⒋ 救済を誓う -前編-
アンドレオの死から六日経った。クレオとレクシーはスタンレー・モスクのさびた屋上に腰かけ、下の景色を楽しんだ。
レクシーは道路に街路樹の緑がつらなる箇所を指した。ヒトの住むところに悪徳がつどう。自然こそヒトも悪徳も息づかない、原始の領域だ。アスファルトに投影される木蔭こそ、悪徳に悩める人間たちのカタコンベなのだ。
「僕だって毎晩魔女と戦うわけじゃない。時にはこんなふうに、サボったりもしてる」
屋上の縁に浅く腰かけ、レクシーは自らの両腕にもたれかかった。相手が振り向くので、クレオは軽く声を立てて笑った。
南東の高層ビル群に、ふたりは背を向けていた。
「それにだな、悪徳と戦えば戦った分だけ、僕ら救世児の因果だって重くなる」
「因果が・・・・・・重く?」
自分が因果という言葉を好かないのを思いながら、クレオは訊き返した。
「ああ。もちろん因果を増やせば救世能力は高まるし、より手ごわい悪徳と張り合えるわけだからね。それだけ救世主に昇華するチャンスも近づく」
レクシーは深く座り直した。
「でもね、因果を増やしていくのだって、急いじゃいけない。みんなそれぞれペースがあるんだ」
「・・・・・・ペース?」
クレオは首を傾げた。
「そう。だれだって、一度に向き合える悪徳の重さには限度があるよ・・・・・・アンドレオはその辺りをわきまえてなかった」
アンドレオの名を口にしたレクシーは眼を伏せた。
「あいつは早く一人前に戦える救世児になろうと、急いてたのさ。ロミオやテイラーに、よほど憧れてたんだね」
「僕も・・・・・・ロミオには感謝してます」
クレオは屋上の縁に膝を抱きよせた。
「そうか・・・・・・そんなにあいつのことが好きか」
振り向くと相手は笑みを浮かべていた。
「やっ、やめてください!」
相手がおもしろがって顔をのぞきこもうとするので、クレオは膝を一層きつく抱いた。
少年はしばらく口をつぐんでいた。レクシーはふたたび前へ向き直り、膝の上で両手を組んだ。
「僕がアンドレオから目を放すべきじゃなかった。ロミオに丸投げしなければ良かったんだ」
前髪の影は重たげなまぶたの上に落ちていた。
「そ、そんな・・・・・・ご自分を責めないでください。どうか・・・・・・」
クレオは急ぎ言葉を継いだ。相手は振り向くと、ほほ笑みながら首を横に振った。
「同情はよしてくれ、クレオ。あいつの向こう見ずは、僕が一番分かっていたんだ」
闇夜に静寂をゆるすと、頭上の空から雲でも降りてきそうだった。夜気は黒雲のごとく重苦しかった。
ついにレクシーが口を切った。
「でもな、クレオ。アンドレオのように、不本意にもたおれた救世児なら大勢いるんだよ? このアメリカ合衆国だけで見てもな・・・・・・君、リンカーン、分かるだろ? 第十六代大統領の、エイブラヒム・リンカーン。それからケネディ大統領や、キング牧師も」
耳おぼえの良い名前の数々に、クレオは顔を上げて反応した。
「はい、歴史で習いました」
「彼らもみな、救世能力を手にした救世児たちだったんだよ。驚いたかい?」
相手が望んだような顔つきになっていたのが、自分でも分かった。
「彼らは実体界において有力な指導者であったと同時に、精神界でも大いに活躍する存在だったんだよ。彼らはそれぞれに偉大な救世児だった。歴史に名を遺すほどにね。けれども最後は、みな悪徳との戦闘に散っていったのさ・・・・・・」
話して聞かせるレクシーの表情がひときわ深くかげった。
「精神と実体の二つ巴で成り立つのが人間であって、一方が死ねば、もう一方も朽ち果てる運命だ。精神の本体は自我だが、器の無い自我は美徳に召し取られるまでさ。それがもともと担保なんだし」
「えっ?」
クレオは相手の口元を見ていた。おとがいが細いわりに、上下の唇は横幅があった。
「リンカーンもケネディも、凶弾に倒れるべくしてその日を迎えたようなものさ。僕たち、現に生きている救世児だってそう。みんな最後は美徳に自我を食われて・・・・・・」
「そんな! そんなのって・・・・・・ない!」
出かかった言葉を喉元にそのまま、レクシーは目を丸くしていた。クレオが彼の手の甲に自身の手を重ねてよこすので、そのほうを意識してきた。
あえて互いの顔をつき合わせてみたが、クレオは一言の利口なせりふも持ち合わせていなかった。自分の手で触れているものを一度見下ろした他は、ただまっすぐレクシーの目を見つめていた。
「ひどい・・・・・・ひどい、美徳なんて・・・・・・救世児が最後あんなふうに死んじゃうくらいなら・・・・・・」
細い喉の奥から、やっとこれだけの言葉をしぼり出した。
重なり合った手と手にふたりの人間の体熱がこもった。見つめ返してくる相手から目を背ける術を知らず、クレオは触れた手に体重をかけつづけた。
