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えむあんどえむず  作者: 帝
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反政府ゲリラ ラトーレ

 そこかしこに岩が剥き出しの未整地の山岳地帯を、決して軽くはない荷物を背負っているにも関わらずに、マリスは舗装された平地と変わらない速度で走る。


 地図上の約五キロの距離を驚異的な短時間で走破し、上空から調べた峡谷の縁に辿り着くと、身を伏せて偵察する。アップダウンが激しい道を走ったのに、息は殆ど乱れていない。谷の幅は約五十メートル、谷底までは約三十メートルくらいだ。


 谷底から中程までに穿たれた幾つもの穴から、小さく光が漏れている。古い石窟寺院を利用した山岳ゲリラの隠れ家で、オーバーハングの岩棚でカモフラージュされ、かなり近づかないと発見は困難になっている。堀内悠希が捕らえられている場所で間違い無さそうだ。


 既に夕食時は過ぎ、夜の礼拝の時間までもう直ぐというところで、谷底を歩く数人の中に立派な口髭の偉丈夫、誘拐の犯行声明を出したゲリラのリーダー、パルヴェーズ・アリー・ラトーレが居るのを確認した。

 周囲の人間と何かを話しながら歩くラトーレを眼で追っていると、石窟寺院の内部に繋がっている通路の一つに入っていった。そのまま少し待つと、一階層上がった場所の窓から明かりが漏れ、換気のために開けていたらしい窓を閉じた。


 目標地点がはっきりしたので、マリスは背負っていたフレームパックを下ろすと、中から加藤の調達してきた物、総金属作りのクロスボウを取り出した。

 先端が小さな輪になったワイヤーにカーボン製のシャフトの矢を通し、タングステン・カーバイドの重い鏃を付ける。


 礼拝の時間になったので出歩いていた人々も屋内に入り、僅かに漏れていた生活光も窓が閉ざされて無くなり、星明りだけになる。


 薄い革の手袋をつけたマリスは、両手でクロスボウの金属線の弦を握った。弦の両端にはゴムバンドを結びつけてある。

 静かに瞼を閉じたマリスは、通常なら滑車を使って巻き上げなければならない強力なテンションの掛かった弦を、


「……っ!」


 無言の気合と共に、その細い腕からは信じられない力を発揮して、クロスボウの逆爪(シアー)にセットした。

 地面に置いた、折り重ねたタオルの上にクロスボウをレストさせ、伏射の姿勢になって再び谷底の方を見ると、マリスはラトーレの居室の少し上にある、ほんの小さな岩の裂け目に視線を固定する。


 艦内通路で、ダンボールと板を交互に重ねた的の後ろに小麦粉の袋を置いて、二十メートルで照準修正した三倍率のスコープを覗き、距離によるドロップと打ち下ろしによる低伸などの諸元を頭の中で計算する。

 僅かに谷へ吹き下ろす追い風が吹いているが横風では無いので、重い鏃を付けた矢を使用するから、弾道への影響は無視できる程度だ。


 少し深く息を吸い、吐き出し、再度息を吸って吐き出した途中で止めると、微動だにしない状態の頭の中で矢と目標の距離を縮めるように想念し、ゆっくり絞っていたトリガーを絞り落とし、射弓術の達人がするように矢を的に「戻した」。


 岩の割れ目に鏃が食い込む音が小さく響いたが、マリスが暫く動かずに様子を見ていても人が出てくるような事は無かった。発射時の弦の音は結び付けられたゴムバンドが、銃のサウンドサプレッサーのような効果を発揮して相殺されている。


 クロスボウを置いたマリスは、フレームパックのサイドポケットから取り出したハーケンをハンマーで、出来る限り音を立てないように気をつけながら、足元の小さな岩の亀裂に打ち込んだ。、矢から繋がるワイヤーをハーケンの輪に通して、ピンと張る様に固定する。


