帰還と後始末
堀内悠希の汚れていた衣類を、インナーは適当なサイズの新品の既製品を積載品の中から渡し、アウターはサイズの合いそうな山田の物を提供してもらって着替えさせ、今まで着ていた物は洗濯機と乾燥機へ。
シャワーを使って身奇麗になった堀内に、何か食べたい物はないかと訊いて、リクエストに応えたのだが、
「堀内君、本当にこんな物でいいの? 冷凍物で良ければ、お刺身とかもあるんだけど……」
てっきり日本食を所望されるかと思っていたマリスが調理して出したのは、カリカリに焼いたベーコンを添えたスクランブルエッグに、バターとたっぷりのメープルシロップが添えられたパンケーキに、マグカップのコーヒーという、アメリカン・ブレックファーストな内容の料理だった。
「いやぁ、凄く美味しいですよ。どちらかというとこういう料理の方が、最近では日常食ですから」
笑顔で食事を続ける堀内に、
「そんなものかしらね」
「……」
腕の振るい甲斐が無かったからか少々不満顔のマリスは、同じテーブルで、焼き魚と野菜の煮物が主菜の和風の食事をする真姫を見て、肩をすくめた。
「それに、和食は……帰国してから麻耶さんに作ってもらいます」
「ま。ごちそうさま」
言った堀内本人と、何故か真姫が赤面する。
「それと、なんと言ってもコーヒーですよ。ホテルでは飲めたんですけど、捕まってる時は砂糖がたっぷり入ったチャイだけでしたので……あれはあれで美味しんですけどね」
照れ隠しのように言いながらカップを持ち、コーヒーを飲んで一息ついた堀内は、パンケーキにメープルシロップを掛け足して食事を再開した。
食後にコーヒーを淹れ直して、今後の予定を堀内と真姫と共に確認する。
「ムンバイに迎えが来るから、堀内君は市内で一泊して、朝食を済ませたら日本総領事館に行きなさい」
「わかりました。自分は気がついたらムンバイで解放された、そう言えばいいんですよね?」
「あら、察しがいいのね。迎えに来る案内人は日本語が話せるから、予約してあるホテルまで案内させるわね。それと……このカードでホテルの支払いと、余った分で神野さんと御両親へのお土産でも買うのに使って。暗証番号は……」
カードを渡しながら、マリスは暗証番号を教える。
「あ、これは気を遣ってもらっちゃって……では、ありがたく使わせて頂きます。落ち着いたら、麻耶さんと一緒にお礼に伺いますね」
「なら、前の日に連絡をちょうだい。麻耶さんほど美味しくはないけど、料理を作って歓迎するから」
「参ったなぁ……」
ウィンクしながら不敵な笑顔を浮かべる命の恩人であるマリスに、堀内は苦笑するしか無かった。
ムンバイ沖十キロで海面下二十メートルまで深度を上げ、偽装アレイで海上を警戒しながら陸地方向へ航行するアトラトルの進路上に、船外機を付けた小さなボートが漂っていた。ボートの乗員は肉眼では視認できないブラックライトを一定間隔で点滅させている。
浮上時の水流で転覆させないように、ボートの三十メートル手前の海面にアトラトルは姿を現した。
「じゃあ、ホテルまでと、明日の朝の案内を頼むわね」
アトラトルから投げられたロープで係留されたボートに堀内と乗る、インドにあるマリスが代表を務める傭兵、ボディーガードを斡旋する事務所のメンバー、浅黒く精悍な顔をしたシンに念を押す。
「お任せ下さい。では」
真剣な表情でマリスに一礼すると、ボートに結ばれていたロープを解き、船外機を操作して船首を陸地に向けた。堀内が笑顔で手を振る。
ボートが去るのを見送ると、アトラトルは再び海中に姿を没した。
「で、なんでこうなったの?」
もう着る事は無いと思っていたパイロットスーツを着せられた真姫は、マリスに言われるままに錠剤を水と共に飲み込んだ。
「ほんと、面倒掛けるわねぇ」
インドで堀内悠希を下ろした後、日本へ帰還するアトラトルは、パキスタンを始めとするインド洋沿岸諸国と、アメリカ海軍、日本の海上自衛隊が連携して構築された国籍不明艦に対する厳重な哨戒網のために、慎重な航行を余儀なくされていた。
