⒌ 同士を刺す -中編ー
白い手袋の手につかまり、クレオはようやく立ち上がった。相手の袖先には銀糸で二重線が刺繍されていた。軍服は銀ボタンのダブルブレストで、上着の袖と胴はほぼ同じ丈だった。立ってみて初めて分かったが、相手の目の高さはクレオとほぼ等しかった。
「あなた、以前にもお会いしました?」
左肩にのみ銀色の肩章を着けた、レクシー・カズンズの生き写しが首をかしげた。
「う、うん・・・・・・パディ、だよね」
「はい、そのように呼ばれています」
相手の声は細く、淡々としていた。
「名前まで覚えていてくれましたか。僕もやっと分かりましたよ、そのもさっとした感じの髪型で」
「ええ・・・・・・?」
クレオは横髪の中へ指先をいくつか入れてみた。相手の軍服の袖先には銀のカフスと、刺繡糸の二重線が光っていた。右袖の二重線の間には、ひとすじの精巧な唐草文様が縫いとられていた。
「おしゃれ、だね・・・・・・」
なにを言えば相手の表情に変化が生じるものか、クレオは言葉に窮した。詰襟の左側に水晶の粒が留まっていた。
「それ、美徳の雫だな? アンタ、救世児だったのか」
エリオットが立ち上がるも、パディとの身長差は頭一個分もなかった。パディは相手を流し目で見つつ、首元の宝石に手袋の指をなぞらせた。中の動物は三股に分岐した頭を動かすなどし、愛撫に応えた。クレオは地獄の番犬ケルベロスを知っていた。
見ればケルベロスの図柄は、銀ボタンの一つひとつに型押しされていた。ベース形の帽章にも、三つ首の犬は刻まれていた。
「ていうか、アンタ本当は歩けたのかよ?」
紺色のスラックスの脚がすっくりしているのを、エリオットはけげんそうな眼差しで見ていた。
「この方だって眼鏡をかけていらっしゃいませんよ?」
「えっ?」
パディが視線を向けたのはクレオだった。静電気に弾かれたように顔を上げると、エリオットも自分を凝視していた。
「前にお会いした時は、かけていらしたじゃありませんか。赤い、おしゃれなのを」
淡々と言われるまま、クレオはこめかみの辺りに手を触れた。指先で眼鏡のつるを探るも、触れたのはもみあげの髪ばかりだった。
「そんな・・・・・・どうして・・・・・・?」
「実体の視力と、精神の見る力とは別物です」
クレオの手は頬をかすめるようにして落ちた。
「えっ? ああ! だからか! 俺最初クレオさんだって分からなかったの、眼鏡のせいか」
横から指さしてくるエリオットは口を縦長に開け、背筋を反っていた。
「精神力と身体能力は、常に等しいとも限りません。僕自身もそうですし、さっきの子どもたちが良い例です」
少年たちが逃げていった、校舎の建っている方角をパディはあごで示した。喉こそか細いが、彼の英語の発音は明瞭だった。
「悪鬼の標的となるのは、あの手の子どもたちなのです。あ、ご心配なく。僕の部下たちは悪鬼を倒したのであって、人間は傷つけていません。悪鬼と人間くらい嗅ぎ分けられます」
甲冑たちは校庭を思いおもいにぶらついていた。パディが口笛を一吹きすると、身体を揺らしてはせ参じるのだった。
総勢六体のよろい武者が、横一列にならんだ。
「ワオ・・・・・・」
「これ・・・・・・中、ヒト入ってるの?」
よろいたちの背丈は、前に立つパディの倍ほどもあった。手足の長さがあまりに異様だった。
「ヒトではありません。悪鬼です」
「えっ、やだっ」
クレオは数歩退き、エリオットも彼から離れようとしなかった。
「そう怖がらないでください。こいつらは人間に害をおよぼしません。むしろ有益なんですよ」
パディが澄ました表情で話す間も、黒いかぶとの中から黄色い目がのぞいていた。互いに身を寄せ合うクレオとエリオットに、黄色な眼光はそそがれた。
「・・・・・・有益? こいつらが?」
エリオットはクレオの手を探り当てた。
「はい。悪鬼とは、人間の良心をむしばむ悪徳です。僕はこいつらを調教して、人間をつけねらう悪鬼を追うよう仕込みました」
パディは腰の後ろに手を組み、いならぶ兵士たちの前を行き来した。置きものの甲冑さながら、よろい武者たちはかぶとの頭をもたげていた。
「しこむ・・・・・・?」
エリオットとクレオとは吸いつくように、互いの手を固く握り合っていた。
「ええ、仕込めますとも。まだ実験段階ではありますが。僕はこいつらの持つ、集団の秩序というものに着目しました。集団行動という悪鬼の習性を、逆手に取ってやったわけです」
兵士の一人の前で立ち止まると、パディは黒い鉄の腕を抱き上げた。眼前によろいの指先を突きつけられ、エリオットは息をのんだ。
「つまりは並みの悪鬼より格上の、行軍悪鬼とでも呼びましょうか。僕の目的はこいつらの嗅覚を用い、探りだした人間を悪鬼の猛威から救うことです」
エリオットはクレオの背後に逃げ隠れた。その間にもパディはよろいの腕に頬をすり寄せ、自らの手を這わせていた。鉄腕の肘から先を、白い手袋の指がたどっていった。
「ふうん。こいつらからは悪鬼の臭いなんてしねえのにな」
クレオの背後でエリオットの声がこもった。
「これを着せてますからね」
パディはよろいの腕にもたれ、そのままの格好だった。
「臭い・・・・・・が、するの?」
クレオは自身の服の背を握るエリオットにたずねた。
