朝を共にするB
橘視点のお話です。
水底からゆっくりと浮上するかのように目が覚める。身体が軽い。とても良い目覚めだ。
酒を飲んだ翌朝は深く暗い海底から無理矢理釣り上げられた魚のように目が覚める事がある。まるで前の晩の答え合わせをしているようだ。節度をわきまえず飲んだなら身体が軋み吐き気と頭痛が襲いかかる。肝臓をフル回転させたとしても追いつかない。そんな朝は飲んだ事を後悔する。
しかし、今日は違う。
ぼんやりと見慣れぬ天井を見上げ、そして隣を見ると…
天使が寝ている。
自分の思考回路の恥ずかしさに耐えられなくなり両手で顔を覆いゴロゴロと身悶える。。
わかっている!落ち着け俺。
再度、隣に眠る仲島を見る。朝日が差し込み光を纏う姿はやはり天使のようだ。
……たぶん俺は重篤な病気だろう。
わかっているのだ。仲島は俺と同じ男であり女性的でも中性的でもない。年相応の見た目だし、朝にはヒゲだって生えるだろう。
それでも、その頬に触れたいと思ってしまうのだ。
ゆっくりと手を伸ばし起こさないように優しく頬を撫でる。ザラリとした感触に「ああ生きているのだ」と当たり前の事なのになぜだか嬉しくなった。
髪を撫でようと手を動かした時
ピピピ ピピピ ピピピピピピ
まるで警報器のように電子音が鳴り響く。主人の危険を察知して起こそうとしているかのようだ。
まあ間違ってはいない。就寝中に頬を撫でるなんて立派な痴漢行為である。自覚が在るからこそ俺の心臓は肋骨を突き破りそうなくらい暴れているのだ。
主人を守るけたたましい音に手を伸ばしアラームを止める。仲島が起きた気配に「おはよう」と声をかけた。緊張で声が擦れてしまった。恥ずかしい。
仲島は何度も瞬きをしてキョトンとした幼い表情で「…おはよう…ございます」と言った。声がひどく擦れていて艶っぽい。その表情とのギャップに「酷い声だな」と笑ってしまった。
仲島は目を見開いたまま動かなくなった。
寝起きで混乱しているのか?
それとも、俺が居たことに驚いた?
例え酔った勢いだったとしても昨夜の仲島の言動は嬉しかった。しかし、彼にしてみたら大変気まずい思いだろう。
仲島の顔をジッと見つめてニヤリと笑い「昨日は可愛かったよ」気障ったらしく言う。嘘では無い。凄まじく可愛かった。でも、冗談っぽく言う。彼が気負わないように。
仲島は俺の思惑に乗ってくれたのか枕を投げつけてきた。本気で怒っているのではなく拗ねていますという表情に顔がニヤけてしまうのは仕方の無いことだろう。
昨夜……
会計から戻った俺は、かなり酔った仲島という凄まじく破壊力がある可愛い生き物に遭遇した。その破壊力をもって俺の表情筋は壊滅状態だ。鼻の粘膜と心臓はギリギリ持ち堪えてくれて良かった。
こちらの動揺が伝わらないようになるべく優しく「もう止めとこう」とか「家まで送るよ」と言っても仲島は子どもが駄々を捏ねるように「まだ飲む~」とか「家で一緒に飲もう」とか「離れたくない」だとか。。。
「離れたくない」と言われた時は膝から崩れ落ちる所だった。仲島は俺を本気で殺す気なのかもしれない。
なだめすかして何とか家に送っていった。
「ここだよ」と着いた先は純和風の一軒家でどこか懐かしい雰囲気は田舎の祖父の家を思わせた。
家の中はさっぱりと整っていて中嶋が丁寧に手入れをしているのがわかる。
アリの巣を鑑賞しながら一緒に飲み、足元がフラフラになっているのに鼻歌を歌いながら酒の肴を作ってくれた。
さらに、仲島は自室に二人分の布団を敷いて泊まっていけと迫った。
「帰っちゃヤダ」と腕に抱きついて離れなかった。
もう一度言おう。「帰っちゃヤダ」と腕に抱きついて離れなかったのだ!
これが他の男なら蹴り飛ばしている所だ。これが他の女ならそうなる前に逃げるか、さっさと手を出していた事だろう。
相手は仲島だ。ずっと片思いしている相手なのだ。できる事なら彼に触れたい。そういう欲も含めて彼が好きだ。
でも相手は仲島だ。そういう意味で誘っているなんて本人はこれっぽっちも考えていないだろう。
俺の中で「触れてしまえ」と悪魔が囁き、「少しだけなら大丈夫では?」と天使が囁く。
…すまん。中嶋の味方は居なかったみたいだ。
上を仰ぎ見るが天井に答えは書いていない。気付かれないように小さく息を吐く。「少しだけ、少しだけ」と心で唱えながら、ゆっくりと優しく頭を撫でると、気持ちが良かったのか中嶋が手のひらにすり寄って来た。指先に伝わるさらさらとした感触は想像していたよりも柔らかいく、猫のようなその姿に鼻の粘膜が決壊しそうになる。
慌てて、これ以上は危険だと奥歯を噛み締め、己の中で暴れ出しそうになる猛獣を調伏する為に「新製品のセールスポイント」を頭の中で唱える。
天国と地獄(中嶋の可愛いさと欲望への葛藤)を味わいながら疲れ果てた俺は仲島の寝息を聞きながらあっさりと意識を手放した。
そうして朝を迎えた俺の目の前で中嶋は複雑そうな顔をしている。
あれ?俺間違えた?
もしかして、昨日色々触ったのがバレたか!?