幸いに、完璧な静粛性能を活かして補足される事は無かったが、マラッカ海峡は閉鎖状態とも言える程の警戒態勢で、発見されずに通過するのは不可能だった。
マラッカ海峡を迂回したアトラトルは、遠回りになるスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通過、なるべく最短距離を選んで航海したが、当初のスケジュールを大幅にオーバーする事が判明した。
計算上ではぎりぎりで真姫の対局には間に合うのだが、到着は当日の朝、対局の二時間前という余裕の無い状況になりそうで、何か突発的な事態が発生すれば間に合わない可能性もある。
という訳で、片道飛行なら燃料は持つし、今回はエンジン再始動用のバッテリーを搭載する必要が無いので、離陸にも着陸にもフロートパックが使用出来る。アトラトルはミカと鈴木達に任せ、マリスと真姫は一足先に帰る事にしたのだった。
時差と、当日のコンディションを考慮して真姫に睡眠薬を服用させ、ヴォイドのガンナーシートに座って眠り始めるのを見届けたマリスは離陸準備に入る。
石垣島の東百キロの海上に姿を現したアトラトルの後部ハッチが開放され、マリスと真姫を乗せたヴォイドが、逆噴射を絞って少しずつ後退する。
艦の後端ぎりぎりのところで一度停まると、大型ウェポンベイ内のフロートパックを展開して着陸脚を収納、再び逆噴射して着水し、海の上に浮かんだ。
「それじゃあ悪いけど、お先に帰るわね」
「了解です。こっちはのんびり帰りますので。それでは、良い空の旅を」
「あははっ。飛んじゃえばすぐよ」
鈴木との通信を終えると、マリスは機首を風上に向け、可変翼を最大展開して長い海面の滑走後に離陸するとフロートパックを切り離し、数度、翼を左右に振ると、機体は闇に溶け込むようにその姿を消した。
順調な二時間弱の飛行で川崎港上空に到達したヴォイドは、多摩川の上流を目指す。
帰還地点の多摩川大橋近辺はかなり川が蛇行しているので、一度上流方向に飛び過ぎてから旋回し、東海道新幹線の陸橋を目印にして着水態勢に入る。
左右のウェポンベイから展開したフロートパックが着水すると自然にブレーキが掛かり、何も見えないのに川の水面に航跡が発生するという、事情を知らない人間の目には不思議な現象が起きる。
ヴォイドが水上を滑走して多摩川大橋の下に入ると、大型のクレーン車とトレーラーが待ち構えていた。
橋の下に到達した時点で、上から前後左右を囲むようにシートが垂らされる。背景同調迷彩のシートで、外から作業を見られないようにする為の措置だ。
機体の数ヶ所をクレーンからのワイヤーで固定し、エンジンを切ったマリスは、
「ご苦労様。夜中に悪いわね」
収容作業の陣頭指揮を取り、自らクレーンを操っている渡辺に感謝の言葉をかける。
「なんのなんの。一応、帰還スケジュールの前後数日は、この場所の工事申請しておきましたんで、怪しまれる可能性は低いと思います」
「さすがの細かい気配りね、助かるわ。バイト代ははずむから」
「それは、こちらも助かります。さ、マリスさんは真姫さんを」
ヴォイドはクレーンでトレーラーに載せられると着陸脚に輪留めをされ、シートで覆われるとその上からワイヤーで荷台に固定された。空気が抜かれたフロートパックも回収されて載せられる。
狭いガンナーシートから真姫を引っ張り出し、用意されていたハイエースのフラットにした後部座席に寝かせたマリスは、自分も助手席に乗り込んだ。
ヴォイドとクレーン車と回収した背景同調迷彩のシートを載せたトレーラーと別れ、渡辺の運転で送ってもらったマリスは、数日振りに我が家に帰宅した。
先に玄関を開け、幾つかの指示をしてから渡辺に礼を言うと、真姫をお姫様抱っこして家に入り、そのまま二階まで運び上げてベッドに寝かせた。
苦労してパイロットスーツは脱がせたが、パジャマを着せるのは諦めて布団をかけた。
安らかな顔で眠る真姫に、
「今回は本当にありがとうね、真姫……」
