ルーファスが望んだ聖王の奇跡を未だ発動出来ない事が心苦しい。竜との繋がりを絶てないままルーファスが崩御されれば竜も死ぬ。国ひとつを犠牲にしてまで叶えようとした願い。
ディアーナが拐われてから今日まで何の力も発揮する事は出来なかった。
「其方が謝る必要は無い。…私は私の起こした結果に責任が取れればそれでいい」
ルーファスは足を組んで、右腕を肘掛けに置いてからその手に顔をもたれ掛けると目を閉じた。
その様子は全てを諦めたようにも、最後まで希望を捨てないといったようにも見える。
竜を救済する為にクルドヴルムを滅ぼす王を、後世の人間は愚王、狂王と蔑む事だろう。
だから思うのだ。何故止めてやれなかったのか。誰でもいい、幼い頃のルーファスを癒してくれれば結果は違っていたのかも知れない。
「ディアーナ。先に言っておく。愚かな私と最後まで共に居てくれてありがとう」
ルーファスは身体を起こすと真っ直ぐにディアーナを見つめて言った。
その赤の瞳に見つめられるだけで身体中の体温が上昇するのが分かる。鼓動は勝手に早くなりルーファスに届きそうな程に音を立てた。
「いいえ陛下。わたくしは幸せにございます」
喉の奧が干上がるような感じがして上手く声が出せない。
ルーファスはディアーナをセウェルスに戻すつもりでいるから、これが最後の会話になるのだろう。
出来るだけルーファスの負担にならないよう笑顔を作るが強張って表情が上手く動かない。側から見れば酷く滑稽に映っているに違いない。
「…わたくしは陛下の願いが叶えられる事を心から願っております」
それから程なくアナスタシア達が謁見の間に到着した。
クリストファーがルーファスに対して「狂王」と叫んでいる。
アナスタシアはディアーナにこちらへ来るよう促すが、ディアーナの足は動かない。
クリストファーは訝しみ、ルーファスの策略だと言って長剣を手に持つとルーファス目掛けて振り下ろしてきた。
ルーファスは玉座から動こうとせずに真っ直ぐクリストファーを見つめている。
ディアーナの足は勝手に動き、ルーファスとクリストファーの間に割って入ると、クリストファーの剣をその身で受け止めた。
ルーファスは目を見開き、悲鳴をあげたアナスタシアが駆け寄りディアーナの身体を受け止める。
「お姉様!」と泣くアナスタシアに向けてディアーナは手を伸ばしてその頬へ触れた。
「アナスタシア。どうかあの方を救ってあげて」
アナスタシアの腕に抱かれながら、もう一度だけその目に焼き付けようとルーファスを見つめる。
伝えられなかった万感の想いを込めてディアーナは微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。