酔った中嶋が可愛くて頭を撫でたり、手を握ったり…。立派なセクハラ行為である。「気持ち悪かった?」「嫌われたかも」と身体の中をヒンヤリとした水が流れる。
中嶋は何かを振り切るように「朝ごはん食べられるか?」と聞いてきた。動揺を隠すように「食べる!」と元気に返事をした。
布団を畳むのをかって出た俺を残し、中嶋は台所に向かった。中嶋の気配が遠ざかるのを確認して布団に倒れ込む。
…無かった事にされたのかな。
「嫌われるよりマシだ」と言葉にするが、昨夜の何もかもが幻想だったかのような、物悲しさを感じてしまう。
「なあ橘、ご飯は固めと柔らかめとどっちが好き?」
昨夜の中嶋の声がフラッシュバックする。
昨夜、中嶋が急に「米をとぐぞ!」と鼻歌交じりに米をとぎ出した。突然の宣言に「今から食べるのか!?」と驚いたが、どうやら明日の朝ごはんの用意らしい。
慣れたように台所に立ち作業する中嶋を見ると、彼の日常に混ざれたような気がして嬉しくなる。
鼻歌に合わせたようにリズムカルに動く手元が面白くてまじまじと観察していると「なあ橘、ご飯は固めと柔らかめとどっちが好き?」と聞く中嶋に俺は何も考えず「仲島の好みで大丈夫だよ」と答えた。
先程まで軽快に動いていた手が止まり中嶋がうーんと唸る。天井を仰ぎ見てから顔を戻し、じっと目が合う。口を開けては閉じてを繰り返し考えながらゆっくりと言葉の意図を、その思いを話してくれた。
「蟻ってさコロニーって家族単位で生活してて、基本的に雑食だから何でも食べるんだよね。
でも、種やコロニーごとに微妙に好みが違うんだ。味付けも、薄味が好きだったり濃いめが好きだったりそれぞれでさ。
好きな物をあげるとアリ達の食い付きが全然違うんだ。置いたら物の数秒で無くなるの。
なんかそれを見ていると、「美味しい、美味しい」って喜んでいるみたいで嬉しくなるんだよね。
あぁ…だから、つまり、僕は橘の好きな物が知りたいんだ。君の喜んだ顔が見たいから。
卵焼きは甘いのとしょっぱいのとどっちが好きだとか、味噌汁は赤味噌派、白味噌派だとか。
少しずつ君の好みを知っていけたら嬉しい。
まあ今言われても忘れそうだから、明日の朝になったら教えてくれ」
最後は恥ずかしそうに目線を下げて米とぎを再開した。
俺は両手を握り込み力を入れる。そうしないと立っていられそうにない。中嶋の言葉は熱烈な愛の告白を受けるよりも俺の芯を痺れさす。
ああ抱きしめたい。
「なんで抱きしめちゃダメなんだ!」と逆ギレしそうになる。せめて身体の一部だけでも触れたいと作業を終えた中嶋の手をじっと見つめ、そっと手を伸ばしその手に触れる。水仕事をしていた手は少し湿っていて冷たい。温めるように包みこむとさっきまで器用に動いていたのが嘘のように大人しい。
「どうした?」
不思議そうな彼の顔。
「俺も中嶋の喜んだ顔が見たい。少しずつ中嶋の好みを知っていけたら嬉しい」
今は酔っていて流されているだけかもしれない。こんなに酔っているのだ、朝起きて中嶋が覚えていない可能性だってある。
中嶋の近くにいられるのなら、友人という関係だってきっと悪くない。そう思った。
そして朝になり、先ほど朝食を作りに行く中嶋に何も聞かれなかった。きっと昨夜の事は自分に都合の良い夢だったのだろう。
それでも良い。例え夢だったとしても俺の気持ちは真実なのだから。寂しい気持ちを飲み込み「よし!」と気合いを入れて早く畳んで中嶋の元へ向かおうと作業を開始した。
畳んだ布団を持ち上げた瞬間。
「なあ橘、ご飯は固めと柔らかめとどっちが好き?」
背後から聞こえた声は先程よりリアルで、俺は畳んだ布団を持ち上げかけた状態でフリーズした。そのまま布団の上にうつ伏せで倒れ込む。
倒れた俺に驚いたのか中嶋はすぐに掛けよってきて「どうした?」と意識を確認するように俺の肩を叩く。その感触に、ああこれは現実なのだと実感した。
「大丈夫、大丈夫」と言うように手をヒラヒラさせ安否を伝えたものの本当に大丈夫なのかは自分でもわからない。ひたすらに顔が熱い。
熱を帯びた顔を上げて「昨日も同じ事を聞かれたよ」と言えば、彼は目を見開いて驚いた後、不安そうな顔になる。
きっと覚えていないのだろう。
ジッと見つめ、俺は赤い顔のままニヤリと笑い「昨夜は可愛かったよ」再び気障ったらしく言った。
中嶋は反射的に「さあぶつけるぞ!」と投げつける為の枕を手に取る。「ごめん、ごめん」と軽く謝り、「昨日、米とぎながら聞かれたんだよ」と彼から抜け落ちた会話の内容を話すと、今度は驚いて顔を赤らめている。中嶋が可愛い。
彼が思い出したかどうかはわからないけど、先程感じた冷たい寂しさは吹き飛び、愛おしいという気持ちが溢れて胸が熱い。
彼が好きだ。
中嶋が好きなのだ。
叫び出したい想いに、なぜ今まで俺は彼に告白しないでいられたのだろうと不思議でしょうがない。
「嬉しかった。朝起きて仲島が覚えて無くても構わないと思ったんだ。でも、同じ事を聞いてくれて、やっぱり仲島は仲島なんだと思ったら…あの…その…やっぱり好きだなって思って」
もう溢れ出る想いを伝えずにはいられない。