額に掛かった髪の毛を優しく手で払ったマリスは、感謝のキスをして微笑んだ。
使えるものはなんでも使うが、他者に依存はしないで解決する主義の筈の自分が、この少女には随分頼ってしまっている……自重しなければと考えながら、マリスが眉根を寄せていると、
「ん……」
小さな寝言と共に真姫が身じろぎしたので、起こしてしまったかと思ったが、暫く見守っていても眠ったままだった。
静かに立ち上がったマリスは部屋を出て自室で着替えを済ませると、階下に降りて「集金」その他の作業を開始した。
翌朝、マリスがセットしておいた目覚ましのアラームで起きた真姫は、
「おはよう」
「おはよう。良く眠れた?」
「うん」
リビングに居たマリスと朝の挨拶を交わすと、着替えを持ってバスルームに向かう。
シャワーを浴びて身支度を整えた真姫がキッチンに入ると、磯の香りがする浅蜊の炊き込みご飯に根深汁、綺麗な焼き色のイサキの塩焼きという、出来たての湯気を上げる朝食が準備されていた。
食後のほうじ茶を飲んでから、マリスの運転で対局をする市ヶ谷の日本棋院に向かう。地下ドックに停めっ放しにしてあるスーパーセブンではなく、三台所有している車のうちの一台、レクサスISFである。
普段は駅前までくらいしか送ったりはしないのだが、余裕の無いスケジュールにしてしまった引け目と、その原因の堀内悠希の一件で、マリスは真姫に対して無自覚に過保護になっていた。
対局開始時間の一時間前に、日本棋院の五十メートル手前の路上に車を停めたマリスは、
「これ、お弁当に浅蜊ご飯おにぎりにしておいたから。それとこっちは豚汁と、こっちは対局中に飲むお茶ね」
説明しながらおにぎりの入った容器と、二本のステンレスサーモスを入れたトートバッグを、タブレット端末で最後の棋譜の確認をしていた真姫に渡した。
「ありがとう。でも、全然、寝てないんでしょう? お昼は出前でも良かったのに……」
アトラトルでの往復から現在まで、真姫の指摘通りマリスはほぼ眠っていない。昨夜も各方面への連絡に時間を取られ、状況が落ち着いた頃には朝食の準備を始めた。
「あはは、大丈夫。とは言え、さすがに限界が近いから、対局が終わるまでは持ちそうにないわ。だから、待っててあげる事も迎えに来てあげる事も出来そうに無いけど……帰りは一人で平気?」
「平気よ、勿論……安全運転で帰って、ちゃんと寝てね」
「うん」
微笑むマリスの目の下に隈こそ出来てないが、真姫にはいつもと比べて、その綺麗な顔の色が良くないように見える。
そろそろ行かなくてはならない。しかし心配だ……周囲に歩行者も車もいない事を確認した真姫は、
「ん……」
「んっ!?」
感謝の気持ちと、精一杯の勇気を奮って、マリスの頬に軽く唇を当てた。
「……目、覚めた?」
真っ赤になって俯き、なんとか言葉を絞り出した真姫に、頬に手を当てて驚きに眼を見開いていたマリスは、
「……うんっ! 覚めた覚めた! もー、あと一週間くらいは寝ないで平気っ!」
本人の言う通り、頬は赤みを帯び、瞳が輝きを増したように見える。
「それはダメでしょ……じゃあ、行くから」
車を降りる真姫に、
「私も行くわね。お祝いに、御馳走作って待ってるから」
普段以上に元気になったように見えるマリスが、にこにこ顔で言った。
「お祝いって、まだ勝つかどうか……ん、勝って帰るね」
一瞬、弱気になりかけたが、真姫は言い直した。
「うん。勝ってらっしゃい」
最後に手を振ると、マリスが運転する車は、派手にタイヤを鳴らしながら走り去った。
「……よし」
車を見送って小さく気合を入れた真姫は、昼食と飲み物の入ったトートバッグを肩に掛けると、日本棋院に向けて歩き出した。
対局は開始から昼食の休憩を挟んで、二時間ほどで高木六段が投了した。事前の対策が功を奏し、真姫の圧勝だった。
最寄り駅のショッピングモールで、普段はあまりしない、お土産に和菓子を数種類買って真姫が帰宅すると、
「~♪ あら、早かったのね。という事は、勝ったわね?」
