⒈人狼を撃つ -前編ー
クレオは夜毎の夢にロサンゼルスの下町を見た。坂道や高架下を、十五歳の少年はひとり歩いた。ダウンタウンは碁盤目の形をした迷路だが、道幅はどこでも広かった。ブルーシートとごみくずが舞うドヤ街から西へ数ブロック行けば、目抜き通り(メイン・ストリート)に出られた。その先は高層ビルディングのひしめき合う近未来都市なのだ。
ねずみ色の雲は夜空一面にたちこめていた。街灯と交通信号は夜道を照らした。路駐自動車は路傍に数知れなかったが、クレオは路でだれとも行き交わなかった。これまで彼の夢には、電光の点滅と夜風の他に動くものは出てこなかった。
ところがクレオはついに人と出会った。ブロードウェイと六番ストリートとの交差点に、他でもない彼の両親が立っていた。
少年は両親の元まで駆けていった。しかし交差点の中心辺りまでたどり着いて、彼は首をかしげた。自分を待ってくれているように見えたのは、生者とは似ても似つかぬ二体の立像だった。
クレオは母親と父親にそれぞれ呼びかけ、顔をのぞきこんだ。頭半個分だけ身長差のある両親は立ちつくすばかりで、さながら路の中心に置かれた蝋人形だった。四つの目は茶色いガラス玉も同然で、グロスを注した母親の唇がかすかに開いていた。
足元のアスファルト舗装を浮かび上がってくるものがあった。クレオの足先に這い出したのは、黒い靄を凝縮したようなヒト形だった。ヒト形は鉤爪の形をした両手を突き、地上に身を乗り出してきた。クレオは息をのんで後ずさったが、同様なヒト形は背後にも現れた。
黒いヒト形は地底から続々と湧いて出た。赤い眼光を放ち、四つ足で這うヒト形の群は交差点一帯を占拠した。クレオと両親は逃げ場を失った。
詰め寄ってきたヒト形たちは両親の身体をよじ登った。クレオは母親を押したり引いたりしたが、ブロンズ像に身体をぶつけるような感触が返ってくるばかりだった。気付けば黒い手の先は自らの足にも触れていた。
「や、やだ・・・・・・やだ!」
とっさに足を引くも、背後のヒト形とぶつかってしまった。
「きゃあ!」
クレオは腰を抜かし、母親の足元で頭を抱えた。
風船を割るような銃声が響いた。母親の脚をかじっていたヒト形が一体、二体と地面に転がり落ちた。撃ち落とされたヒト形たちは舗装の上につぶれ、黒い膿と化した。膿状の死骸は靴底と同じ高さを流れ、その上へ新たに撃ち落とされたヒト形たちが折り重なった。
ほどなくしてヒト形は掃討された。黒い水たまりがアスファルトの上に満ち満ちて、マンホールのある箇所も分からなかった。先まで赤く光っていた目玉も、ただ膿の表面に浮かぶばかりだった。硝煙の臭いが一帯にたちこめていた。
三ヤード先から歩いてきたのは見知らぬ黒人の若者だった。紅いナポレオン・ジャケットも三角帽も金モールで縁どりがされており、両手には拳銃が一挺ずつ握られていた。
若者はブーツの足で黒い膿の中へと踏みこんだ。革製のブーツは膝丈で、ズボンはさらしのリンネルだった。歩くとブーツのかかとに着けられた拍車が鳴り、黒い膿がはね上げられた。クレオは母親の腕にすがれるだけ腰を低くし、その陰から見ていた。
膿の上に浮かぶ目玉のひとつに銃口が向けられた。銃声が響くなりクレオは母親の腕にしがみついた。憎しみの眼差しで若者を見ていた目玉はつぶれ、黒い血の海の底へ沈んでいった。
若者とクレオの目が合った。三角帽に付いた白い羽根飾りはそよぎ、丸っこい目は細められた。白い八重歯の歯並みがのぞいた――――
枕カバーの下で振動するものは、アラーム設定のバイブレーションだった。カーテンのすきから差しこんだ陽が布団の上に筋を描いていた。
バスルームへ立つ間にクレオは夜も、ダウンタウンも忘れてしまった。眼鏡をかけて自分の部屋を、洗面所を、階下のダイニングルームを見渡した。あたかも彼の生活のうちで、眠っていた時間があった事実さえ消えていくようだった。
フライパンの上で油がはじける音と匂いがたちこめていた。父親はいつもの椅子に座り、コーヒーを飲みながらTIME紙を読んでいた。母親はシンクとコンロの間をせわしなく行き来していた。
クレオは父親とはす向かいの、カウンターと接する席に着いた。彼が椅子の脚を引きずると、母親はよそりたての食事をたずさえキッチンから出てきた。
めだまやきトーストにかけるケチャップを取ろうと、クレオはカウンターへ身を乗りだした。熱いフライパンが流し台の中へ漬けられてのちも、母親の鼻歌はつづいた。父親の顔もうかがったが、老眼鏡ごしに新聞の字面を見る表情の他に見分けられなかった。