 クロスボウはその場に置いてフレームパックを背負い直したマリスは、ワイヤーの上に一歩目を踏み出すと、谷底に身を躍らせるかのように、なんの躊躇いも無く走り出した。



 ワイヤーの上に立ったまま、気配を殺して壁に張り付くようにしながら、部屋の中の礼拝の声が聞こえなくなるのをマリスは待った。


 礼拝の声が途絶え、部屋の中で人が動く気配を感じたマリスは、立っていたワイヤーに片手でぶら下がると、腰のシースから細かい作業に使う小型の刃物を抜き、窓の隙間に刃を差し込んで留め金を外した。


 かすかに窓の軋む音に気がついた部屋の主、ラトーレは、


「はぁい。いい夜ね」


 ウルドゥー語で、気軽な口調で話す女の声が聞こえたと思った瞬間、あっという間に腕を固められた姿勢で床に押さえ込まれると同時に、首に大型の刃物が突きつけらた。


 なんとか自分の置かれている状況を把握したラトーレは、 


「……何者だ」


 押し殺したような声で言った。


「あなた達が捕らえている、日本の高校生を引き取りに来たわ。ちゃんと身代金も持ってね」


「パキスタン政府かアメリカか日本かわからんが……女を寄越すような取引を信用しろというのか?」


「別に、あなた達の考えなんかどうでもいいのよ。そしてあなたには選択肢は二つしか無い。堀内君を返してお金を受け取るか、身の破滅かよ」


「ふん……殺すなら殺せばいい。いつでも神の元へ行く準備は出来てい……」


「あら、勘違いしないでね。殉教なんかさせる気はないから」


「なん、だと……?」


 何故かマリスの悠然とした笑顔に、ラトーレは戦慄した。


「そおねぇ、お酒の飲み放題と、お肉の食べ放題なんかどうかしら? なんの肉かは……訊くまでもないわよね? それに、有閑マダムとの逢瀬なんかも如何かしら?」


「なっ!?」


「少なくとも、あなたとあなたの一族が、心穏やかに暮らせる日は終わるわ。そしてあなたの信じる神の元になんか、決して行けない」


 その時、ラトーレは気がついた。口元は笑っているが、自分を押さえつけている女、マリスの眼は冷たく自分を見下ろしているだけだという事に。そして、言った事を必ず実行すると確信した。


「貴様は一体……」


 精一杯の虚勢を張ったラトーレの質問に、


「別に私が誰でも構わないと思うんだけど……これでわかるかしら?」


 マリスが喉に突きつけていた、肉厚の刃が中程から湾曲している、ナタやマシェットに近い大型の刃物のグリップエンドを見せると、そこには真鍮で眼のように意匠されて、巨大なルビーが嵌め込まれていた。


「イビルアイ(凶眼)!? ばかな、それの持ち主は死んだはずだ!」


「お生憎様。娘がいたのよ」



 マリスの父親、サンカルはネパールの山岳民族の出身で、部族の長の長男として生まれた。

 勇猛な一族は、イギリスを始めとした各国に傭兵として雇われる事が多く、英語の教育を施される。その一環と族長の後継者としての責務で、各国の情勢を学ぶためにインドへ留学した際に、サンカルはマリスの母のマリーと出会った。当初は学校内のボディーガードとしてである。


 大きな事件等には遭遇しなかったが、アメリカ人の見目麗しいお嬢様のマリーに言い寄る者は絶えない状況で、多少強引な手段に出る者も居たが、そんな連中をサンカルは難なくあしらった。


 影に日向に自分を護ってくれる、今まで自分の周囲には居なかった、実直なタイプのサンカルにマリーは好意を抱き、サンカルの方も、マリーの無邪気な愛らしさと聡明さに次第に惹かれていき、やがて恋に落ちると在学中に子供が出来た。マリスである。


 父親のフィリップからの再三の帰国要請に耳を貸さず、出産前後にもアメリカには帰らなかったマリーは、サンカルと共にインドとネパールを行き来しながら娘を育て、様々な事を教えた。


