⒉ 悪霊を斬る -中編ー
緑がひときわ鬱蒼とした場所に、その豪邸は秘境の城とでもいった趣をかもしていた。車は砂利地に乗り上げた。エンジン音を聞きつけた使用人らしき人物が、観音開きの表玄関を片側だけ開いて出てきた。車が停まりかけている位置から屋敷の正面玄関までは、まだ結構な距離があった。
黒スーツすがたの男はロミオの中古車と確認するなり、黒い革靴の足を白い玉砂利の中へ踏み入れた。
「執事のブラウンだよ、クレオ」
車内でアンドレオがクレオに耳打った。
少年たちが車から降りてくる間、壮年の男はかたわらに立って待った。
「よお、ブラウン! カズンズ伯爵様はお待ちかねかい?」
車に鍵をかけ終え、ロミオは黒スーツの男相手に陽気な口を利いた。クレオは彼の声で振り返った。
「はい、旦那様もパトリック坊ちゃまも、さぞお待ちかねでございましょう」
ブラウンは極太なチャコールグレーの眉を微動だにせず応じた。面食らうクレオの腕をアンドレオが取った。
「レクシーはな、ご先祖様が貴族なんだよ」
「え・・・・・・?」
「あっ、レクシー!」
クレオの腕にからめていた自らの腕をほどき、アンドレオは我先に砂利の上を駆けだした。
少年たちの一団の後から、ブラウンも玄関ポーチへつづく舗道をたどり屋敷へ戻った。表口から中をうかがうと、幅広な廊下には柄物のカーペットが敷かれていた。
家の主人は直々に客人らを迎えに出たのだった。大きな、骸骨のように白い手がじゃれつくアンドレオを支えていた。いぶし銀の指輪が二つ三つ、骨張った長い指の根元に光っていた。
ほどなくしてアンドレオを手なずけ、ねずみ色の三つぞろいを着た男は後から来た少年らに目を向けた。しかし実際のところ、男の視線はロミオの背後にひそむクレオにそそがれていた。
「おっと、ロミオの後ろに隠れている恥ずかしがり屋くんは、だれだい?」
ロミオがかたわらへ退いてしまい、クレオは相手の前へ直に立たされた。長身瘦躯の男は腰をかがめ、クレオの顔つきをのぞきこもうとした。切れ長な左右の目はそれぞれ青い瞳をたたえていた。細く秀でた鼻と深い鼻筋の下に、血色の良い唇が笑っていた。
「こんにちは。名前は?」
女ならばだれもが惚れこみ、男であれば一様にうらやむたぐいの、低いがよく冴えた声だった。クレオは震え上がる思いで、直立不動の姿勢を一層固くした。
「く・・・・・・クレオ・・・・・・」
打ちとけない返答とはいえ、彼の言葉が聞けて相手は満足げだった。ふたたび背筋を伸ばすと言った。
「そうか、クレオか。僕がアレクシス・カズンズだ。レクシーでいいよ。よろしくな、クレオ」
クレオと異なり、レクシーは笑って見せるのが巧かった。ロミオに小突かれてようやく、クレオは相手が握手の手を差し伸べるそばまで歩み出た。近づいて見ると、レクシーのスーツの生地には白いストライプがはしっていた。
「あっ!」
クレオがおもむろに上げた手をレクシーは待たず取り上げた。彼の少女みたく小さな手が、シルバーリングで飾られた手の中に固く握りしめられた。相手の握力にクレオは顔をしかめかけたが、それにも増して赤面した。相手は彼の目をまっすぐ見つめてきたのだ。
「で、君がエリオットだったね? レナから聞いているよ」
レクシーが声をかけた時も、エリオットは左右の親指の腹でスマートフォンの画面を叩いていた。
「こらエリオット。ゲームはもう終わりにしなさい」
レナは弟の耳元で言った。
少年たちは居間に通された。プールサイドを臨むフランス窓は、入ってきたドアの四倍もの幅をほこった。午後の陽を照り返す窓は、うす暗い室内にあざやかなスクリーンのようだった。
カーテンの地はオリーブ色で、レモンの実と葉の図柄が織られていた。丈長なカーテンは大きな窓の両脇にくくられていた。天井際のサッシの上にも、同じ生地で縁取りのひだかざりが施されていた。二台のサーキュレーターが回る天井は、高さが学校の教室の倍ほどあった。
ドアの側から左右を見ると、一方の壁はマホガニー色のテレビ台でふさがれていた。テレビ台は上部に格子形の飾り棚を備えており、テレビそのものは七〇インチより大きい型と見えた。反対側の壁までは二十ヤード近い幅があった。そちらには飴色のフローリングと垂直に、裸婦像を描いた大判の木炭画がかかっていた。
「ああ、あれは僕が描いたよ。マドリードで見た裸のマハを、思い出しながらね」
レクシーが言った。
「見飽きないのね」
レナがすげなく言うと、ロミオもテイラーも急ぎ画から目を背けた。
天板のぶあついテーブルはテレビ台と近い側に有り、三方をベロア地のソファで囲まれていた。テーブルの上にホールケーキを見たクレオは唾を飲んだ。白いクリームをふんだんに絞られたタルトの横に、サーバーの銀色は光っていた。