レクシーも一旦はあっけに取られた顔をしていたが、やがて少年の小さな肩を抱きよせた。
「美徳を非難してはいけないよ、クレオ。ね、それだけはだめだ」
だめだと言われるなり、クレオは顔の中心が熱くなるのを感じた。
レクシーのほうからは少年の背をさするなどして、体内にわだかまる熱を吐きだすよう促してくれた。
「だれひとり望まずして救世児になったやつなんかいないぜ? 英雄になるチャンスと引き換えに、僕らは代償を支払った。それだけのことだよ、な?」
紳士服の肩に頬をあずけ、クレオは口から湿った息を吐いた。つむじには語りかけてくる低い声と、その息づかいが触れた。
「で、でも・・・・・・でも! 知りたくなかった・・・・・・知りたくなかった! こんな残酷な・・・・・・!」
左右の目から涙が止まらず、吐息は震えた。レクシーはもたれかかってくるクレオを受けとめた。
「自分の一番大切な人のために投げ出した自我なら、惜しくないさ。僕は望んで救世児になった。死ぬときだって、望んでその運命を受け入れる」
クレオは相手の膝の上に泣きくずれた。
「・・・・・・やだっ、やだ! 死ぬとか・・・・・・」
スラックスの生地を握りしめると、レクシーは大きな手を頭に置いてよこした。
「うん。嫌なことだね。パディのお母さんはな、彼が三歳になる前に死んだ。以来、僕は彼のために自我を捧げてきた」
クレオがしゃくりあげる間も、相手は彼の髪に指を通すなどしていた。
「それからレナは、エリオットの勉強がくじけないよう救世能力を用いつづけている」
髪をいじりまわす手の陰からクレオは見上げた。
「・・・・・・じゃあ、ロミオは?」
相手はほほ笑んだ。
「ロミオかい? あいつはね、あいつ自身のお母さんに救済を誓ったよ。大麻中毒の父親が暴力を振るうものだから、守るためにね」
クレオは息が止まるほどだまりこんだ。レクシーの脚に血がめぐっているのが聞こえた。
「それにな、クレオ。救済の誓いは決して死んだりしない。今の僕たちが果てたとて、ちゃんと他の救世児たちが受け継いでくれる」
顔の上で冷えきった涙は、鎮静剤としての効能を発揮していた。
「・・・・・・だれが?」
「僕らの誓いに共鳴して、引き受けてくれた者がさ。ひとたび美徳の雫が滴れば、救世児はもう契約から逃れられない。そしてその契約は、死んでもくつがえらない」
聞きながら、クレオは塩味のする唇を噛みしめた。
「救世児自身もそうだし、世界だって、僕たちと美徳との契約を無かったことにはできない。だからね、僕らが死んでも、美徳の雫は腐らない。次世代の救世児に受け継がれるのを待つんだよ」
相手の膝の上に寝そべっていたクレオは首をよじった。
「じゃあ、それって・・・・・・救世児は、別の救世児として生まれ変わるってこと?」
「そうじゃない」
レクシーは首を横にひとふりした。
「つまりね、救世児は自分自身の誓いとともに、他者の誓いをも背負わねばならない場合があるってことさ。それが自分のと通じる場合は、だけど。今でもリンカーンやケネディの偉大な救世能力を背負い、戦っている救世児がいるはずだ」
ふいに彼はクレオの右手を取り上げ、自身の胸にあてがった。クレオは自らの腕を追い上体を起こした。
「ほら、目を閉じて」
指示されるまま目をつむった。レクシーはもう片方の手でクレオの頭を取ると、自身の胸へ押しつけた。レクシーの鼓動が聞こえた。
そこなしの暗黒がまぶたの裏に広がった。紅い宝石は闇のただなかに、恒星のごとくきらめいていた。例によってそれは人魚の影画を封じた、レクシー・カズンズの美徳の雫だった。
色もカッティングも様々な石粒が、紅い雫を中心とする軌道の上にあった。しかし十を超す小さな雫はいずれもひび割れていた。踏みつけられた氷みたく、光の通り抜けるのを阻んでいた。
聞こえてきたのは種々の小動物の鳴き声だった。それらがレクシーの紅い自我の周囲にたわむれ、駆けまわる息吹に満ち満ちていた。かつて小さな雫の中に絵すがたをとどめていた生物たちだった。小ロバの跳躍、カラスの絶叫、ウサギやハリネズミのかすかな鼻息を聞いた。飛び交う生きものにはコウモリやハエがいた。
思いがけず正面から額を突きつけてきたのは一匹の猫だった。眼前にひとなつっこく迫ってきた猫は、小さな逆三角形の顔に空いた一対の眼窩をのぞけと言わんばかりだった。
猫の眼窩を透かし見た先に、一粒の青い雫がまたたいていた。アンドレオの右膝下、ロングブーツの口を締めるベルト飾りに着いていたのと、同じ宝石だった。
――――クレオはレクシーの腕の中で力なくそり返っていた。猫に額を突きつけられた勢いに圧され、正気に戻ったのだ。
レクシーは平手で自身の胸を叩いてみせた。
「ちゃんと見えただろ?」
相手が笑いかけるので、クレオもどうにかうなずいた。