喜々として料理の下拵えをする為に、エプロン姿のマリスがキッチンを縦横無尽に動き回っていた。テーブルの上の状況とオーブンから漂ってくる甘い香りからすると、料理だけではなくケーキまで焼いているようだ。
「もぉー、寝てって言ったのにぃー……」
思わず涙ぐんだ真姫はマリスに近づくと、精一杯の抗議の行動に、握った手で胸をぽかぽか叩いた。
本気で叩いている訳ではないので、大した痛みなどは感じていないマリスは、
「あはは、ごめんごめん。んもぉー、可愛いわね。ちゃんと寝るってば……」
笑顔で優しく抱きしめながら真姫をなだめた。
結局、睡眠不足の疲労を通り越してハイになっているマリスは、終始ご機嫌で給仕をしながら夕食を済ませ、食後にお土産の和菓子をありがたく頂きながらお茶を飲み終わるまでは、ベッドには入らなかった。
少しだけ時系列を遡る。
インドの日本総領事館にふらりと姿を現した堀内悠希に、職員と領事、連絡を受けた日本政府が仰天した。そして間を置かずに山岳ゲリラのリーダーであるラトーレから、身代金を受け取ったので人質を解放したとの声明が様々なメディアに発表された。
テロには屈しないという方針に従って対応が後手に回っていたパキスタンと日本政府、パキスタンのバックに居たアメリカ政府は、誰が払ったのかは謎だが、堀内悠希が解放されてゲリラの手に身代金が渡った事によって面目が丸つぶれになった。
この状況に、堀内悠希を誘拐したゲリラの潜伏先の捜索隊への謎の攻撃と、インド洋に現れた国籍不明の謎の潜水艦の逃走を許したという事態が重なって情報が錯綜し、更に混迷を深める事になる。
ここでマリスの言う、然るべきところからの「集金」が始められた。
インドで堀内悠希を下ろす際に、浮上したアトラトルからの通信で、マリスは自らが陣頭に立っている国際的な仕手集団に売買の指示を出す。
ゲリラの隠れ家から立ち去る時にリーダーのラトーレに耳打ちしたのは、この仕手戦への相乗りの持ち掛けだった。
世界を旅している時に出会ったイギリス人投資家、実際は経済マフィアのボスであるロバート・マクミランに何故か気に入られたマリスは、知識としては知っていたが実践はした事が無かった相場の手ほどきを受け、引退を考えていたマクミランの国際的なネットワークを引き継いだ。
この時、仕手戦における暗号名に、女性のリーダーということで中国神話の創世神である女禍の名を「JOKA」として使っていたが、マクミランを始めとした欧米系の人間に呼ばれる時に「ジョーカー」と発音され、いつの間にか「JOKER」の方が定着してしまったのだった。
基本的には顔出しをする機会はあまり無い世界なので、マリスはJOKERの名が定着してしまったのは放置する事にした。
その後、マクミラン他のマリスを知る者達がレディと付けて呼んだので、ごく限られた世界でレディ・ジョーカーの通り名が使われるようになった。ネット囲碁のプレイヤーネームもここからである。
堀内悠希がムンバイの日本総領事館に姿を現したのが現地時間で九時。日本時間では十二時三十分。東京証券取引所の後場開始時間である。
ゲリラへの身代金の支払いと弱気な対応で国際的な信用を無くした日本とアメリカの株式と通貨、パキスタンの知られざる産業、ヨーロッパのメーカーの傘下にある医療機器製造会社の株式が暴落し、仕手集団に大きな利益をもたらした。マリス個人の取り分だけでも、今回の航海に掛かった費用と神野摩耶に渡した「御祝儀」を差し引いても十分お釣りがくる。
自身を悪人だとは思っていないが聖人君子では無いマリスには、保護者の友人の扱いが悪い国の為替相場や企業の株式にダメージを与えても、罪悪感は感じていなかった。
神野摩耶の依頼で堀内悠希を救出してから約一ヶ月。
星鳳学園高等部の定期考査が終了し、答案が返却された翌日から、成績が悪かった者や部活動に参加する者以外は基本的に夏季休暇の前日の終業式まで登校する必要が無くなる。