「あ、ケーキじゃん」
エリオットがカーペットの上を駆けだした。
「こら、エリオット待ちなさい! 走っちゃだめ・・・・・・」
テーブルの上にはタルトを切り分けて出す皿の山やフォーク、レモネードの瓶とグラスなども用意されていた。
「あはは、君が来ることになっていたから、特別だよ」
レクシーは革の編み上げ靴を履いた足で絨毯の毛羽を踏んだ。ソファの背もたれに身を乗り上げ、エリオットは下のテーブルをのぞこうとしていた。
「もう、そんなところを・・・・・・お行儀良くって言ったでしょ!」
幼い少年は長ソファの背もたれの上に両手を突き、腕力で上体を持ち上げてそのままだった。身体を宙に保ち、一点を見つめているようだった。
「ほら降りなさい! ・・・・・・あら、パディ」
レナは背もたれから弟を引きずり下ろしつつ、ソファの向こう側へ声をかけた。
「なんだよお前、そんなとこにいたのかよ」
ロミオも長ソファと一人掛けソファがL字に置かれた背後へ回った。そこにペットの犬でも寝そべっていて、エリオットが最初に見つけたのだとクレオは思った。しかしソファの陰から現れたのは、車椅子に乗った金髪の少年だった。
クレオは息をのんだ。
「よお、パディ! 来てやったぜ」
アンドレオが長ソファの肘掛けに座った。対する車椅子の少年は額が秀でており、あごと鼻がとがっていた。膝の上にはハードカバーのぶあつい本が乗っていた。
「なに読んでたんだよ? またエロい小説?」
ロミオが本を手に取り、表紙が上になる向きにひっくり返した。
「・・・・・・『ロマノフ家の四人姉妹』。写真いっぱいだな・・・・・・これ、あれだな。その・・・・・・昔のディズニー映画でやってた・・・・・・アンナ? じゃなくって・・・・・・」
「アナスタシア」
本をいじくりまわすロミオの手つきに、車椅子の少年はじっと目を光らせていた。
「そうだ! アナスタシアだ! ロシア革命で生き残ったお姫様の話」
写真の載っているページを選んで繰るロミオのわきから、クレオものぞいた。
「おお・・・・・・おい、これ驚いたぜ。お姫様たちだろ・・・・・・なんでみんな丸坊主? ほ、ほら、この写真さ・・・・・・」
ロミオは写真が載った見開きを相手の目の高さに示した。クレオも一枚の白黒写真で占められたページをのぞいた。四人の若い女たちが一列にならび、めいめい手に帽子を取っていた。しかし頭の上にあるはずの長い髪は、一ミリ残らず刈られた後だった。
クレオが口元に手を当てて写真を見ているうちにも、ロミオの手から本はひったくられた。
「ちょっと、しおりをはさんでおいた箇所が分からないじゃありませんか。いつも勝手に他人の物を触るから、嫌なんですよ、あなた」
車椅子の少年は音を立てて本を閉じた。細い金色の眉の間にしわを寄せ、ジャージの袖で表紙のカバーを拭いていた。
レクシーが車椅子の横に立った。
「さあ、パディ、お客様方にタルトを切り分けて差し上げて。エリオットも待ちくたびれてるようだし」
見ればエリオットは長ソファとテーブルのすきに膝をつき、タルトの大皿に真横から見入っていた。アンドレオも長ソファの肘掛けから下り、一人掛けのほうへ移った。レクシーは車椅子の息子から本を受け取り、テレビ台まで持っていった。
クレオは本を目で追っていた。写真が未だそのページの上に鮮明なことを、思わずにはいられなかった。彼が脳裏に焼きついた残像を追う間も、車椅子の少年はすぐそばにいた。
相手から見つめられていたことを知り、クレオはかすかに頬が赤らむのを感じた。クレオに同じく肩幅のせまい少年で、切れ長な青い目は父親ゆずりだった。白骨に面を被せたような顔のうちで、目ばかりが生きていた。
「ああ、パディ、彼はクレオだよ。今日からお前の新しい友達だ」
レクシーの手が車椅子の柄に触れた。唐突に友達などという言葉を使われ、クレオは重ねてまごついた。パディの能面は父親を見上げたのち、立ちつくすクレオをいまいちど見やるにとどめた。
咲きこぼれんばかりの笑顔を見せたのはレクシーだった。
「ほら、パディ、お客様がお待ちかねだよ。早くタルトを切ってお出し」
他の者たちは思い思いの席に着いていた。パディの注視を受ける間中、クレオは自分が服の裾を握っていたことを知った。
窓際の一人掛けソファと遠く向かい合った、正方形のオットマンにロミオは腰を下ろしていた。彼がエリオットに詰めるよう言ってくれたので、長ソファの端にクレオの座る場所は確保された。
レクシーは長ソファの反対側までパディの車椅子を押した。レナはテイラーと弟の間に座っていた。彼女も腕を伸ばし、パディが八等分に切り分けていくタルトの皿を配る手伝いをした。
