04. エルガバル英雄伝説
セウェルスと開戦して一年。
わたくしの行動範囲は変わらず限られているものの、穏やかな生活を続けている。
セウェルスの話題は全く耳に入ってこず、アナスタシアが無事なのか分からない事が気がかりだ。
陛下は毎日わたくしの元に訪れている。
相変わらず会話だけ。それでもわたくしに語りかける表情が柔らかくなった事が嬉しい。
幸せな時間を過ごして、自分の置かれた立場を忘れかけていた時、思い出させてくれたのは陛下の側近だった。
「王女殿下にお願いがございます」
茶髪の側近は躊躇なくわたくしに向かって跪くと、婚約者を助けて欲しいと願った。
そんな事を言われてもわたくしには魔法が使えない。
聞けば婚約者は正体不明の毒に侵されたそうだ。
「申し訳ございません。わたくしは魔法を使えません。貴方様のお役に立つ事は出来ないでしょう」
頭をあげた側近の顔が絶望に染まっている。
魔法が使えないセウェルス国民は居ないと、その目は言っていた。
「では殿下は何故クルドヴルムにいるのです?アナスタシア王太子は先頭に立って戦っているのに、聖魔法を使えない殿下がクルドヴルムに居る意味が理解出来ない…」
ふるふる頭を振った側近の瞳は、次の瞬間わたくしがよく見ていたものに変わった。
見慣れた負の感情よりも、わたくしは彼が言った"アナスタシアが先頭に立って戦っている"のほうが気になる。
「アナスタシアが先頭に立っているとは?アナスタシアが危険に晒されているのですか?!」
わたくしの質問に対する側近の返答は無かった。
代わりに「人質としての価値も無い殿下をいつまで生かしておくべきなのか」と、言葉を残して去っていった。
「あの愚か者が…」
側近の訪問とあわせてアナスタシアについて確認すると、陛下は眉をしかめて呟いた。
「あの方のお気持ちも分かります。婚約者が病に倒れたのでしょう。陛下は継承者と仰って下さいますがわたくしには何の力もございません。荷物にしかならないのに人質として活用するでもなく守って下さっている。それが申し訳なく…辛いのです」
本当に申し訳なくて膝の上に置かれた手を握りしめた。
わたくしは側近の方が仰る通り、価値が無い。
「あれは私が居なくなった後のクルドヴルムには必要な人材だ。これを機に裏切ってくれれば、あれは生き残るだろう。…丁度良かったのかもしれん」
良かったと言いながら、陛下の表情は暗い。
クルドヴルムにあの方が必要なのは本当。でも裏切られるのは辛い。そう言っているのが分かる。
生きて欲しい。でも裏切らないで欲しい。そんな心の内を吐露すれば、あの側近は必ず付いてくる事を陛下は知っていて突き放すのかもしれない。
「そんな顔をするな。其方の責任では無い。この戦争も含めて全ては私ひとりの責任だ」
余程酷い顔をしていたのだろうか。
陛下は眉を下げて泣き笑いのような表情を浮かべている。
「…一緒に背負う事は出来ませんか?」
思わず口にでた言葉に、わたくしは慌てて両手で口を塞いだ。
なんておこがましい事を。魔法も使えない出来損ないの荷物が共に背負うなんて口にしていい言葉では無かったのに。
きっと陛下は出過ぎたわたくしを軽蔑される事だろう。ようやく優しい顔を見せてくれるようになったのに、それが見れなくなるのは辛くて、わたくしはギュッと目を閉じた。
暫くの間無言の時間が続いたけれど、陛下は何も口にしない。
もう話をしてくれる事はなくなるだろうと、心が冷えていくのを感じる。
わたくしの耳に陛下が立ち上がる音がして、これが最後の会話になるかもしれないと思ったら、どうしても言葉にして伝えたかった。
「陛下。わたくしは陛下に感謝しております。出来損ないと王宮深くに置かれ、両親の鬱憤の吐口になっていたわたくしに穏やかな時間を与えて下さいました。ここに来てから、わたくしは生まれてはじめて幸せだと感じる事が出来たのです。それは全て陛下の温情によるもの」
目を閉じたまま感謝を伝え、せめて最後に一目姿を拝見したいと目を開けたわたくしは衝撃に言葉を失った。
陛下が立ち上がったのは退室の為でなく。
「其方の紫が日に日に輝きが増していく様子を見ていると、生きている実感を与えてくれた。幼い頃に失った穏やかな気持ちを思い出す事が出来たのは其方のお陰だ」
陛下の赤く濡れた双眸が、今までに無いくらいに間近に映っている。
その手が少し迷うような素振りをしてから、わたくしの頬に添えられたのに気付いて、鼓動が跳ね上がるのを感じる。陛下に心臓の音が聞こえないか不安で全身が熱くなったり寒くなったりと、パニックを起こしそうになった。
「……嫌だったか?」
陛下は固まっているわたくしの頬からその指を離そうと身動ぎする。
「い、いいえっ!嫌ではございません。お慕いしている陛下のお気持ちが慰められるのであればっ…」
動揺し過ぎて途中から何を言っているのか分からない。でもとんでもない事を口にしたような気がする。
恥ずかしくて全身が真っ赤に染まっていくのが分かる。
「慰められるのであれば?その続きは?」
離すのをやめた陛下の手が顎の辺りに移動したのが分かった。
もう恥ずかしくて陛下の目を見ていられない。
「…慰められるのであれば…わたくしの…」
全てを捧げても良いと、その言葉まではどうしても口にする事が出来ない。
淑女として徹底的に教育されてきたわたくしには、口にしたくても出来なかった。
陛下はわたくしが座る長椅子に片膝を乗せると、覆いかぶさるような体勢でわたくしを見下ろしている。
「こちらを向きなさい。ディアーナ」
初めて呼ばれたその名に驚いて陛下に視線を戻すと、次の瞬間わたくしの唇に温かなものが触れた。
それが陛下の唇であるのに気付いたのは僅かな時間。
途端にわたくしの心が温かくなる。胸がいっぱいで、もっと触れて欲しいと心から願いたくなる程に。
陛下はわたくしの気持ちを察したのか、離れる事はなかった。