 そんな幸せな日々はマリスが四歳の時に、交通事故に遭いそうになった子供を助けてサンカルが亡くなった事で、唐突に終わりを告げられた。


 まだ若いながらも傭兵やボディーガードの仕事で実績を残し、その道の者達の間で勇名を馳せていたサンカルは次期族長であり、勇猛な一族の中で最強でもあった男の死は多くの波紋を起こしたが、そんな状況を一蹴したのがマリスだった。


 サンカルの父親でマリスの祖父である族長のナムラタに、一族の戦士の儀式を受け、自分が父の跡を継ぐ事を宣言した。

 儀式は装備を着用して数十キロの石を担ぎ、標高二千メートル級の整備されていない山を踏破するという、相当鍛えられた者でも一度の挑戦では成し遂げられない過酷な物である。


 この儀式を、四歳の女児という事を差し引いても、驚異的な短時間で達成したマリスにまだ異を唱える者もいたが、格闘戦で挑戦してくる相手を、父直伝の技術と生来の能力で全て苦も無く撃退し、反論を一番わかり易い力によって捻じ伏せた。


 父が使っていた族長の証であり、敵対した者が見ると死ぬと噂されている「イビルアイ」と呼ばれる、ルビーの嵌め込まれたククリと呼称される大型の多目的な刃物を受け継いだが、マリスが年齢的に成長するまでは長としての任は祖父のナムラタに一時的に預かってもらうという事で、事態はとりあえずの収拾を見せた。


 この後、マリスはマリーと共にアメリカに渡り、幼稚園には行かずに家庭内で教育を受ける。これはインドとネパールでの生活の時点で愛娘の能力に気づいていたマリーが、帰国してすぐに受けさせた運動能力と知能のテストで、改めて数値として出た異才が、十分な協調性があるとはいえ一般的な子供達と教育を受けさせるのは無理だという結論に達したからだ。種類は違うが、真姫と同様に天賦の才をマリスは与えられていた。


 約二年間、厳選された専門分野の教師や母のマリー、祖父のフィリップから教えを受け、自らも積極的に知識を吸収したマリスは、集団生活への適応のために初等教育学校(エレメンタリー・スクール)に登校はするが、授業の半分以上は特別なカリキュラムが組まれた。


 この状況はハイスクール進学まで続くが、既に大学の幾つかの学部の卒業条件を満たし、特に祖父のフィリップから直接教えを受けた経済や経営の論文は高い評価を受け、この分野の幾つかの資格と共に博士号を取得した。


 知識だけではなく、十六歳の時点で在籍していた大学で、運動部の知り合いに請われて計測した陸上の競技の数種類において、非公式だが幾つかのワールドレコードを叩き出した。

 驚愕の記録に場が凍りつき、何故か請われたマリスの方が気まずくなって自らその場を去り、その後は二度と公の場所で「ある程度以上の本気」を出すのは控えるようになった。


 十八歳で学校という場所で学ぶ事が無くなったと自覚したマリスの元には、在籍中から様々な分野のスカウトが来た。企業や研究機関は勿論、軍を含む政府組織に諜報、情報機関まで。スポーツ関連からも超高額のオファーが多数。


 しかしマリスはこれらの全てを跳ね除け、世界を旅する事を選んだ。知識は部屋の中でも得ることは出来るが、経験は自ら動かなければ得られない。

 時折ネパールとアメリカに立ち寄る以外の約二年間、僅かな手荷物だけを持って世界を放浪し、マリスは様々な経験と人脈を増やした。訪ねた場所は農村だったり紛争地帯だったり料理店だったり格闘技の道場だったりと多岐に渡る。


 やがてマリスは、母のマリーに請われて日本に行くことになる。たまたまネットの囲碁で対戦したが、その時は名前も知らなかった天涯孤独の身となった少女、真姫と暮らすために。

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