台所へ皿を下げに行ったおり、クレオは母親にたずねた。
「怒って・・・・・・ないの?」
「え?」
クレオのと同じブリュネットのくせ毛を、うなじの中央に束ねた母親だ。
「だって・・・・・・ほら・・・・・・」
クレオはカウンターの外の父親を見た。
水気の残る冷たい手がクレオの頬を取った。まっすぐ見つめ返すと、母親はほほ笑んでいた。黒い瞳の上下のまぶたは厚く、額にはしわが寄っていた。
「なにに怒れっていうの?」
赤いギンガムチェックのエプロンをしめた母親は額を少し反り、息子の表情をのぞいた。
「・・・・・・・・・・・・?」
クレオは肩をすくめ、おもむろに笑い返した。
昼休みの食堂は相当ごった返していたものの、一対の空席を見つけられた。クレオは早々とリュックサックを下ろし、中からサンドイッチ・ボックスを取り出した。
両親の目が無いのを良いことにテーブルへ肘をつき、手にしたスマートフォンを顔の前にかかげた。サンドイッチの切れをかじりながら、目は液晶の上をすべる親指にくぎづけだった。
「ここ空いてる?」
向かいの椅子の背ごしにたずねる声がして、漫画のページから目を上げた。相手の顔を見るなりクレオは言葉を失った。
リュックサックの背負いひもをまとめて一方の肩にかついでいるのは、上級生とおぼしき黒人の少年だった。
「また会ったな」
相手はクレオに笑いかけた。見覚えのある、白い八重歯がのぞいた。
食堂のざわつきは止み、入り混じるジャンクフードの臭いも消えた。クレオはダウンタウンの路にたたずんでいたが、そこはかつて一度も歩いたことのない場所だった。夢に見たことすらない裏道だった。
空には濃い色の雲がたちこめていた。路の両脇には平屋の建物ばかりで、建物と大差ない高さに電線がたるんでいた。建物の壁には落書きのような看板が出ていれば良いほうだった。どこの店もシャッターを下ろされ、その上から黒いフェンスまで張られていた。
「コーラー・ストリート。問屋街だよ」
クレオが肩をひきつけながら振り返ると、黒人の少年が自分のほうへ歩いて来るところだった。なるほど建ちならぶのは商店ではなく、レンガの壁をペンキで塗りこめられた倉庫だった。人の心を惹きつける看板も、ショーウィンドウも要らないわけだ。
今では相手もリュックサックを持っていなかった。昨夜のと同じ紅い三角帽を被り、短い上着の前は閉じていた。右手には何やら黒い毛皮のようなものを提げていた。
「よっ!」
相手が空になったもう片方の手を挙げて示すので、中指に指輪を着けているのが分かった。
黒い毛皮のかたまりはスイカほどの大きさだった。オオカミの尾のようなものが垂れ落ちたさまから、なにか動物の死骸であると知れた。
「人狼のベイビーだよ。触ってみるか?」
相手は手にした毛皮のかたまりをクレオの目の高さにかかげた。汚れた牙が片方、毛皮のすきから突き出していた。血走った白眼に見据えられ、クレオは上体を後ろに引きつつ首を横に振るった。
クレオが首を振ってばかりいるので、相手は持っていた死骸をわきへ放った。幼獣の死骸は倉庫の外壁に打ちつけられた。
相手の少年は空になった手を開いて見せ、いまいちど笑った。クレオもどうにか笑い返そうとしたが、相手は周囲をうかがう素振をしつつ真面目な顔つきになった。
「子どもがいるってことは、まだこの辺に親もいるはずだから・・・・・・気をつけろ」
辺りの空気は猛獣のうなり声に震えていた。爪先に黒い前脚を触れられた前夜の記憶に、クレオは身の毛がよだった。
「大丈夫だ。とにかく俺のそばから離れるな」
不安げに近辺を見まわしていたクレオは腰を抱き寄せられた。相手の両腰には革製の拳銃嚢が着いており、自分を抱いていないほうの手が拳銃の柄に届くのをただ見ていた。
少年は前触れもなくクレオの身体に力を加えた。ふたり一緒に体勢を低くしたが、同時に拳銃を持った手は高々とかかげられた。黒い図体が倉庫の上から乗りだし、鉤爪の付いた前脚でふたりの頭上をおびやかそうという刹那だった。
上下の牙と黒い歯茎が糊状の唾液を引くのを見た時、銃声が響いた。クレオは相手の筋肉質な身体にしがみつき、重心が後ろ寄りの蹲踞姿勢にもなんとか耐えた。
弾丸が喉をつらぬく勢いとともに敵は外壁へ叩きつけられた。敵の後ろ首から噴き出す血は黒く、背骨は音をたてて砕けた。汚泥と化した死骸はペンキ塗りの壁面をつたい、歩道まで達した。唯一原型をとどめた大粒の目玉が二つ、壁の上を垂れる膿の中からのぞいた。
