『最強の男』のプロローグのプロローグ
赤い国産車。バブルの終わりに製造された、そのマシンは高速道路を疾走している。
スピードメーターは240kmを指している。300kmまで表示することが可能な、フルスケールスピードメーターを標準装備した国産車は、現代でも数少ない。
スポーツカーではあるがスーパーカーはなく、さほど高級ではないこの車種に搭載されているスピードメーターは、標準的な180kmまでのものである。
速度リミッターの設定を、優に超える速度で走る赤いマシン。景色が濁流のように前から後ろへ過ぎて行く。
前方。走行車線を走る車は、まるで道路上で止まっているかのように見える。
錯覚で停止する一般車両を、圧倒的な速度差で追い抜き、バックミラーから消していく。さらに前方、大型トラックが軽ワゴンを追い抜き、懸命に前へと進もうとしていた。
二つある車線の両方が閉ざされ、イカれていないのならアクセルを緩める場面だ。
少し待てば、トラックも走行車線に戻るだろう。
突如マシンがそれまで以上の咆哮をあげ、アスファルトを蹴り飛ばす。男がアクセルを床まで踏み込んだのだ。
見る見る赤いマシンと、トラックとの距離が縮まってゆく。
トラックの運転手が異変に気づく、バックモニターに映る赤い車両が拡大されてゆく。重い車体は軽ワゴンと併走をしており、左にハンドルを切ることは出来ない。ブレーキは追突までの時間を縮めるだろう。
拡大は止まらない、一瞬目線を外したら急速に大きくなる。錯覚ではない。
前後左右逃げ場のないトラックに後方から赤いモンスターが激突する。薄く光を放つ魔物が、車両総重量20トンのトラックを軽々と吹き飛ばす。
空を舞う鉄塊は、幼い子供が叩き落したおもちゃのように中央分離帯に激突した。
赤い国産車にキズはない、メーターの針はフルスケールの最大値、300kmの下を指しており、尋常ではなく速いということ以上の速度は不明である。
そうして何事もなかったかのようにその場を去るのだった。
「クソ、またか」
高速道路の保安業務に従事しているエドガーは、今月三回目のC案件に思わずボヤいた。
同僚の黒人が目だけで注意してくるが、コイツだって気持ちは同じはずだ。
高速道路を監視するカメラから、動けなくなったトラックの映像が送られてくる。酷い有様だ。
なれた様子で関係各所に連絡した所長から、出動命令が出るのと、トラックが燃え始めたのはどちらが先だったか。エドガーは所長に適当な返事をしてから再度「クソが」と映像を見ながら言うのだった。
赤いマシンは、何事もなかったのように料金所を出た。
今時珍しくETCをつけていないのか、有人ゲートを通過する。
「アリガトウゴザイマシタ」
片言の日本語で料金所の女が言い。開いたゲートから最加速。
今日も高速道路は空いている。料金所も暇になったものだ。去年はこんなではなかった。
料金所から程近い高級レストラン、駐車場にオシャレな高級車に混じって、赤い日本車が停車している。
絵画のような派手な柄のブーツに、黒デニムのズボン、紺色の上着を椅子にかけた男のシャツは黒のタートルネック。
店内で、こんな服を着ているのは彼だけだ。周囲の客はドレスコードを守っており、例えば、男性ならスーツにネクタイといった具合だ。
「おい、ヒゲ」
そう呼ばれた店員が笑顔のまま男に近づく、店内に男を入れたのも彼だ。これが他の客ならば、予約もしていない、服装規定を守りもしない者を、客とはみなさず、店内に頑として入れはしない。
「とりあえず、ラーメン。それとBGMを邦楽にしてくれ、出来れば90年代な」
ここ、フランスでも有名なグランドメゾン、数々のVIPから様々な要求に答えてきたこの店でもメニューにない品は出せない、それが店の伝統でもあり、誇りでもある。
それは厨房もフロアスタッフもオーナーも全てが同じ思いだ。ここにいる、給仕において最高の権限と責任を持つ彼も、当然同じだ。いや、人一倍努力し、店を愛してきた彼にとって、その思いは誰よりも強いかもしれない。
「はい、かしこまりました」
流暢な、少なくとも片言には聴こえない日本語でそう返す。
聞き耳を立てていた客達から緊張が薄まるような、そんな気配があった。
店内から聞いたことも無い、いや、三年前までは聞いたことも無かった『邦楽』というジャンルの音楽が流れ出す。落ち着いた店の雰囲気とは全く異なる曲調。その曲自体の良し悪しではなく、場に相応しいかという意味で明らかに合っていなかった。
そしてその中をズズッと麺をすする不快な音。
他人が食事している音を聞かされるのは不愉快だ、それも大きな音を立てて、汁を撒き散らしながら。
しかし誰も文句など言わない、咎めるような視線も送らない。
嵐が過ぎ去るのを待つように、あるいはすぐそこに、有名な東洋人がいることに気づいていないかのように、食事をとる。
「ヒゲ」
男が再度、給仕を呼ぶ。見えない緊張が膨れ上がる。
「かえだま、バリカタで」
聞いたこともない呪文。万事休すか。
今日のところは奴が入店した時点で、記念日の食事を諦めて帰るべきだったか。実際帰った何組かが、賢明だったか。太った中年男性は愛する妻の怯える顔を見て、皺の増えた震える手を握って、そう思った。
「かしこまりました」
給仕長セバスチャンはそう答える。彼のことは良く知っている、昔から気の効く良く出来た男だ。店での彼しか知らないが、彼が給仕長になったと同じ次期に出世した中年男性は一方的に親近感と信頼を置いていた。
セバス、大丈夫なのか? そうか信頼しているぞ。
心の中でそう念ずる。
手の平から気持ちが伝わったのか。妻もいくらか安堵した表情だ。
東洋人がおかわりを食べ、席を立つ、そして「ごっそさん」と言い残して店内を去る。
まだだ、まだ我慢しろ。
暴力的な排気音がドップラー効果によって、間近より低く轟く。店内のBGMが落ち着いたクラシックに切り替わると同時に、何処からともなく拍手が巻き起こった。
セバスチャンは厨房にサムズアップ、他の給仕達も抱きしめあったり、喜びを分かち合った。
「あなた、クリームパイ、冷めないうちに食べましょ」
「ああ、そうだな」
いつか連載します。
本作は処女作である「修羅道(以下略)」よりも構想だけは先にあった話です。
作者の力量が足りないため保留中。