エリオットはテーブルに身を乗り出して待っていた。次いで一人掛けに座を占めていたアンドレオが近かったため、彼もいち早くタルトの分け前にあずかった。パディとレナが菓子を切り分けては配る作業の済まないうちから、二人は生クリームの厚い層にフォークを突き立てていた。
「あ・・・・・・あのさ、エリオットの分を大きく切り分けてやるとか、そういう切り方はできなかったわけ?」
ロミオが言うと、サーバーとナイフが大皿の端に叩きつけられた。小皿を持ったレナが息をのみ、クレオも縮み上がった。
「文句があるならご自身で切って?」
パディがタルトの大皿を相手の側へ押しこくろうとすると、手首にレクシーの平手の側面が触れた。
「いいよ。エリオットには僕の分をやるから。パディ、つづけなさい」
レクシーは息子の車椅子の横に椅子を持ちこんで座っていた。自らジュースの瓶を取り、グラスにそそぎ分ける最中だった。
「マジで! やったあ!」
フォークを持ったエリオットがソファの座面の上で弾んだ。揺れはクレオまで伝わったが、レナに腿を叩かれると子どもは大人しくなった。
ロミオとレナは芸能人にまつわる話や、個々人の学校生活の話ばかりを選んでした。クレオは芸能の話題にこそついていかれなかったが、ロミオと同じ高校ということで座談は大いに盛り上がった。改めて聞けば、ロミオは一級上の三年生だ。テイラーはロミオに同じく十六歳で、レナは彼らのさらに一歳上だ。
「そういえば先月の試合、レナも来てたんだったな」
ロミオが言った。
「ええ、結局うちの学校が負けちゃったけど。でもあなたがゴール決めようとしたの、クリストファーがブロックしたところはちゃんと見てたわ」
「お、おいっ・・・・・・」
レナはカルバーシティの私立高校に通い、チアリーディングに励んでいるという。
アンドレオはクリームをほおばった口で時たま横槍を入れた。テイラーが手つかずにしておいたタルトと空の皿をすり替えてもらったため、しばらくは口へ含むものにこと欠かなかった。
「おや、ロミオはクリーム苦手かい?」
見れば彼の皿の端には、しぼられたクリームがそのままの形で退けられていた。
「ああ、甘いものは・・・・・・そんなに・・・・・・」
「マジ? 要らねえなら俺にくれよ」
ロミオから最も遠い場所にいたアンドレオが身を乗り出してきた。
パディは自らの気のおもむくまま、フォークの先でクリームをすくったり、下地のタルトを欠いたりしていた。
「そういやパディ、お前大学どんな感じ?」
ロミオに持ちかけられ、彼はフォークを動かしていた手を止めた。
「はい、どんな感じとは?」
自分がたずね返すさいも、彼は膝の上の皿から目を上げなかった。
「うん・・・・・・そうだな。寮生活とか、お前ちゃんとやってけてんの? 相部屋だろ?」
「まあ・・・・・・その辺りは。パリから来る留学生の面倒を見ることに決めましたので。マリファナ野郎どもと部屋を同じくするよりマシです。ほら、ボヤ騒ぎの時、僕を置いて逃げた連中ですよ」
タルトをつつきながらパディは眉をひそめた。
「・・・・・・ああ。で、専攻は決まった?」
ロミオはテーブルへ身を乗り出し、相手の目をなんとかのぞきこもうとしていた。
「いちおう化学工学を」
「え? それ、さっきのアナスタシア関係なくね?」
パディは膝の上の皿をテーブルへ戻した。初めて彼のするどい目に見据えられ、ロミオは自らの失言をさとった様子だった。
「だから、なんです? 僕がなにを読んで、なにを学べば、あなたは満足なんですか?」
ロミオはおしだまり、相手から目を逸らした。それまでタルトに夢中だったエリオットも、凍りついた場の空気を目の当たりにした。
とがった目付きでロミオを見るパディと、目は泳がせたまま唇を舐めるロミオとを前に、クレオは固唾をのんだ。
「ねえ、レクシー。エリオットがね、テイラーとロミオが腕相撲を取ったら、どっちが強いかって・・・・・・興味があるみたいだったんだけど・・・・・・」
「はっ?」
弟はレナの顔を見上げたが、彼女が言い終わるのを待たずレクシーが口をはさんだ。
「いいじゃないか! 腕相撲か! エリオットもしたいだろ? な?」
エリオットはキツネにつままれたような顔をしていた。
「おいアンドレオ、まさかお前、俺に勝てるとでも思っていやしねえだろうな?」
ロミオは身を乗り出し、袖をまくる素振りをして見せた。アンドレオはクリームとフォークを口に含んだまま返した。
「ああっ? なに、中坊だからってなめてかかるんじゃねえぞ。望むところだ、受けて立とう!」
「こらこら、テーブルの上が片付いてからだよ」
レクシーにたしなめられ、アンドレオは安楽椅子から浮かせた腰を下ろした。