「え? すげえ嫌な臭いじゃん。クレオさん分かんねえの?」
エリオットはふたたび前へ身を乗り出し、クレオの顔をのぞきこんだ。
「え・・・・・・い、嫌なって・・・・・・どんな・・・・・・?」
「分かる必要などないのですよ。悪徳を嗅ぎだす能力は、因果に同じです」
エリオットはパディを振り返って見た。パディはなおも飽き足らず、黒光りする鉄の腕をなでまわしていた。
「あなた、人狼の臭いが分かるなんてこと、ないでしょう?」
青い三白眼の目は軍帽のつばの下に光った。
「う・・・・・・うん、分からない・・・・・・と思う」
クレオはロミオのことを思い起こしつつ答えた。彼は「臭い」を頼りに敵のいどころを突き止める。キーナでさえ、始終顔をしかめながら人狼と対峙するのだ。
パディの目はふたたび甲冑に向けられた。
「それはなにより。悪徳の臭いなど、知らないにこしたことありません。こいつらは悪鬼の臭いを追う犬なのですよ。早くこいつらだけでも悪鬼を始末しに行ってほしいものです。そうしたら僕も手が放れて、次の一団を調教でき・・・・・・」
よろいの腕が胸部からもげ落ち、よろめいたパディは鉄腕を取り落とした。よろいは地面に膝をつき、空のかぶとを落とした。腰を形づくっていた金属片が下へそそがれた。
腰から切り離された胴の部分がすべり落ちてくるので、クレオたちも逃れねばならなかった。
甲冑の背はなにか鋭利なもので突きやぶられていた。中の魂を吸い出されたぬけがらが、ひしゃげた鉄の器となって転がっていた。
黒いなめし革の手甲をはめた手が柄を握っていた。よろい武者が立っていたところに、クレオは一月半このかた会わなかったテイラーを見ていた。
「テイラー・・・・・・?」
「えっ? 姉ちゃんの彼氏じゃん!」
エリオットが指さした相手は半袖丈の水兵服を着ていたが、それがまた黒一色だった。
甲冑は今や鉄くずと化していた。それら鉄くずにそそがれていたガラス片のような目が、次にテイラーへ向けられた。
「きさま・・・・・・なんてことを・・・・・・」
彼よりも背丈の低いパディは細いあごを突きだし、震わせた。
テイラーは刀をひとふり提げただけだったが、背後には軍靴が高々と鳴りひびいた。残る行軍悪鬼が五体とも、新たに装填された銃剣をたずさえていた。
「かかれ!」
上下の歯並みがのぞけるほど声を荒げると、パディは手袋の指先で宙を斬り裂いた。よろい武者たちは銃剣を水平に掲げ前進した。黒いショートブーツの足で立ちつくすテイラーを前に、パディ自らも白いエナメルの靴で地面を踏み切った。
「テイラー!」
クレオはヒステリカルに息をのんだ。パディが構える銃の先端にはブレードが光り、相手の腹に突き刺さらんばかりだった。
銃身の上に乗り上げたパディが、相手の脇すれすれを抜けた。
「なっ・・・・・・!」
手甲を着けた片手がブレードの留め具辺りをわしづかみにしていた。テイラーは片肘を引くと、銃床にぶらさがるパディもろとも振り捨ててしまった。
パディは銃を持った手と膝を地面に着いたが、すぐさま体勢を立て直した。テイラーは背後の悪鬼が構える銃剣の上にとび乗った。彼が焔の色をした刃を振るうと、二体目の兵士が頭部を断たれた。
「きさま!」
パディは急ぎ銃剣の台尻を肩に押しつけ、細い脚をふんばりながら撃鉄を起こした。銃声が響くとエリオットは両手で耳をふさぎ、クレオの肩も耳まで届くほど力んだ。
テイラーは上体をかるく反って弾をかわした。彼の背後をねらっていた行軍悪鬼が流れ弾を食らった。
「しまった!」
自分の兵士が崩れ去る様子に、パディは目を見張っていた。テイラーが銃身を踏み切ったと思うと、彼はみぞおちを蹴りつけられていた。
「ああっ!」
弾と火薬の空になった銃が手から放れ、引き金の金具を支点に地面の上を回っていった。
行軍悪鬼は残すところ二体だった。テイラーは銃口を向けられるも、身体を低くして正面から踏みこんだ。掲げられた銃身の下で鉄火の刃を振るい、よろいを上と下とに両断した。
下肢を斬り離された兵士は武器を取り落とした。大小の鉄板をつないでいた継ぎ目は解け、地面にくろがねが降りそそいだ。
行軍悪鬼は最後の一体となった。味方の死骸が足場を埋めつくす中に、残党兵は武器を抱え立往生していた。ぎこちなく動く鉄の指が、銃の引金をとらえようとしていた。
足先で甲冑の部品を蹴ちらしつつ、テイラーは手の中で刀の柄を回した。刃を上向きに構え、切先をよろいの胸当へ一息に突き刺した。
彼の腕力のまま甲冑は突き上げられた。鉄かぶとが逆さに転げ落ちた。
クレオもエリオットも手で両耳をふさぎ、互いに身を寄せ合いうずくまっていた。よろいの手足はもげ落ち、離散した金属片が仲間の残骸の上へ降りそそいだ。
テイラーは熱のひかない刀を手に立っていたが、クレオはむせ返るようなうめき声で我に返った。見ればパディは、踏みつけられた薄い胸を上にして倒れていた。
「パディ!」
クレオは駆け寄った。起き上がろうとする相手の後ろにデニムの膝を着き、支えてやった。
手袋を地面にこすりつけながら、パディは左右のひじを突きようやく上体を浮かせた。
「・・・・・・待て、きさま!」
テイラーは早々に立ち去るところだったが、細い声が裏返るほどの剣幕に足を止めた。