人狼とおぼしき咆哮は別な方角からも響いた。少年は片腕にクレオを抱えバネのように立ち上がった。
「走るぞ!」
路駐のセダンにまたがっていた人狼を振り向きざま撃ち落とし、少年はクレオを引っぱった。
走る間にもアスファルトの上に沸いて出た敵が三頭撃ち倒された。車道を北へと駆けるも、その進路には路傍から這い出した敵が常に待ちかまえていた。
七番ストリートの交差点まで出たころには八方ふさがりだった。電信柱をすべり降り、黒い舗装を浮き上がり、ふたりの視界に敵は数を増していった。
「下がってろ・・・・・・」
少年は自らの背でクレオを隠すように立ちはだかり、両手に銃を取った。
二挺の銃は目に付いた標的から仕留めていった。引金の上に弾倉は回り、人狼は黒く長い爪で宙をかきながら一頭ずつ地面につぶれていった。少年は弾を惜しむ様子がまるでなく、二挺の回転式拳銃もまた弾の尽きることを知らなかった。
銃声と獣の咆哮とにクレオは耳をふさいでいた。二本足で地面を踏みつける人狼は心臓を撃ち抜かれ、あお向けに倒れた。四つ足のオオカミは眉間に弾を食らい、首をよじる間もなくアスファルトの上に溶けてしまった。
人狼の群もまばらとなり、五頭、三頭とその数を減らした。銃声の間隔も長くなるころ、思いがけずクレオの足先から残党のうちの一頭が沸いて出た。彼はその場に腰を抜かし、ズボンの脚にすがられた相手は振り返った。リボルバーの銃口が向くも、黒影の覆い被さってくる勢いに追いつかなかった。
腹から脳天にかけ裂けていく敵の図体は雷にでも打たれたようだった。黒い体液は八方の宙へまき散らされた。クレオは前髪を下ろした額を踏みつけられながら、鉤爪の付いた両腕がやじろべえ状に垂れるのを見上げていた。
地面に降り立ったのは黒髪の少年だった。二人目の少年は一人目に同じく、さらしのズボンと拍車の付いたブーツを履いていた。深い青色のトレンチコートはへそまでの丈で、両方の袖先から銀色の三本爪が伸びていた。
黒い血は鉤爪の先から滴り落ちた。
「助かったぜ、アンドレオ!」
黒人の少年に礼を述べられ、アンドレオは笑みで返した。背丈こそ及ばぬも、アジア系の顔はまあ端正だった。
リボルバーの少年は一ヤード先の人狼を仕留め、アンドレオも立ち去った。白昼夢から醒めたところで、クレオは校舎裏のベンチに座るに至った経緯を理解しなかった。
周囲をひとしきり見まわしたが、学校の敷地のうちでもとりわけ寂れた場所のようだった。前方のフェンスに沿って立ちならぶ木々は、下手な用務員に剪定されすぎて枯れ木も同然だった。自身が腰かけるペプシコーラのベンチは色褪せ、脚などがいちじるしく錆びていた。
となりに黒人の少年は座っていたが、何がおかしいのか不意に笑い出した。
「そんなに驚くことはねえよ。さっきの奴らはもうみんな始末したぜ?」
「えっ・・・・・・で、でも、僕・・・・・・」
相手の目付きにするどさはなく、笑うとえくぼができた。鼻と下唇は丸みを帯び、肉厚な上下の唇のすきから八重歯の部分がのぞいていた。相手が学食でも同じように笑いかけてきたことがひらめき、クレオはサンドイッチ・ボックスごしに言葉を交わした記憶をたどった。しかし相手に「また会ったな」と言われた後で、自分はいかに行動したものか? どうにも言い表せそうになかった。
「まあ、確かにお前はちょっとの間、この世にいなかったようなもんだけど・・・・・・つっても、それはあくまで実体界にいなかったってだけでさ。別に心配することはねえよ」
「じ・・・・・・、ジッタイカイ?」
クレオは訊き返した。相手は彼が理解しなかった言葉について説明をつづけた。
「ああ、実体界と、精神界だ。この世界はな、今俺たちがいる実体界と、さっき見てきた精神界っての二つで出来てるんだけど・・・・・・分かるか?」
クレオは首を傾げてそのままだった。相手は目を逸らしている間に舌先で唇を湿らせた。
「・・・・・・まあ、また後で分かるさ。それよりもさ、お前、何年生? 名前は?」
自分の弟がクレオと同い年であることを知り、相手は喜んだ。
「ああ、それと。次の時間、俺は化学だけど。お前は?」
またしても相手の丸っこい目に顔をのぞきこまれた。
「・・・・・・す、スペイン語・・・・・・」
「そっか。俺もスペイン語ならそれなりに話せるぜ。お袋がヒスパニックなんだ」
枯れ木とフェンスで隔てられた裏道に、人影は無かった。
「あっ、で、俺はロミオ。学年は違うけど、よろしくな、クレオ」
横から肩をつかまれクレオは息をのんだ。顔が赤らんでいくのが自分でも分かった。