そんな答案返却日に帰宅準備をしていた真姫の元に、神野摩耶と堀内悠希が、都合が悪くなければ翌日に家を訪問したいと伝えに来た。
二人に保護者のマリスに確認を取ってから連絡する旨を伝え、真姫は帰宅した。
学校が午前中で終了したので、マリスが用意していたスモークサーモンとクリームチーズとオニオンスライスのサンドウィッチと、ショートパスタを入れたミネストローネの昼食を二人で食べ終わると、神野摩耶に電話連絡を入れてから、
「よぉし。それじゃあ歓待しなくちゃねっ」
言うが早いか真姫と共にレクサスISFに乗り込んで、産業道路沿いのコストコから、駅前のショッピングモールのラゾーナと、地下街のアゼリアの店を数軒回って材料を調達して帰宅した。
真姫も少しだけ手伝いをした準備は、夕食を挟んで夜遅くまで続き、翌朝も早くから起き出したマリスは、朝食以外の時間は準備に充てた。
アンチョビやオリーブの実やキャビアを乗せたカナッペのオードブルに、にんにくとオリーブオイルで味付けされたスペイン風の冷製トマトスープのガスパチョ、タレに漬けた丸鶏の中華風の素揚げといった料理がテーブルの上に所狭しと並ぶ。デザートのパンプキンパイもオーブンの中で焼いている最中だ。
時計を見て時間を確認したマリスは、
「そろそろかしらね……」
準備を終えてソファで寛ぎながら、水出しのダッチコーヒーを飲んでいる。
来客用にマリスがセレクトしたのは、ノースリーブの龍が刺繍された真紅のチャイナドレスで、かなり際どいスリットが入っている。向かいに座る真姫は、タイトル戦用に何着か作ったうちの濃紺のサマースーツ。
「二人はどんな服を着てくるかしらね? 堀内君はジャケットにパンツ辺りだろうけど、神野さんは何着ても似合いそうだし……フリル付きのワンピースとかかしら。真姫も夏用に何着か買う?」
「私は、あんまりひらひらしたのは……」
自分に向いた矛先をなんとか逸らそうとする真姫だが、
「あら、きっと似合うわよ。ついでに髪型もちょっと変えたりして……んー、想像しただけでも可愛いわぁ」
未だに過保護モード継続中のマリスは、開放してくれそうにない。
立ち上がったマリスは真姫の後ろに回り込み、
「あなたは可愛いんだから、ちょっとだけお洒落して雰囲気を柔らかくしたら、周囲の男が放っておかなくなるわよ」
耳元で囁きながら背後から抱きしめた。
「そういうのって、良くわからないから……」
自分に回された腕に、そっと手を添えながら、真姫は頬を染める。
「ふふっ。そういう子ほど、突然、彼氏を連れて来て、『結婚します』とか言い出したりするのよね」
「……結婚するなら、マリスの方が先でしょ?」
思わず口に出た自分の言葉に、
(マリスが、結婚……)
今の生活が終わり、一人になる。かつては、自分の意志でそうしようと決断した筈なのに……真姫は愕然とし、涙が溢れそうになった。
(あれ、私……)
「んー、そっかー、そうよね。でもまあ、こんなお転婆じゃ、貰い手が無いでしょ」
ウィンクしながらペロッと舌を出すマリスに、現実に引き戻された真姫は、慌てて目元を手で擦った。
「マリスは美人だから、大丈夫……」
少し無理して笑顔を作って真姫は、自分に回された腕に添えていた手に、少し力を込めた。
「あははっ。気を遣わせちゃったわね、ありがとう。でも、真姫がお嫁に行くまでは私が面倒見るから、それまではいいわ。でも、油断してるとお祖父様が、真姫の分までお見合い相手を世話してきそうだけどね」
「あはは……」
マリスの言葉に温かい物に身体が満たされたと思った真姫だが、フィリップの行動を想像して、あっという間に冷却された気がした。
二人の会話を遮るように、玄関のチャイムが来客を告げる。
「はーい。少々お待ち下さいね」
ドアホンのカメラで神野摩耶と堀内悠希を確認したマリスは、
「さ、お迎えよ」
いつもの輝くような笑顔で真姫に手を差し出す。
「うん」
真姫は差し出されたマリスの手を取って立ち上がると、手を繋いだまま来客を迎えるために、並んで玄関に向かって歩き出した。